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あずみの白馬さん

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平和と天気予報

16/10/28 コンテスト(テーマ):第120回 時空モノガタリ文学賞 【 平和 】 コメント:6件 あずみの白馬 閲覧数:1586

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 天気予報は、雨が降りそうだから今日は傘をさして行こう、とか、あるいは台風などに備えたり(会社や学校が休みにならないかと祈ったり?)するのに必要な情報だ。

 既に知っている方にとっては、いささか退屈に思えるかもしれないが、少しでも目を通していただけたら、筆者としてはこの上ない喜びである。

 ***

――戦時中は、天気予報が無かった。

 正確に言えば、あっても「軍極秘」とされ、国民に公開されることは無かったのだ。それは何故か?

 1941年12月8日、日本海軍第一攻撃隊、淵田隊長は、オアフ島からのラジオの電波を機内で受信。攻撃目標の天候は良好であると判断し、そのまま真珠湾に向かい、攻撃を成功させている。

 このように、軍にとって天候は重要な情報なのだ。そのため「極秘情報」とされるのである。

 同日午前8時、当時の中央気象台、藤原台長は、陸海軍両大臣より、口頭によって気象報道管制実施を命令された。

 この命令は直ちに全国の気象台に伝達され、当時のある気象観測官は上司から「知り合いの漁師にも気象情報を漏らすんじゃ無いぞ」と厳命されたと言う。

 仮に観測官が海上が時化(シケ)ることが分かっていたとしても、漁に出て行く漁師を止めることは出来ないという、やるせないではすまされない状況になると言うことだ。

 かくして真珠湾攻撃の翌日、米英との開戦が高らかに宣言された新聞には、昨日まであった天気予報が無くなったのである。

 ところで、矛盾すると思われるかも知れないが、台風などの強風が予測される状況下に於いては、事前に警報を出すことが特例で許された。

 だが、この警報を出すためには各方面に許可を取らなければならなかった。1942年8月27日に長崎県に上陸した「周防灘台風」の際に暴風警報が出されたが、これには陸海軍各大臣をはじめ、文部大臣、拓務大臣、企画院総裁、対満事務局総裁、興亜院総裁、以上7名の許可が必要だったのである。

 しかも、使われる言葉の制限などもあり、警報は機能したとは言えず、山口県を中心に1158名が死亡する事態となってしまった。十分な準備が出来ないまま亡くなった人も多かったと言われており、これではあって無いのと一緒であった。

 時は進み1945年7月、日本軍は相次ぐ撤退を余儀なくされていた。国内でも空襲が相次ぎ、沖縄諸島には連合国軍が上陸。犠牲者は10万人単位で増える一方であった。
 この頃の天気図は、戦局の悪化を裏付けるかのように、観測データに欠落が目立つようになった。その一方で、ほぼ正確に記されたデータも残っている。

――米軍機の観測データだ。

 この頃、日本の南海上には米軍の観測機が頻繁に飛んでいた。この観測データは、なんと平文(暗号解析の必要がないそのままの文面)で送られていたのだ。これは「相手に観測機の位置が判っても構わない」ことを意味する。制空権は完全に米軍側にあるということだ。当時の観測官はどんな思いでそれを天気図に書き込んでいたのだろう……。

 1945年7月29日から8月2日にかけて、沖縄本島を台風が直撃している。現地周辺では米軍をはじめとした連合国軍が密集しており、度重なる犠牲を強いられた人々の中には、元寇の時のような神風になるのではと期待した者も多く居ただろう。
 しかし、観測機は台風監視を続けており、それが神風になることは無かった。

 8月6日、広島、8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、合わせて20万人を超える人々が犠牲になった。この時も、観測機が先行して飛行し、天候に問題が無いことを確認した後、投下が決定された。

 余談だが、長崎市への原爆投下の際、当初は小倉市(現在の北九州市)への投下が予定されていたが、観測機が小倉市の悪天候を伝えてきたため、長崎市に変更されている。

 8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾。その約1週間後の8月23日から、天気予報は再び新聞に掲載された。

 戦火をかいくぐり、生き残った国民の中には、それを読んで平和を実感したものも多かったことだろう。

 ***

 日本は現在、先人の築いた礎と、それを維持してきた方々のおかげで、他国との直接的な戦闘が無い状態にある。誠にありがたいことだ。

 その一方「平和」をどこか遠くに感じてしまうことがある。

 その中で、毎日発表され、誰でも簡単に見られる天気予報は、今、日本が平和であることを静かに伝えている。

 太平洋戦争で命を失った人たちに祈りを捧げさせて頂くとともに、この平和が続くことを切に願う。


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このストーリーに関するコメント

16/10/28 あずみの白馬

【参考資料】
wikipedia「広島市への原爆投下」「長崎市への原爆投下」

中国新聞広島メディアセンター
「民の70年 第1部 秘密と戦争 真実が、隠されていた時代。」
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=49458

饒村曜
「太平洋戦争中は天気予報と台風情報は国民に知らされなかった」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nyomurayo/20150812-00048399/

バイオウェザーサービス
「太平洋戦争と天気図、天気予報」
https://www.bioweather.net/column/weather/contents/mame091.htm

コトバンク
「戦争と天気図」
https://kotobank.jp/word/戦争と天気図-882509

16/11/11 冬垣ひなた

あずみの白馬さん、拝読しました。

私たちの生活に欠かせない天気予報も、戦時下にあっては極秘情報であり、天候がさらに人の命を大きく左右してきたことは非常に悲しい事ですね。身近にある天気予報が、平和の象徴であるというのは、とても説得力があります。これからも皆が明日の天気を自由に知る世の中であることを願います。

16/11/12 あずみの白馬

> 海月漂 さま
ありがとうございます。
身近にある天気予報が無くなると言うのは、本当に非現実的なことですね。
庶民は否応無く「戦争」を実感したことだと思います。

フォン・ノイマンのことは名前しか聞いたことがなかったのですが、因果応報だと思いました。勉強になりました。

> 冬垣ひなた さま
ありがとうございます。
私も、明日の天気がすぐわかる世の中が続くことを願っています。

16/11/30 光石七

拝読しました。
戦時中天気予報が極秘情報だったと漠然と聞いたことはありましたが、それがどんな意味を持っていたのか、御作で初めて理解しました。
毎日のようにチェックしている天気予報が、平和の証なのですね。
平和がいつまでも続くよう、そして世界全体が平和であるよう、切に祈りたいです。
素晴らしいお話をありがとうございます!

16/12/07 あずみの白馬

> 光石七 様

>戦時中天気予報が極秘情報だったと漠然と聞いたことはありましたが、それがどんな意味を持っていたのか、御作で初めて理解しました。

書いた身としてもったいないお言葉です。ありがとうございます。
世界全体が平和になるのが一番ですね。私もそう思います。

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