本宮晃樹さん

ふつうにサラリーマンをしております。 春夏秋冬、いつでも登山のナイスガイ。 よろしくお願いします。

性別 男性
将来の夢 魁! 不労所得!
座右の銘 定時帰社特攻隊長

投稿済みの作品

1

門出

17/01/12 コンテスト(テーマ):第125回時空モノガタリ文学賞【優しさ】 コメント:0件 本宮晃樹 閲覧数:686

この作品を評価する

 すっかり忘れていたはずだった。高校時代は忘却のかなたであり、それがあったのかどうかさえいまや定かではない。
 いまそれが確かにあったのだと、アパートの郵便受けに投函されていた結婚式の招待状によって、疑いようもなく証明されたのだった。
 ずっとわたしのなかで澱のように淀んでいた苦い思い出が、鮮烈によみがえってくる。

     *     *     *

「日下部くんは好きな人、いるの?」香苗は今週のガソリンの値段を尋ねるような調子で、「どうせいないとは思うけどさ」
 部活の帰り道だった。陸上の短距離は全身から雑巾をしぼったかと思うほど汗をかく。真夏の炎天下でえんえんとダッシュをくり返していればなおさらだ。汗を念入りに拭き、制汗スプレーを一缶まるまる使い切る勢いで噴霧したものの、それでも臭っていないとは言い切れない。ぼくは心もち彼女と距離を取った。「勝手に決めつけるなよ」
「じゃあいるの?」
 こういうとき、どう返答するのが正しいんだ? 「いるのやらいないのやら」
「男でしょ。はっきりしたらどうなの」
「男女差別反対!」
 香苗が立ち止まった。ぼくもそうする。こちらを向いた。もう笑っていない。息を呑んだ。
「桐谷くんがね」同じ陸上部の親友――少なくともぼくはそう思っている――だ。「あたしのこと好きなんだって。こないだ言われちゃった」
「へえ」なんとかこれだけ絞り出した。「これでもう彼氏ほしいって嘆かなくてもよくなったわけだ」
 やつに香苗を好きだと相談されたとき、ぼくはどうするべきだったんだろう。あの選択は正しかったのか? 彼女のことなんか鼻にも引っかけてないという、真実から何光年も隔たった態度を取って自分に嘘をついたばかりか、進んでキューピッド役を買って出たのは?
「誰でもいいってわけじゃないよ」
「桐谷はいいやつだろ」
「日下部くんだっていい人でしょ」
「そりゃそうだ」心臓が跳ね上がった。「そうじゃないやつと『友だち』になんかならないもんな」
 夏の傾いた陽が彼女の顔に濃い陰影を落としている。そのせいで表情はわからなかった。
「あたし、どうすればいいと思う?」
「なにか桐谷と付き合えない理由でもあるのか」自分を売り込もうとする強い誘惑は振り切ったものの、この問いかけは姑息だったと思う。「ほかに好きな人がいるとか?」
「いるよ。誰だと思う?」
 時間が止まった。突き刺さるほどのまっすぐな視線。全身から冷や汗が噴き出してきた。制汗スプレーをまた買ってこなくては。
「見当もつかないな」

     *     *     *

「それでは次に、新郎桐谷さまのご親友である日下部真琴さまに、スピーチをお願いしたいと思います」
 まばらな拍手のなか、猫背気味に登壇する。こういう場をうまいこと乗り切れたためしがない。懐から虎の子のカンペを取り出し、もごもごとあいさつをする。
「ぼくと桐谷薫くんはともに陸上部で競いあったライバルで――と言っても短距離のタイムじゃなしに、もっぱらどっちが先に彼女を作るかとか、まあそういう俗っぽいことで勝負してたんですけどね」
 幸いこの寒いユーモアに目くじらを立てるやつはいなかった。参加者はすでにだいぶできあがりつつあり、風采の上がらない男の小話なんかに聞き耳を立てているようすはない。
「そんな代わり映えのしない毎日のなか、陸上女子にかわいい娘がいるって事情通が情報を仕入れてきたんです。それが新婦の香苗さんだったわけですね」
 だんだん披露宴会場がぼんやりしてきた。酔っぱらいどもの喧騒が遠のいていく。
「ぼくたちは早速向こうへくり出していって、お目当ての彼女をうまいこと引っかけることに成功したんです。香苗さんの気を惹くために薫くんがどんな無茶をやらかしたかは、ここではちょっと言えませんね」
 脳裏にありありと当時の情景が浮かんでくる。まるで昨日のことのようだ。
「そのあといろいろあってめでたく二人が付き合い始めて、ぼくはすごく……嬉しかった。二人にはうまくいってほしかったんです。だからこうして今日、幸せな日を二人が迎えたことを誰よりも強く祝福したい。ぼくは」いつしかスピーチはカンペから大きく逸脱していた。「ぼくは二人のことが大好きです」
 お節介なやつが控えめに拍手を始めた。あとはもう雪崩みたいなもので、万雷の大波である。ハンカチで涙をぬぐって降壇すると、ただ一人事情を知っている当時の友だちが黙って肩に手を置いてくれた。
 決めた。
 わたしはいまこの瞬間から、自分のために精いっぱい生きる。人と衝突するのが怖くて好きな女の子を諦め、それを友人に対する気配りとか優しさとかで粉飾してごまかすような、そんな消極的な人生ではなしに。
 今日は門出の日だ。桐谷夫妻とわたし、三人の新しい人生が始まる。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン