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結簾トランさん

お話を書くのが好きな、結簾トランと申します。紅茶とケーキと古めのものも好きです。よろしくお願いいたします。

性別 女性
将来の夢 たのしいお話を生み出す人になりたいです。
座右の銘 「結局俺たちに選べるのは、やるかやらないだけなんだ」FFXのジタンの台詞です。

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本棚の小宇宙

16/11/06 コンテスト(テーマ):第93回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 結簾トラン 閲覧数:627

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個人的には規則性があって、これは確かに理路整然と並んでいる。例えば真ん中。パンの本、調理の本、すこし休憩して海外文学のビジュアルブックや絵の本が来て、またチーズの本に戻る。アート系の本の中に茶道の指南書が混じっているのも、文字通り「ちょっと一服」という配慮だ。自分への。あ、ないだろうか、こういうルール。

絵本は大きさも装丁も多彩だから、下の棚へ。鮮やかな漫画は所々へ華を添えるように。柔らかい本、硬い本、古い本には感じの良い匂いと手触りがあって、また新しいものには新鮮なインクと生まれたばかりの文字が詰まっていて、いずれもそれぞれにうつくしい。

古いものの中に多いのだが、それはそれは豪奢な設計を施された本がある。比較的地味な本箱からするりと抜き出すと、紅、または群青、時には緑の細い糸で精巧に編み込まれた宝物が登場する。何度引き抜いてもハッとするので、つい無駄に何度も引いてしまったりする。箱に守られたこのタイプの本は、老いてもなお可愛らしさを忘れないグラン・マザーと似ていて、いつまで経っても若々しい。佇まいだけでその上質な半生を慮ることが出来るような気がしてしまう。実際箱入り娘だったのだろうね。中身も大体二段以上の、ちいさい文字が沢山綴られているものが多いから、読後の充足感も十分に期待できる。これがつまらなかった、おっと、肌に合わなかった場合の末路も比例してしまうことはまぁ、懸念として常に存在はしているのだけれど。

本棚は見ただけで木で出来ているとよくわかるものが好きだ。白木の猫脚の棚にちょんちょんと並ぶ暗い色の画集たち。黒い重厚な書棚に、世界各地の城などを収めた繊細な白い本など、想像するだけで楽しくなる。本棚と城は似た者同士だ。開くと全く違う世界を包括している。そういう意味で、本棚は無限の可能性を秘めた小宇宙だといえなくもない。宇宙は伸び縮みするそうだから、規模の概念など大した問題ではないだろう。晴れた日にブランコに座って、ひたすら上を眺めてみるのが好きだ。そうすると空と空に向かって伸びる鎖しか見えなくなって、自分と大地の感覚が曖昧になってしまい、規模の概念など如何に簡単に崩れるかがよくわかる。ように思うのだが、周りに試してくれた人がいないので、今のところ自分だけの持論となっている。ブランコはひとつ庭に欲しいくらいよいものだ。
話が逸れてしまった。
城、そう城も表面上はこの上なく規則正しい。城も森や湖、山や海に溶け込むように聳え立っているけれど、その実両開きのドアを押し開けてみると深紅に染め上げられた世界が待っていたりする。緋色の絨毯、緋色の壁、壁画、彫刻。もう一度外に出て一呼吸しなければならないほどのギャップを隠し持っていたりするから気が抜けない。本も侮っている(侮るまですることはあまりないが)ときほど、泣かされる。胸に大砲を撃ち込まれる。大体固まってきたんじゃないかとタカを括っていた価値観に新たな見方を捻じ込んでくる。やっぱりなんだか似ている気がする。

そういえば、雲の種類は、人間が決めたルールを信ずるとすればの仮定であるが、十種類しかないそうだ。空に魅せられた写真家は古今東西多いだろう。自分も空を眺めたり、うつくしいと感じればなんとか写真に収めようとしたり足掻いてみる。だがその一瞬は絶対的に直に見たものの方が遥かにうつくしくて、人と共有したいと思うとどうしても妥協しなければならないことが多い。その代わり人は科学というすばらしい知恵を丹念に使って、一晩中動き続ける星を一枚に収めて見せたりする。これはこれで恐るべき事態だ。自然とは対照的な方向へのうつくしさ。
だが雲の方もたった十種類しか与えられなかった名前の中で、多分雲が生まれてから一度たりとも同じ雲のかたち、並び、景色になったことはないのだろう。十の中の無限だ。
自分は日本人で、比較的沢山の文字を日々操っていると外から言われていると聞く。ひらがな、片仮名、漢字、アルファベット、最近では絵文字や顔文字も市民権を得てきただろうか。こんなに沢山になってしまって日本語を学ぶ国内外から文句が出ているのを可笑しみながらよく聞くけれど、平安の昔、いやそれ以前から日々や特別な経験談を書き残したいという根っからの書き物好き性が日本人にはあるそうだ。昔からのこの習性がこんにちの研究に役立っているし、現在でも日記、SNSなんかでなんやかんや日々記録し続けている。「今起きた」とか。誰も聞いていなくてもなんとかして言っておきたい、その本能はなんだかさみしがりのようで、可愛いと思う。
また話が逸れた。文字というのはすぐに脱線してピクニックへ誘ってくるから困る。そうそう、比較的多い文字を操ると言っても、その数が那由他というわけではないだろう。限界がある。だがそんな文字を使って、時には形や読みを変えながらも、建国より早二千年。新しく生まれる文章は尽きない。もっと少ない文字の中で生きている人々の中からも、やっぱり生まれ来るものは日々雲のように新しい。

逆にいえば――――限られた文字の中だからこそ、幾通りもの組み合わせを考えたくなるのかもしれない。もし限りがなかったらどうだろうか、多分限りの果ての方を追いかけて行ってしまったかもしれないな。本にも城にもルールやしきたりや、建築基準法なんかがある。人はその範囲の中で、一生懸命新しいものを考えている。自分も持ち得る本の中で、一生懸命本棚への並べ方を考えている。宇宙にも限りがあるそうだから、太陽系を含む小宇宙も一生懸命冷たい星、灼熱の星、地球みたいな星、中心が炭素の星(つまり星丸ごとダイヤモンド)、ガスの星、あらゆる可能性を試しているのかもしれない。いちばん落ち着く配置と周回の軌道、変化し続ける、永遠ではない「部品」たちを用いて。そこに地球人の思うような全知の意識はなくとも。

また本棚には抜け道もある。ぎっしり並べてもどうしても出来る上の隙間、一寸カバーを仮置きしたり、こねこの魔の手から守っておきたいものを上げてみたりできる、あの空間。あれも本棚の醍醐味だろう。一見規則性とは縁遠い、無秩序の世界のようだが、実は本棚を設計する時点でもうあの空間の存在は認識されてしまっている。反逆失敗、というところだ。そう考えると、新しいものを生み出すことに関しては確かに無限の組み合わせがまだ存在する(存在してないので)けれど、過去数万年にまだなかったもの、というとこの脳みそが一生かかってひとつ出せれば奇蹟、みたいな果てしない気持ちになる。
だが、そう、それでも書いてみたいと思う。脳みそのぐねぐねしたところの端っこでもいいから、なにか案がある細胞は是非手を挙げてほしい。一見つまらないことでも、拡げていけば面白いかもしれないから、なんでも思い付いてくれて構わない。

規則性からの脱却を夢見ながら、規則の中で夢みたいに踊りまわりたい。自分としてはあわよくば、それを言葉にして書き残したい。矛盾しているようで、なんともいえず真っ直ぐな望みではないか。
パソコンのある机から本棚を眺めて、そんなことを考える水曜日の午後だった。さて、紅茶を淹れよう。おやつはなんにしようか、本音をいえば、生クリームのケーキを所望したいが。


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