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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

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ハナと名無し

17/01/23 コンテスト(テーマ):第126回 時空モノガタリ文学賞 【 304号室 】 コメント:0件 秋 ひのこ 閲覧数:578

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『あたしを撮ってよ』
 重たい鼻声でハナが言った。
『ねえ、あたしを撮ってよ』
 うるせえな、と男は畳の上で寝返りをうち、ハナに背を向ける。
 ハナはふんと鼻を鳴らし、けだるそうに欠伸をした。
 男は黙って半目を開ける。日焼けして毛羽立ちが目立つ畳に、カップ麺の器や雑誌、空の缶ビールが転がっている。テレビのリモコンも、箱ティッシュも、耳かきも、すべて転がっている。六畳ひと間のこの部屋では、手を伸ばせば大抵のものに届く。掃除をすると落ち着かない。この雑然とした不衛生で無秩序な空間がかえって安心できた。
 あの女はいつでも部屋を片づけたがった。床も机もものがない状態を好み、リモコン立てをテレビの横に置き、扇風機を部屋の角っこに置くなど、意味がわからないことを平然とやり続けた。
 あの女もしょっちゅう、「ねえ、あたしを撮ってよ」と、不細工な丸顔でねっとりとこちらを見つめたものだ。

 男は元写真家だ。そして、現在無職。
 以前は芸能人を追いかけ、不倫や密会の瞬間をカメラに収めるのが本業だった。それだけでは食べていけず、小遣い稼ぎに有名になりたい連中のポートレートも撮った。あの女もそのひとりだ。不細工でタレント志望のわりにぶよぶよの体。しかし何故か男は気に入った。半同棲のような生活をこの狭い六畳間で1年ほど続け、ある日突然、女は消えた。
 窓につけた変な達磨の風鈴と、消える1ヶ月ほど前に女が拾ってきた猫を置いて。悪趣味なことに、自分の名前をつけた猫。
 真っ白で少々太り気味のハナは、どこかあの女に似ている。
 いつも男を見張っており、だらしない生活に眉をひそめる。

 西日が畳を焼く部屋で、男は掌に頭を乗せて横になる。
 頭上で達磨がチリリと揺れていた。暴力的な熱が去った空気は、それでも肌にまとわりつくがどこかもの足りない。もう、夏を言い訳にできなくなる。
 ファインダー越しの姿しか思い出せない女が、いまにもスーパーの袋を提げて帰ってきそうな気がする。

『ただいま。ねえ、表札つけないの? 304だけじゃ誰が住んでるかわかんないよ』
――うるせぇな。表札なんか誰もつけてねぇだろが。防犯なんだよ、防犯。
『他人の生活を盗撮してる分際で何が防犯よ。304なんて名無しと同じ。空っぽで中身がないみたい。帰る場所がわからなくなっちゃうじゃない』
――お前は馬鹿か。馬鹿過ぎるやつの考えることはわからん。

 あのあとしばらくして、女は消えたのだ。
 帰ってくる場所がわからなくなったからだろうか。
 男はふと思い立ち、のろのろと表へ出た。名前が空白なままの表札に、304の文字。隣の空き室は303。反対側の305はひとが住んでいるが、名前はおろか顔も知らない。確かに、外から見ると、どこに中身が入っていてどこが空なのかわからない。
『にゃあ』
 どこからきたのか、足元に、ハナがまとわりつく。
「お前はちゃんと帰ってこれるよな。なんだよ、やっぱり304で十分じゃねえか」
 呟き、男は部屋に引き返した。足元に転がっていた鍋をハナはひらりと避け、男はつまずいた。

 つけっ放しのテレビに、あの女が出ていた。
 化粧を変えたのか、少しはましな顔に見える。アイドルや女芸人に交じって後ろ端の席に座っていた。
「あいつ、出世したな」
 相変わらず、あの女を見る時はカメラを介している。他人が覗いた動画のカメラ、その画像を映すテレビ画面を通して。
「表札に名前入れたら帰ってくんのかな、あいつ」
 ハナに聞いてみたところでふと、男はいつの間にか自分の名前を忘れ、自分が『304』という存在な気がしてきた。304という、ハコの中身。
『そんなこといいから、あたしを撮りなさいよ』
 ハナはつんとすましてごろんと横に伸びた。テレビの明かりが下品に背中を照らし、はじめて、ああもうそんな時間か、と天井の照明をつけた。
 立ったついでに男は面倒くさそうにカメラに手を伸ばす。
 触れるたびに、喉の奥に苦いものを感じる。まだ捨てる気になれない写真家という「器」と、それではもう稼げない現実と。この部屋の外ではもう、撮れない。しがみつきを誰かに見られるのが、堪らないのだ。
 無職になり、季節がひと廻りしそうである。
 電話は鳴らなくなり、誰も、男の名を呼ばなくなった。
 304というハコの中、さらに元写真家という器の中で、名前がないまま生きていたい。生きていけたら。
『くだらないこと考えてんじゃないわよ』
 ハナが手でぴしゃりと男の膝をはたく。
 テレビであの女が短く発言し、どっと笑いが起こった。


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