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椎名 御軌さん

静かで、重たくて、淡いものを好みます

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将来の夢
座右の銘

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シオン

17/01/11 コンテスト(テーマ):第98回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 椎名 御軌 閲覧数:842

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 車軸を流すような雨の中、昼か夜かも分からない黒の中で彼はもがいていた。まるで、雨に濡れることで己の輪郭を保とうとしているようでもあった。時々溺れかけの金魚のように天を仰いでは、口に流れ込む水分に閉口する。右の手に携えた鈍色の鋭角から、色も分からぬ雫が落ち。

 彼は、ただ時を待っていた。
 ――――いや、ただ静かに苦痛をやり過ごしていたとも言えよう。

 遠くに滲む街灯の下にその姿を見つけた時、彼の心は震えた。恐怖ではない。ただ純然な期待の喜びである。その赴くままに駆け出そうとする身を抑え込んで、彼はただ雨がその身を打つに任せた。彼の内に巣食う獣が咆哮を上げていた。彼の理性を食い荒らしていた。それでも彼は、彼女が己の目と鼻の先までやってくるのを待った。確実に仕留めようなどという計算は片隅にもない。ただ動けない。この先に起こることが余りにも眩しく思えた。
 とかく彼は、鋭角の感触に期待していたのだ。
 彼女が己の目と鼻の先まで来た時、獣の咆哮は彼の全身を食い破って溢れだした。右肩に走る衝撃。閃光のように走った電撃が彼の腕を突き抜け、鋭角から迸り、地面に倒れた彼女の髪が幾束か断たれてアスファルトに溶けた。恐怖に見開かれた少女の目。満月のように大きな漆黒。その中に彼は己の姿を捉えた。影になったその姿はまさしく獣のそれであり、彼は雨音をつんざいて吼えた。どこまでも己の存在を高らかに歌い上げ、そして咆哮の走るままにその満月を貫く。激しく打ち付ける雨粒の中に鋭角は雷光の如く閃き、流れ出した鮮血は闇をより深いものとした。彼の内から溢れ出した漆黒は、最早彼を保っていた輪郭を完全に吹き飛ばし、景色を満たす闇と混じり合ってそのものとなり果てていた。
 だが。彼は唐突に動きを止めた。それは実に彫刻のように完全な静止だった。何故ならば彼の視界に入った彼女が、実に柔らかな微笑みを浮かべていたからだ。彼女は泣いていた。しかしそれを補って余りある幸福感を、彼女はその表情に溢れ出させていた。

 彼女は吐息に乗せて何事かを呟いた。
 吐息に晒された彼の輪郭は息を吹き返した。

 そして我に返った彼は彼として闇の中から立ち上がり、車軸の雨の打つ如き衝撃に身を貫かれて立ち竦んだのだった。

 〜 * 〜 * 〜 * 〜

 磨き上げられた純白の廊下は清潔感に溢れているが、同時にその絶妙な薄暗さは、病院独特の匂いと共にどこか非現実的な雰囲気を織り上げていた。重たい空気の中を進むのはこれが何度目だろうか。僅かに走る花の香りに緊張を深めながら、色鮮やかな花束を持った男はそこを進んでいた。目的の扉の前に立ち、深呼吸を挟んで、遠慮がちに扉を叩く。

「起きてます、どうぞ」

 か細くはあるがガラス玉のような、どこまでも澄み切った声。それは彼の抱えた密室を揺さぶるのに充分であった。一瞬フラッシュバックした映像に彼はびくりと体を強張らせたものの、もう一度大きく深呼吸をし、スライド式の扉を一気に押し開けた。
 小さな個室の中、真っ白なベッドの上に、少女は身を起こしていた。
 開け放たれた窓から涼しい風が吹き込み、真っ白なレースのカーテンがこれでもかと軽やかに揺れる。そしてその手前、不自然な長さで切られた黒髪、両目を隠すように巻かれた包帯、そして折れそうなほど細く白い手首から伸びた点滴のチューブを、纏う少女。一度にその全てを見てとった彼は、思わずそのまま凍りついていた。

「お待ちしてました。……どうぞ。座ってください」

 対照的に、僅かに顔を彼へと向けた少女は、包帯付きでも分かるほどにはっきりと優しく微笑む。だというのに彼は一層何かを押し殺そうとでもするような慎重さで扉を閉めると、ゆっくりとした足取りで室内に踏み入った。まるで能面のように無表情なまま、ベッドの傍らの一人掛けソファーに腰掛ける。純白に満ちた部屋は清らかだ。彼にはそれが、己という存在を浄化して消し去ろうとしているかのように思えた。拒絶、或いは敵愾心ともいえる何かをこの純白は抱えている。それに排斥されるべき漆黒の塊として、彼はそれを痛烈に思った。
 密閉された空間特有の緊張感が、部屋に漂う。

「お花、持って来てくださったんですか?」
「……はい。今、花瓶に」
「いや、いいですよ。来ていただいたのにそんなことまで」

 少女はそう言って目の前に腕を伸ばし、彼から花束を受け取った。僅かに沈みこんだ腕がそのまま折られ、柔らかく花束を抱く。静かに息を吸い、鼻腔を満たす香気に微笑を深め。微かな風が香りを散らしていくが、彼の嗅覚はそれを受容しようとしないのだった。密室は今や虚無の巣窟と化していた。見えない花に目を向ける少女の様子を見ることなく、彼は視線を足元に落としたまま、僅かばかり居心地悪そうに身じろいだ。
綻んだ少女の口元は、一瞬何かを躊躇うように。

「――――どうして、私を刺したんですか」

 微笑みながら花束を見つめた、そのままの体勢で少女はぽつりと零した。弾かれたように上げられた彼の目線は、しかしそのまま元の位置へと戻され。揺さぶられた脳裏にうっすらと聞こえ始める、雷鳴。

「……それは……」
「あ、いえ。言いたくなかったら、別に良いんです」

 言いかけた彼を急かすこともなく、少女はただそっと、顔を僅かに彼の方へと戻した。純白の向こうから向けられる真っすぐな視線に、彼は向け直した目を背けることすら出来ず、ただ凍りついたように見つめ返すだけだった。彼女の眼を潰しておいてよかったと、彼は罪悪感で背骨を絞り上げながらそんな事を思った。あの満月に見つめられれば最後、彼の防壁は一瞬で崩壊していただろうと思われたのである。それを必死に取り繕いながら、彼は辛うじて表情の変化を隠していた。

「やっぱり、言うの嫌ですか」
「いえ、ただ……貴方を、壊してみたかっただけです」
「……違うのでは」

 彼が答えようとしないのを少女は急かそうともせずに、ただぽつりとそれだけを純白の空間に落とした。滲みだしている疑問が彼の仮面の隙間に指を伸ばしてきて、怯えるように拳を握りこむ。もしや少女には全てが見えているのではないかと、彼は一抹の不安を覚えた。

「もしそうなら、私はここにいないでしょう?」
「でも、壊れたものと死んだものは違います」
「なるほど……」

 少女は納得いかなそうに、少し考え込んだ。

「じゃあ、私のことはどこで?」
「――――毎日、通学してる貴方を見てましたから」

 そんな答えは気に入らない、とでも言いたげに、少女はもう一度首を傾げて唸る。揺れた花が擦れ合って、囁き声のような音を発した。
 ふと、少女は視線を上げた。

「じゃあ、何故あんなに怯えるような顔をしていたんです?」
「――――っ」

 思わず飲んだ息は、少女の耳にもしっかり届いてしまったらしかった。

「図星ですか?」
「い、いや、その」

 返した声が完全に震えてしまって、彼はそれ以上の反論を諦めた。これ以上の抵抗は無駄らしいということを、彼はこの短時間に悟っていたのだ。少女と彼は言わば、鏡を挟んで向かい合う実体と虚像であった。少女に彼は己自身を見出した。故に彼は、己を描き出すことを諦めたのだ。

「そういう嘘、やめましょう?」

 ぽつりと、柔らかな言葉が零れおちる。それを聞いたそばから男は、己が必死に繕っていた無表情の仮面が静かに崩れていくのを悟った。少女は先を問うように首を傾げるだけで、何を言うこともない。重い沈黙、その奥から湧き上がるような咆哮をかき消そうとでもするように、言葉は堰を切って溢れ出した。

「――――分からないんです。なんかもう、何も分からないんです。こんなこと言ったら無責任ですけど、だけど、本当に何があったわけでもなくて、それなのに――――何て言うか、何もやる気になれなくて、何をしてもいい気になって、それで、何か分かるかなって、そんな、ことで」

 それは彼の人格の流出であり、押し殺されてきた彼の芽吹きであった。今や雷鳴は彼の全身を満たし、咆哮は言葉となって吐きだされていく。今そこには漆黒に濡れた獣がいた。それが、彼そのものであった。

「……本当に、何もなかったのですか?」

 少女の言葉に彼を責める響きは一欠片も無かった。それは少女自身望んではいないことのように見えた。だが彼の理性は冷静にその事実を否認し、なおかつ投げ捨てた。彼はそれを認めてはならないのだ。自責の念を捨てることは出来なかった。それは彼の人としてのアイデンティティであり、そして、彼の持つ最後の牙城であった。

「……こんなことで許されるはずが無いです、分かってます。貴方は俺のことを認めちゃいけないんです……だから、俺は何も無いとしか言いませんし、言えません。――――そういう、ことです」

 僅かうなだれる彼の左肩を、そよ風が吹き撫でていく。ざんばらの黒髪が微かに揺れて、少女はふと微笑んだ。

「……手を、お貸し願えます?」
「手?」
「はい。宜しければここへ」

 少女は花束を足先の方に置いてから、右手の平を上に向けて、己の腿の上に置いた。少し躊躇ってから、彼は左手だけをその上に重ね。少女は更に左手を重ねる。包み込んできたそれはガーゼと包帯でぐるぐる巻きにされているのに、彼はその中にはっきりと脈打つぬくもりを感じた。

「ひとつお聞きします」
「はい」
「……貴方は、私を刺して。それで、ほんの少しでも、ほんの一瞬でも、どんなに間違ったことでも、楽になれましたか?」

 顔を上げた彼の見開いた目に映ったのは、己に殺されかけたはずの少女の、柔らか過ぎる微笑みだった。それは正に純白。その視線は花束の方へ向いていたが、彼は少女の満月を覆う純白から目を逸らせずにいた。

「私は……貴方の役に立てましたか?私は少しでも、貴方の生き方を、貴方の人生を、良い方向に変えられましたか?」

 彼は逡巡した。そして十数秒の空白の後、ほんの微かに、頷いて見せた。途端に少女は、微笑みをはっきりとした笑顔に変えた。

「――――良かった」

 その一言を搾り出すように言って、少女は笑う。笑っているというのに、何をどう考えてもその声音は泣いていた。彼は唖然とするばかりだった。少女の一切が彼には理解できない。それは、獣を相手にするかのように。

「……どうして、貴方が泣くんですか」
「嬉しいんです」

 その答えもやはり、彼の予想を超えていた。

「私は、刺して清々したって言ってるんですよ?」
「分かってます。私は……貴方の役に立てた、初めて他人の為になったんだってはっきり分かったんです。こんなの滅多にないことですよ」
「でも、でも俺は、貴方を殺そうとしたのに」
「ええ、確かに。――――でも、あの時貴方に殺されて死んだって、歳を取ってから死んだって、それは私にとってそんなに変わりが無いんです」
「そんな、ありますよ」

 彼は自分で驚くほど勢いよく否定した。少女は宥めるように手をさすり。

「いや、私にとっては無いんです。貴方はこの先を生きればもっと沢山楽しいことがあると言いたいのでしょう?それを本心から言えます?」
「言えます!」
「……そう思ってたなら、私を刺さなかったのでは?」

 彼は言葉に詰まった。密室の震えが勢いを増した。

「楽しいことがあるなら、辛いことだってそれ以上でしょう?それに」

 動揺する彼を見て、少女は小さく首を傾げる。いつの間にか咆哮も雷鳴も聞こえなくなっていたことに、彼は全く気付いていなかった。

「私は、人生って生まれた瞬間に敷かれた変えられないレールなんだと思ってるんです。人はただその上を、走るだけなのだと。世の中の全ては予定調和で、どうしたって運命は変えられないもので。そう思ったら何をしようとも思えなくて、そして同時に、何をしても良いんじゃないかって思ったんです。……もしかして貴方も、同じように考えたのでは?」

 茫然と首肯した彼に、少女はほっとしたように笑顔を浮かべた。

「良かった。そう思ったから、貴方に来てもらったんです。どうしても伝えたくて――――私は、貴方のしたことを肯定する、と」
「肯定、する……?」

 又しても度肝を抜かれてしまった彼に、少女は相変わらず柔らかな笑みを浮かべて続ける。ほのかな花の香りが、鼻腔をくすぐって抜けた。

「世間様から見れば、私は悲劇のヒロインで、貴方は無責任な殺人未遂者でしょう。だけど、私は将来貴方と同じことをするかもしれないと思っていたんです。昔からそうだったんです。それを、知っていてほしかった」
「でも俺は……」
「いえ、自分を責めないでください。それは私を責めるということです」

 少し冗談めかして言って、少女は小さく笑う。

「なんでもそう、責めすぎたらダメです。世の中は否定だけじゃ成り立たないから。色んなものを肯定していって、初めて『やるべきこと』は見えてきますから。だから私は貴方を、そして私自身を、肯定するんです」
「……俺には、貴方の言うことがよく分かりません」

 少し困ったように言う彼を、少女は見つめる。

「いいえ、良いんです。きっといずれ、分かりますよ。それが分かって、貴方が自分自身を肯定できるようになるまでは、私が肯定します。人は誰も、己のうちに獣を飼う。でもそれを否定してしまったら、人は輪郭を失ってしまうから。自分は自分でいいんです。自分でなきゃダメなんです」

 少女は畳み掛けるようにそう言って、暫く考えてから、脚の上の花束をまた抱え上げた。中にあった紫苑を一本抜き取って、彼の手に乗せ。

「私とひとつ、約束してくださいませんか?」
「……俺に出来ることなら」
「ええ。この紫苑が枯れるまででいい、私のことを忘れないでください」
「――――忘れられるわけが、無いです」

 少女は首を横に振った。それを追うように紫苑が、花の香が、揺れる。

「私個人、ではなくて。貴方を想っている全ての人のこと、貴方を肯定する全ての人のこと、ずっと――――ずっと、忘れないでいてほしいんです」

 必死な色を声に滲ませて言う少女に頷いて、彼は紫苑を受け取り。

「これは一体、何本目の紫苑ですか」

 そう聞いた男に、少女は平然と答えた――――例の、微笑を浮かべたまま。

「今日で、1825本。あれからちょうど、5年です」

 〜 * 〜 * 〜 * 〜

 今日も、彼は起床時間より少し早めに目覚めた。これから起きる予定の変わり映えしない日々に、小さくため息をつき。
 ――――ふと目線を下げたその先には、上品な紫色をした紫苑が一輪握られていた。驚いた素振りは見せず、ただ微かに、彼は微笑む。

「貴方を想っている全ての人のこと、忘れないでください」

 そう言って彼に希望を与えた少女は、もう既にこの世にない。だが少女が彼に見つけさせたものは、彼に託したものは、今なお彼の貴重な持ちものであり、その全てでもあった。彼の密室は、紫苑に満たされた。
 紫苑。遠方にある人を思う。思い出。追憶。君を忘れない。今の彼にはその意味がはっきりと分かる。雷鳴も、咆哮も、輪郭も、彼はしっかりと抱きしめてきた。ここまでも。そしてこの先も。

「俺はこれからも貴方達のために生きます」

 内心で小さく呟いて、彼は紫苑に鼻を寄せ、鼻腔を満たす香気に酔う。


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