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本宮晃樹さん

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水分子のおよぼすバタフライ効果について

16/11/11 コンテスト(テーマ):第121回 時空モノガタリ文学賞 【 捨てゼリフ 】 コメント:0件 本宮晃樹 閲覧数:789

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 聞くに堪えない辛辣な言葉というのは、しばしば本人の意図しないまま反射的に飛び出るものだ。
 その日、非常に些細なきっかけ――たぶん使ったコップをそのまま戻すなとか買い出しを頼んでいた柔軟剤がいつものとちがっていたとか、そのたぐい――で勃発した恒例の夫婦げんかはいつになくヒートアップしていた。
 罵詈雑言が互いの頭上を飛び交い、いよいよボルテージが最高潮に達したそのとき、ほかでもないわたしの口から次の台詞が飛び出した。
「死んじゃえ」
 目を剥いて絶句している夫をよそに、バッグを肩にかけてアパートを飛び出した。どこかにいく当てがあるわけではなかったが、あのままとどまるよりははるかにましだった。
 その夜はカプセルホテルに泊まった。一晩中夫への憎悪が渦巻いて眠れなかったが、それはすぐに消し飛ぶことになる。
 翌日、夫が交通事故に遭ったことを知った。
 わたしを追って車道に飛び出したのが原因だった。

     *     *     *

「植物状態ですね、いわゆる」医師はこめかみを揉みながら、「皮質の一部が虚血死してます」
 わたしのような一般人からすると、医学用語は呪文に等しい。「それで、つまり?」
「意識回復はまず絶望的でしょう」
「なるほど」巨大なハンマーでがつんとやられた気分。「なるほど」
 死のような沈黙が数世紀ほど続いた。だしぬけに医師がぽつりと、「どうされますか」
「どうされますかとは?」
「昨今は深刻な病床不足でしてね」彼はますます強くこめかみを揉んでいる。「回復の見込みのない患者さんにいつまでも居座ってもらうと、回転率が鈍ってしまいまして」
「それで?」久しぶりに他人に殺意を覚えた。「夫に死ねと言ってるんですか」
 オランダでの安楽死法案が比較的成功裏に終わったことを受けて、この国でも尊厳死の名のもとに合法的な殺人が大流行しているのだ。病院側としては認知症老人や植物人間――夫のような――やらを長期間抱えなくてすむというメリットがある。消費者側は指数関数的に累積する入院費を削減できる。誰も困らない。ただし当該の人物がそれでもなお、愛されている場合は話がべつだ。
「そうは申してません」人でなしは上目遣いで弁解がましく、「でもみなさんそうしてますよ。たいていの場合にはね」
「病院と居酒屋の経営理念が同じだとは思いませんでした」
 人でなしは肩をすくめた。「よしなに」
 よろしい。よしなにしてやろう。わたしはデスクに両手を勢いよく叩きつけて立ち上がった。上から慈悲深い医師を睨みつける。「入院手続き、よろしくお願いします」

     *     *     *

 これで何百回めになるだろう。今日も仕事帰りに病室へ寄り、最愛の人の手を握る。彼はいつも通り静かに寝息を立てている。カレンダーをふと見上げると、あの日からまる三年が経っていた。新幹線に乗っていたかのようにあっという間だった。それと同時に糖蜜のなかを泳いでいたかのようにゆっくりでもあった。
「見て。桜が咲き始めてるよ」
 背もたれのない簡素な丸いすをベッドの裏から引っ張り出してきて、腰かける。思い出すのは楽しかった記憶ばかりだ。これは控えめに見ても不合理のように思える。わたしたちは率直に言って、不仲だった。けんかしているのが常態でさえあった。それでもわたしにとって、夫はこの地球上に(そしておそらく全宇宙にも)彼一人しかおらず、それはほかの誰にも代役をこなせないスタントマン泣かせの役回りだったのだ。
「今年は一週間くらい早いらしいよ」
 もし彼が目覚めたら最初にすることは決まっている。ずっと気に病んでいた。ずっと心にわだかまっていた。もちろんあの思慮を欠いた捨て台詞が言霊とやらになって夫をこんな目に遭わせたはずはない。なんの因果関係も相関関係もない。それはわかっている。それでもわたしは――夫に謝りたい。そして自分勝手で恥知らずなのは百も承知だが、許してほしかった。
「ごめん」自分でも気づかないまま、つぶやいていた。「死んじゃえなんて言ってごめんね」
 ぽたぽたと夫の手の甲に水滴が垂れた。『白雪姫』かなにかなら、この尊ぶべき美しい涙が生命力を活性化し、彼を目覚めさせるにちがいない。だがあいにくここは現実だった。そこは厳然たる物理法則に支配されており、取るに足りない水滴がニューロンの可塑性を刺激して、再び息を吹き返させるだなんてことは起こらない。
 ベッドの中身がもそもそと動く気配がした。
「いま何時だい」
 わたしはちらりと腕時計に目を落としてから、嬉し涙でくしゃくしゃになった不細工な顔でにっこりと微笑んだ。「夜の七時すぎだよ。遅いよ、起きるの」


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