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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
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やおよろずの一人

12/10/29 コンテスト(テーマ):第十八回 時空モノガタリ文学賞【 コーヒー 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1965

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 竜也は朝おきるとまず、手動のコーヒーミルでコーヒーを挽いた。挽いたコーヒーに湯をそそぎ、たちのぼる香りが狭いアパートの室内に満ちてゆくのをまって、彼の一日ははじまる。
 しかしこれからはじまる一日は、彼にとって、いや世間にとっても、おそらく地獄といえるものにちがいない。彼の目は、昨日ホームセンターで購入した、まだ封も切ってない包丁をとらえた。
「この包丁がいったい、何人の血で汚れるのだろう」
 まるで他人事のような調子で、竜也はつぶやいた。事実彼は、これから自分がとるであろう行動のことは、まったく意識になかった。その部分はぽつんと途切れていて、そのあとにくる、陰惨きわまる光景だけがありありと、未来でありながらまるで過去の出来事のように彼の頭に生々しくよぎった。路上に倒れる何人もの犠牲者を包丁片手に茫然とみおろしているおれの姿………。
 人並みな暮らしはいまこのときで終わりこれからは、人間でないなにか機械仕掛けででも動いているような生がはじまる予感が彼をとらえた。これまで人間としての生は彼になにももたらしてくれなかった。自分をそんな無機質な、機械的な生へ追いやったのはむしろ、世間のほうなのかもしれない………と彼は、それがいかに身勝手な理屈とも気がつかずに、つぶやいた。
 いれたてのコーヒーの香りが、いままた彼の鼻さきをかすめた。このコーヒーだけが懸命に彼を、人間にひきもどそうとでもしているかのようだった。たしかに毎朝、挽いたコーヒー豆の匂いにふれたときだけは、人間らしい気持ちにひたれた。コーヒーの香りにまつわる自分の過去が――まだ人間を信じることができ、みんなといっしょに笑い、ともに喜んだ記憶がたちのぼる香りとともに蘇ってきた。
 それもこれももうおしまいだ。彼は、カップのコーヒーをのみほすと、包丁の封を剥がしにかかった。
 ドアの外で人の声がきこえた。
「なんていい香りなんだ」
 竜也がたちあがって、玄関まで足を運び、相手をたしかめもせずにドアを開けたのは、ほかならぬ自分がいれたコーヒをほめられたからにほかならない。かつてはこのようにして、知人たちにコーヒーをふるまったものだった。
「わたしにも一杯、いただけないでしょうか」
 風采のあがらない老人が、彼にむかって頭をさげた。
「いいですよ、どうぞ」
 竜也はじぶんのなかにふたたび、あたたかな血が流れはじめたような気分になった。しかしまだその目の端は、例の包丁をしっかりとらえていた。
「やっぱりコーヒーは、挽きたてにかぎりますね」
 彼にうながされて老人はひとつしかない椅子に腰をおろすと、フィルターのコーヒー滓をのぞきこみながらいった。
 竜也は無言で、来客のためにいれた新たなコーヒーを相手にさしだした。老人は、うなずいて、カップを手にし、コーヒーをすすった。
「うまい。インスタントにはだせない、深みのある味だ」
「わかってもらえて、うれしいです」
 彼もしぜんと素直な気持ちでこたえていた。
 老人はそれからも、ひと口ひと口、味わうようにゆっくりとコーヒーをのみつづけた。
「手間ひまかけてコーヒーをいれる人というのは、人生にも深みをもとめる人にちがいない。あなたをみていると、ほんとうにそう思いますよ」
「そんなこと、ありませんよ」
 てれたように竜也は笑った。
 老人はそれ以上、多くは語らかった。世間によくある年配者のように、一方的にじぶんの話ばかりまくしたてるようなこともなく、彼にいれてもらったコーヒーを、しみじみとのみつづけた。
「いや、どうも、ごちそうさまでした」
 たちあがりかける相手に、竜也はいった。
「またいつでも、コーヒーの香りがしたら、部屋をたずねてください」
「いいのですか?」
「遠慮はいりません」
「それはうれしいな」
 老人は幸せそうに目を細めると、なにを思ったのか、ちょっとついでにといったふうに、卓上の包丁をとると、流しの扉をあけて裏側の、包丁入れにそれを立てた。
「しまっておきますよ」
 流しの扉がしめられたとき、竜也にはもう、その包丁を必要とする気持ちは完全に消え失せていた。
「あの、お名前は?」
 玄関をでていこうとする老人に、竜也はたずねた。
「やおよろずの一人とでも答えておこうかな」
 なんのことかと、竜也が首をかしげたときには老人は、すでに歩きだしていた。
 ひとりになった竜也は、なおも老人の言葉にこだわっていた。
 やおよろず、やおよろず………
 彼が、八百万の神に思いいたったのは、それからしばらくしてからのことだった。
 たしかに彼は、おれにとって、またもしかしたらおれに命を奪われていたかもしれない人々にとっての、神様そのものだった。
 竜也は、むしょうにもう一杯のみたくなってきて、ドリップコーヒーの支度にとりかかった。


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