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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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最後のお勤め

16/10/27 コンテスト(テーマ):第121回 時空モノガタリ文学賞 【 捨てゼリフ 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:845

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居酒屋の、くすんだ壁を背にして二人の男たちが、すでに目のふちをあかく染めて、ビールを飲み交わしていた。
二人は会社は別でも、さる週刊誌の記者たちで、たまにこうしてのみながら情報交換をしていた。いつもいつも、これといったネタがあるわけではない。今夜もその口で、二人がおでんの出汁をほめたり、若い女性客を品定めするのにもあきてきたころ、体格の大きいほうが、ふいに思いだしたように、
「天才スリといえば―――?」
「そりゃ、なんといっても、湯煙の竜でしょう」
「そう。その竜を、定年までに捕まえるといきごんでいる老刑事がいるんだ。沢野留吉といってね。これまであげたスリの件数は数しれないというほど、敏腕刑事なんだ」
「なるほど。天才スリを捕まえて、優秀の美を飾るつもりですか」
「どうも、そうではないらしい」
「というと」
「以前、留吉さんがずいぶん世話になった先輩刑事が、やっぱり定年を控えて、竜を捕えようとした。それで、電車内で、あと一歩というところまで追い詰めた。スリは現行犯でなきゃ捕まえることができない。刑事さん、竜が一人の客に狙いをつけて肉薄したとき、さすがに気が逸ったんだろうな、てっきりスッたものと思い込み、急いで竜の腕をつかんだ。竜はシラをきり、スッたものはどこにあるんだと、上着をぬぎ、シャツまでぬごうとした。刑事さんは目をすったことを思いしらされた。そのうえ、公衆の面前で土下座までさせられた。そのとき竜が言った捨て台詞が、あんたなんかにつかまるほど、おれはまだ耄碌してないよだった―――その刑事は定年をまえにして首をつった」
「ふうん。すると、先輩刑事の仇討ちというわけか」
「それもあるだろうけど、………留吉さんの娘は、若くして精神をやんで病院生活を送っていて、奥さんも数年前ガンでなくしている。刑事生活最後に、ひと花咲かせたくなった気持ちも、わからなくもない」
「それ、あんたとこで載せる気かい」
「うん。ただし、本当に留吉さんが湯煙の竜を捕えたらの話だ。捕えそこなっては、どうにも哀れすぎる」
「ごもっとも」
大柄のほうがそこで、トイレにたった。彼がもどってくるのとすれちがうようにして、隣りの席から初老の男がたちあがって、レジに向った。
「ところで、湯煙の竜の、湯煙は、なんの意味かな」
「湯煙のように、ふれられたかどうかわからないうちに、サイフをすりとられているところからきている」
「なるほど」
数分後二人がレジにいったとき、
「あれ、ない」
大柄のほうが、どのポケットをまさぐっても、サイフはなかった。
「お勘定なら、さっきの方が、お客さんたちのぶんだといって、支払っていかれました」
店の者の説明で、トイレからもどったときにすれちがった白髪まじりの男だとわかったが、だれだか見当がつかない。
「お客さんたちに、懐中物には気をつけるようにいっておいてくれと、仰ってましたが」
それをきいた週刊誌記者は、もしやと言った顔で、居酒屋の店先をみやったが、すでに後の祭りだった。

混みあう電車内は、酔客がめだった。沢野留吉は、さきほどから一人の男に目をつけていた。………湯煙の竜。スリの天才とうたわれたわりには、その素顔がいまだに判然とせず、死んだ先輩刑事の描いた素描画だけが彼の頼りだった。
その素描画に、ぴったり一致する人物がいま、つり革をもつ男性の前で、じっとすきをうかがっている。留吉は、しらんふりして、かれらのそばにちかづいていった。先輩刑事の同じ轍はふむまいとして、スリが動くまでいつまででも根気よくまつつもりだった。
しかしそれは、意外なほどあっさり、起こった。
スリは大胆にも、吊皮の男性のほうに腕をのばすと、背広の胸ポケットに手をさしいれ、札入れを抜きとったのだった。
すかさず留吉は、
「湯煙の竜だな。スリ現行犯で逮捕する」
竜は、なにも抵抗することなく、留吉がとりだした手錠にすんなり両腕をさしだした。
「おみそれしやした」
次の駅で電車から二人連なっておりた留吉には、なにか釈然としない表情がはりついていた。
「竜、腕が鈍ったな。湯煙のように、すられた本人がふれられたかどうかもわからないうちに、すってしまうというおまえにしては、さっきの仕事はいささか、手際が悪すぎたんじゃないのか」
「だんなは、沢野さんですね」
「どうして俺の名を」
「―――あこぎな人生を送ってきたあっしも、くたぱるまでに一度ぐらいは人様のためになることをと思っていたところ、おかげできょう、それが実現しやした」
「なんのことをいってるんだ」
湯煙の竜は、黙って笑うと、手錠のはまった両手をさしあげた。その右手には、みおぼえのある黒皮の手帳が―――。
「あ、俺の。い、いつのまに」
「ながいあいだお勤め、ご苦労さまでした」
湯煙の竜は、留吉にむかって深々と頭をさげた。


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