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16/10/09 コンテスト(テーマ):第118回 時空モノガタリ文学賞 【タイムスリップ 】 コメント:0件 ハヤシ 閲覧数:711

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 呼吸が苦しい。体が熱い。頭が重い。脳みその代わりに鉛でも埋め込まれたみたいだ。ノドがジンジンと痛む。冷たい空気が痛みに触れ、咳き込む。息が出来ない。いや、実際は出来ているのだろうが、もう吸っているのか吐いているのかさえ分からないほど痛みや熱や一向に止まることのない咳に振り回されていた。

 ベッドの上で縮こまりながら嵐が過ぎゆくのを待つ。耐えろ、耐えろ。永遠に咳き込んでいる人間なんかいない。抵抗したって意味のないものには、されるがまま、どうぞご自由にと身を差し出すしかないのだ。



 長く続いた咳は口内に鉄の味を残して去っていった。
 額に手のひらを当てる。じっとりと汗をかいて熱をもっている。風邪をひいたらしい。それもかなり重症だ。咳は治まったが、口を開いて外気を招き入れようものなら再び嵐がおとずれるだろう。そんなむず痒さが痛みとともに居座っている。

 立ち上がって電気をつけた。この部屋にカーテンは無い。窓の内側にあるのは障子だけだ。まだ夜であることは確かだが、何時だろう。一瞬、視線を向ける方角に迷う。いつもは流れるように見やる時計を「探す」なんて、相当こたえているらしい。

 時計の針は一時四十分をさしていた。





 服を替え、飲み水を用意してベッドに横たわる。額には冷却シート。生ぬるい布団は気持ちのいいものではないが、冷たい布団よりはずっと巧みに眠気を誘ってくる。



…と、思ったのは何分前のことなのか。
 意識が途切れた途端に目が覚めた。体感としては数秒のことだが、これでも二、三時間は経っているのだろう。熱が引いている。干からびた冷却シートを取り払って水を飲む。常温。

 部屋の中はうっすらと赤く色付いている。障子を開けるとこぼれんばかりの光が差し込む。
窓をそっと開ける。ひんやりとした新鮮な空気が肌に触れるのが心地よかった。汗が引いていく。
「…朝焼け」
空は一面、赤に照らされていた。遠くでは、丸く滲んだオレンジ色が山の端から半分ほど顔を出している。あと三十分もしないうちにすっかり明るくなるだろう。

 時刻は五時十五分。シャワーを浴びてから朝食を作ってもまだ余裕のある時間だ。





 着替えをもってお風呂場へ向かうと、キッチンから食欲をそそる匂いが立ちこめてきた。同居人の背中をのぞく。
「おはようマヤ」
「わっ!」
音もなく近づいて声をかけると、面白いくらい驚いてくれる。
「あぁ、起きたの」
「良いリアクションだね」
「なに満足そうに笑ってんのよ」
マヤはぷりぷりと怒るふりをする。
「シチュー?」
「うん。好きでしょ」
「好き」
「風邪でも食べやすいかなって」
ちょっと薄めだよ、と言ってマヤは小皿にひとくち分けてくれる。美味、美味。


 風邪にかかったと知っているということは、寝ている間に相当うなされたのだろうか。マヤは普段、招き入れない限り部屋には入ってこないので心配をかけることなく済んだと思っていたのに。


「おいしい。朝からシチューもありだね」
機嫌よく言うとマヤはくすくす笑う。
「そりゃ今起きたミホにとっては朝みたいなものだけど」

ん?

マヤは慣れた手つきで火を止める。
「お腹すいたよね? もう夕飯にしようか」

夕飯?

「あ、先にお風呂入るの? 沸かしてあるから入れるよ」

沸かしてある?

「…マヤさん」
「はいはい」
「今って朝じゃないの」
「……今は夕方。これから夜が来て、朝はそのあとに来ます」



 窓を開けて外を見る。雲は薄くたなびいて空全体が紫がかっていた。ここから太陽は見えないが、おそらくオレンジ色のそいつはとっぷりと顔を隠しているのだろう。

「夕方!? 夕方の五時なの? 朝じゃなくて?」
まどろみの余韻の中にあった頭が冴える。いったい何時間眠っていたのだろう。約十五時間だ。計算だってすぐ出来るくらい目は覚めているのに、今が夕方であることだけが受け入れられない。だってあんな、一瞬のこと。

「夕方だよ。朝、全然起きてこないから声かけたじゃん」
「えっ」
「会話もしたけど」
「ええ?」
「調子悪そうだから休んだらって言ったら『そうする』って」
「えええ…」
「連絡入れといたよ」
「ありがとう…」
よくよく見てみればマヤは会社へ行く服装だし、化粧もしている。私が眠っている間に会社へ行き、働いて、帰宅して夕飯を作っていたのだ。

 あのまばたきの間に。
 マヤだけじゃない。あの一瞬のうちにたくさんの人の一日が始まり、もうすぐ終わろうとしている。





「タイムスリップ」

何気なくつぶやいたその言葉が消失した十五時間を埋めたとき、ああ、深夜二時から夕方五時のあいだ、目をつぶってから目を開けるまでのその刹那、私はこの世界に存在しなかったと知らされたのだった。


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