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秋 鈴香さん

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1/fのゆらぎ

17/02/08 コンテスト(テーマ):第127回 時空モノガタリ文学賞 【 新宿 】 コメント:0件 秋 鈴香 閲覧数:602

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 新宿駅を出たとたん、雨が降り始めた。
 よりによって傘もないこんな時に降らなくてもいいのに。冬だから寒いのは当たり前だが、風のせいか寒いというより刺されるような痛みを感じる。灰色にくすんだ空の下、コートのフードを深く被って私は彼の家へと歩き始めた。
 そう、あの日も雨だった。去年の4月、新宿御苑に桜を見に行った日。彼との初めてのデートで、快晴続きだった桜咲く春の新宿に神様は何故か突然、雨を降らせた。
 雨に興ざめしてさよならと背を向けていれば、こんな日は来なかったのに。またどうしようもないことばかりが頭を埋め尽くす。ポケットに突っ込んだ手に、もうすぐ手放す固い金属が引っかかって、心までひやりとした。
 別れの感触は何度経験しても慣れることができない。

 通い慣れた道は、下を向いたままでも容易く辿ることができた。相も変わらず何が楽しいのか雨は私にばかり降り注ぐ。
 雨音にはね、1/fのゆらぎが入っているんだよ。
 あの日、雨の新宿御苑内のカフェでむくれる私に彼はそう言った。
 えふぶんのいちのゆらぎ?
 たしか私は恥ずかしげもなく不機嫌丸出しで応えたはずだ。酷いしかめ面の私に、苦笑しつつ彼は続けた。
 そう、1/fのゆらぎ。規則性のある音と不規則な音の中間の音でね、聞く人にヒーリング効果を与えるんだよ。川のせせらぎ、風のそよぎや、小鳥のさえずりも。電車も。
 電車?私は尋ねた。彼は得意気にそう、と頷く。
 電車の揺れも1/fなんだ。がたんごとん、って揺られているとなんだか眠くなることがないかい?あれは揺れと音にリラックス効果があるからなんだよ。
 私は思わず、そんな!と声をあげた。じゃあ、私が寝過ごして遅刻しても電車が悪いのね、電車が私をリラックスさせるんだもの!
 ここで堪えきれず、彼は盛大に吹き出した。なんで笑うのよ、としかめ面に戻る私を慌てて宥める。
 そうそう、1/fのゆらぎはピンクノイズとも言うんだよ。今日の爪と同じだね。
 ふわりと持ち上げられた指先から、彼の熱が流れ込む。突然どくん、と心臓が大きく脈打つ。お願いだから爪のピンクを見ていて、どうか不細工に真っ赤な顔に気づかないで。
 雨に包まれたここ新宿で、ただそんなことを祈る私がいた。

 あの日の出来事をも大切に抱えているのは今ではきっともう私だけだ。最悪な雨をも楽しめたのは彼が隣にいたからなのに。
 彼の家はがらんとしていて冷たかった。小さくまとめられた自分の荷物を抱えてさっさと外に出る。この部屋にいるくらいなら、雨に打たれていたほうがましだと思った。ポケットの鍵をかけて管理人さんに渡し、駅に向かう。
 これでいい。これが、私たちの、最後。

 ドラマや調子のよい漫画ならここで雨はあがり、きらめく虹の下を笑顔のヒロインは次の恋に走り出す。でもこれは現実だ。神様は虹のサービスなどせず、雨は勢いを増し、人々は暗い空の下を足早に通り過ぎる。これが現実だ。
 雨なんて嫌いだ。大嫌いだ。1/fのゆらぎなんて嘘だ。なにがピンクノイズだ、可愛い名前を貰いやがって。リラックスなんてできない、気分は最悪だし、なによりもう私は彼に会えない。二度と会えないのだ。彼は突然私の前から消えた。朝キスをして見送ったのに、あんなに笑顔で元気だったのに、夜には彼は病院のベッドの上で冷たくなっていた。あんなの彼じゃなかった。いまも分からない。ねえ神様どうして。どうしてそんなにも意地悪なのですか。
 雨なんて嫌いだ。泣いているときにしか役に立たないから。独りを強く思い知るから。

 新宿駅に着き、山手線に乗り込む。壁に寄りかかり、しばらくは新宿に来られないなあとぼんやり思った。目を瞑ると次々と浮かぶどのシーンにも彼がいる。
 がたんごとん、がたんごとん。
 泣き疲れたのか、まぶたが重い。
 がたんごとん、がたんごとん。電車の揺れも、1/fなんだよ。
 どこからか彼の声が聞こえる。え、と聞き返そうにも気怠くて目も口も開かない。
 俺はいつもここにいるよ。そばにいるから。

 はっとして目を開けた。彼はいなかった。
 がたんごとん、がたんごとん。しゅーっ。
 音が響いて電車が止まり、ドアが開く。転がるようにホームに駆け降りる。頬に雨粒があたる。風が吹き付ける。雨音も風のそよぎも鳥の声も、1/fのゆらぎなんだよ。
 彼はいない。もう会えない。でも、彼はいる。雨音に風に鳥に川に、電車に、街中の音楽に、1/fがいる。彼が、私を見守っている。1/fのゆらぎに、彼に、私はいつも抱きしめられている。皆笑うかもしれない。でも構わない、私にはそうとしか思えなかった。

 涙をぬぐい、右手を高く空に伸ばす。
 まるでドラマや調子のよい漫画のように雨が止んだ空には、指先の桜の向こうで虹が架かっていた。


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