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秋 ひのこさん

歯について考える時、右と左がよくわからなくなります。右奥だっけ、左奥だっけ。虫歯が絶対にあると思われるあの場所を伝えるべく「ええと、右です。そして上な気がします」と言ったら先生が「うん、上は上でも左ですよね」とか言う瞬間が恥ずかしいので、虫歯は放置しているような人間です。こんにちは。 

性別 女性
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あの江野先生なら、

17/01/14 コンテスト(テーマ):第125回時空モノガタリ文学賞【優しさ】 コメント:4件 秋 ひのこ 閲覧数:804

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 江野先生は、枯枝のようになった手足を小さく床(とこ)におさめ、毛布にくるまっていた。
「先生、お久しぶりです」
 Kは表情ひとつ変えず、丁寧に挨拶する。
「あなた、Kさんよ。20年前の教え子さん。いま、お医者さんなんですって」
 先生の妻が顔をうんと先生に寄せて紹介する。締め切った部屋の生活臭に混じり、体臭だか口臭だか、強い人間の臭いが漂っている。臭いのもとである先生にそこまで近づけるのは、妻だからこそだな、とKは思う。
 先生は「ぅあぁ」と、目玉だけ動かしてKを見た。
「いらっしゃい、って言ってます」
 妻が微笑んだ。
 先生が病で左半身不随と知ったのは、先日小学校の同級生と、医者と患者として偶然再会したからだ。小学5年・6年の担任。優しくて面白くて頼りがいがある先生。その先生が、変わり果てた姿でここにいる。

 紹介が終わると、妻は気を使って部屋を出た。Kはベッドの脇の丸椅子に断りなく腰掛ける。
 先生の右手は動くので、テレビのリモコンや飲み物はすべてベッドの右側に置かれている。タブレットもあり、部屋を出る前に妻が、細かい会話はこれでやるのだと教えてくれた。それらを眺めた後、Kは改めて先生を見た。
「本当に久しぶりですね。まさかまた会えるとは思ってもみませんでした」
 先生は読み取りにくい表情でKを見返す。
「先生、僕のこと覚えてますか。クラス全体からいじめられていたKですよ。『濡れぞうきん』と呼ばれて、自分の服や体操着で掃除させられていたKです。でも先生は、僕みたいな子にも優しく接してくれましたね」
 先生の目がわずかに見開き、「ぬぅお」と短い声がもれた。Kは安心したように微笑む。
「皆の前では。特に、親の前では」
 先生が瞬きもせずKを凝視する。
「先生、僕の母、若くて綺麗だったでしょう。母子家庭でただでさえ苦労しているのに、息子はいじめの標的。母の心労を少しでも軽くしようと、先生は心を砕いてくださった。でも、少し踏み込み過ぎやしませんか。生徒の母親と不倫して、挙句母は妊娠。中絶費用も出さず、認知もしない。転勤を盾に音信不通の雲隠れ。ね、どうなんですか」
 Kは淡々と語り、先生は何か言いたそうに唇を震わせている。
「僕のいじめは卒業する頃には自然解消しましたけど、母はそれは苦労しましたよ。父親のいない状態でふたり目でしょう。おまけに、不倫の代償なんですかね、因果応報というか、生まれてきた子は奇形児で病気もちでした」

 写真、見ます? とKは先生に携帯を見せた。いまの先生とどっちが醜いでしょうね、という言葉は、心にしまう。
「不思議ですけど、僕、この腹違いの弟が好きなんです。仲良いんですよ」
 嬉しそうに写真を眺め、「自分より弱いからかな」とぼそりとつぶやいた。
 ついに、先生が右手を伸ばした。Kは素早くタブレットを渡してやった。先生はずりずりと半身を起こし、腹の上にタブレットをのせて右手で文字盤を操作する。
『なにがのぞみd かねはない にんちm』
「金なんかいりませんよ。今さら認知も結構です。それに、母は先月過労で亡くなりました」
 先生の顔に驚きよりも先に浮かんだ安堵をKは見逃さない。目を細めて嗤った。
「それよりも弟、難病で新しい臓器が必要なんです。でも特殊な血液のタイプで、適合者がいない。悔しいですが父親であるあなたが当てはまりそうなんですよね」
 Kは医者らしく淡々と語り、おもむろに2枚の用紙とペンを取り出す。
「これ、臓器提供の意思表示の書類と同意書です。一応、この病院には弟の状況と、あなたが実の父で適合する可能性が極めて高いことは話してあります」
『いいかげn しろ ふざけrnな』
「弟は臓器提供なしにもうあと1ヶ月ももちません。臓器提供にあなたの体が耐えられるかは微妙ですが、でも先生の余命だってあと1年かそこらでしょう? どうせ死ぬなら、一度くらい人道的なことをしてもいいんじゃないですかね。ま、あくまで先生が決めることですけど」
 そう言ってKは、「あ、この台詞覚えてます?」と、麻痺とは別の次元で引きつった先生の顔をのぞきこんだ。 
「先生がよく言ってた言葉ですよ。『あくまでキミが決めることだ』って。いじめた奴らにやり返そうと思えばできる、ノーと言うこともできる、不登校という選択肢だってある。先生はいつだって最後の責任はとらない人だ。『先生がそうしろと言ったから』は聞きたくない。そうでしょう? 母には何て言ったんです? 『産む産まないはあくまでキミが決めることだ』ですか?」
 用紙が先生の右手の中で乾いた音を立て、皺を寄せた。

「弟、待ってますよ」
 そう言うとKは立ち上がり、憤怒と混乱で目一杯顔を歪める先生を見下ろす。
「さようなら、江野先生」
 Kは振り返ることなく、後ろ手に戸を閉めた。


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このストーリーに関するコメント

17/01/21 クナリ

静かながら、迫力のあるストーリーでした。
タブレットでの会話なども緊迫した空気を作り上げるのに一役買っていて、完成度の高い掌編だと思います。

17/01/22 秋 ひのこ

クナリ様
こんにちは。感想をいただきありがとうございます!
臓器移植の仕組みなどは、2000文字をいいことに随分強引に書いてしまいましたが、Kと先生の関係性やその場の空気が伝われば幸いです。
完成度が高いとのお言葉、大変恐縮です。ありがとうございました。

17/02/05 光石七

拝読しました。
Kの淡々とした語り口と先生がタブレットに打ち込む文字や表情の対比が作り出す空気感。静かなのに息を呑む、圧迫される……とても引き込まれました。
後半、Kがかつての先生の言葉を投げ返す台詞が印象的でした。
素晴らしい作品でした!

17/02/07 秋 ひのこ

光石七様
こんにちは。感想をいただきありがとうございます!
近代ツールについていけないわたしは、実は最初タブレットではなく「ノートに手書き(筆談)」という設定で書いていたのですが(汗)、偶然テレビで「いまはタブレットで会話できる」というのを知りまして、慌てて書き直した次第です……。
先生の「打ち間違い」から「心を取り乱した状態」が伝われば幸いです。
コメント、ありがとうございました。とても嬉しかったです。

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