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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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あなたのすべて

12/10/22 コンテスト(テーマ):【 書店 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1809

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 歩くにつれて、霧が、子犬のように足にまつわりついてきた。
 いつしかそれは、もうもうとさかまいて、まるで乳白色の川の中を歩いているような錯覚を日乃木景雄に抱かせた。
 たしかここは、町のどまんなかのはずだった。ごぉーっと電車が走り、マンションの窓々にはぼちぼち灯りがともりだし、自分の前後には会社がえりの人々が、せわしげに行き来していた。山岳地帯や高原ではない。そんなわかりきったことを今一度確認しなければならないほど、いきなりわきだした深い霧は景雄を困惑させた。彼が詩人なら、この霧に包まれた非日常の世界をあらわす言葉の吟味に喜びをおぼえたかもしれない。
 彼はしかしそんなものとは無縁の、ごくごく現実的な人間だった。このときの彼も、最近出版されるやたちまちベストセラーとなった『金儲けの方法』という本にひかれて、最寄りのどこか書店をめざしていた。その本の代金は二千五百円もして、失業中の彼にはとても手が出せなかった。それで彼は、何日かかってもいいから、いくら店員に嫌がられようとも、立ち読みで読破しようと意気込んでいた。彼の金儲けは、まずそこからスタートしなければならなかった。
 あらゆるものがかきけされて、どちらに進んでいいものやら、それさえさだかでなくなった彼が頼りとするのは、霧の只中にそのときぽつんとあらわれた、一点の光だった。その光には人の温もりのようなものが感じられ、こちらにすすめば大丈夫だよと、まるで優しく導いてくれているようにさえ思われた。まさに山中や、渓谷において濃霧にみまわれ、進退きわまった旅人が、すがりつくのはきっとこんな光にちがいない。
 景雄は光にむかって霧のなかを歩きつづけた。
 すすむにつれて、その店らしい建物内にならぶ、本の背表紙がみえてきた。なんのことはない。深い霧に道をさまたげられ、迷ったあげく光に誘われてやってきたところは、景雄が最初からむかう予定にしていた書店だったのだ。
 奥に細長い書店には、客も店員もいなかった。古本屋でないことだけは、書棚のまあたらしい書籍をみればあきらかだった。
 いまこそ立ち読みのチャンスとばかりに景雄は、例の『金儲けの方法』をさがした。十分ばかり、しらみつぶしにさがしたあげく、ついに目的の書物はみつけだせなかった。
 なぜか、手にする書物はどれも、『あなたのすべて』という題名だった。『金儲けの方法』しか頭になかった景雄だったが、さすがに途中からおかしいことに気がつきだした。
 どうして同じ本ばかり、ならんでいるんだろう………。
 一本の作品の続編とかではなく、文字通り、まったくおなじ書物だということは、何冊もひらくまでもなく瞭然だった。
 小首をかしげながら景雄は、ぱらぱらとその『あなたのすべて』をひらいてみた。
 まっさきに、1975年9月25日という、彼の誕生日が目にとびこんできた。次いで母の名が美奈子、父親は武雄。義一という二つちがいの兄がいることも記されている。おれの家族構成がどうしてここに………。何ページかをとばしてひらいたページには、彼が6歳のとき、母親が使っていたアイロンにさわってやけどしたことが書かれていた。さらにその年の秋、飼っていたトロという名の犬が、フィラリアで死んだ記述があった。それからもページをくっていくうちに彼は、どのページにも、自分の幼少時の出来事が事細かに記載されている事実を知った。そのなかには彼の記憶からこぼれおちたできごとも多々まじっていた。たとえば7歳のとき、母が突然家を出ていき、三か月後にもどってきたこと。遠い記憶では母が入院したとはおぼえていたが、本には母は、だれか男性のところへいっていたと書かれている。10歳のとき両親は離婚した。兄がぐれだし、何度も警察が兄の件で家をたずねてきた。このあたりからの記憶は鮮明で、ページにあらわれる自分や肉親に関する内容はすべて彼の脳裏に痛々しく刻みこまれている。
 景雄は、ページから目をそらした。彼にとって、過去はすべて忌まわしいものだった。これまでしらずにやってきたことの、真実がいまさらわかったところでなんになるというのだ。彼は無意識に、分厚い書物の後半部分をひらいていた。そこには、彼が霧のなかをとおってこの書店までたどりついた経緯が、まさにリアルタイムで書かれていた。彼が過去から目をそらし、本の末尾ちかくに目をおとしてから後、どうなるかは次ページをめくらなければならなかった。彼の指は、ためらった。これからさきは、未来ということになる………。
 景雄はしかし、書棚に本をもどした。暗すぎる過去を過ごしたものに、未来の明るさを思い描けと注文するのはむしろ酷というものだ。彼はおもむろに、書店から外に彼ふみだした。   
 霧がまたざわざわと、彼の足にまとわりついてきた。
 書物の記述は、続く―――


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