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蒼樹里緒さん

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涙の止め方を忘れた女-本屋-

16/08/29 コンテスト(テーマ):第117回 時空モノガタリ文学賞 【 本屋 】 コメント:0件 蒼樹里緒 閲覧数:1138

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 あるところに、涙の止め方を忘れた女がいた。女は、嬉しいときも悲しいときも悔しいときも、ひたすらに泣き続けていた。
 夏の陽射しの下、女は小さな古書店に立ち寄った。商店街の裏通りにひっそりと佇むそこには、本の詰められた複数の木箱が、入口前の両脇に並んでいる。『三冊で税込五百円』という手書きの値札もそこに貼りつけられていて、なるほど、と女は納得した。箱の中の本は背表紙も本文の紙もだいぶ色褪せ、黄ばんできているようだ。些細な破れや汚れもある。絵本や文庫本、図鑑や辞書など、品揃えは様々だ。
 眺めるうちに、ふと珍しいものが女の目に映った。欧文タイプライターだ。ペパーミントグリーンのそれは、木箱の脇の丸椅子に置かれていた。側面は日光を浴びて光沢を放っているが、値札はない。整列した黒く四角いキーは、指で押せば軽快に動きそうだ。
 ――新品同然に綺麗だけど、外に置いてると傷みそうだし……盗まれたりしないのかな。
 女が疑問を抱いていると、店の奥からのんびりとした声がかかった。
「いらっしゃい」
「あ、こんにちは」
 はたきを片手に、店主らしき老人がひょっこりと出てきた。猫背気味の姿勢で近寄って来た彼は、女の頬に流れるものを見て、眼鏡越しに目を瞠る。
「何か悲しいことでもあったのかね」
「いえ、わからないんです……もう何が悲しいのかさえ。それなのに、涙は止まらなくて」
「そうなのかい。しかも裸足じゃないか。外にいると暑いだろう、入りなさい」
「はい……ありがとうございます」
 女の纏うワンピースの深い黒さは、吸い込んだ周りの熱を体温にも加えている。
 会計所らしき長机までは奥行きがあるものの、幅は大人が二人どうにか並んで通れる程度だ。両側の壁にどっしりと立つ背の高い本棚は、どっしりと存在感を主張している。狭い空間に木や紙の匂いが満ち、本棚には古本の背表紙の山脈が連なっていた。
 商品にはたきをかける店主に、女は尋ねる。
「あの、外にあるタイプライターのことなんですけど」
「あぁ、あれかい。売り物じゃないんだが、ちょっとしたいわくつきでね」
 ニヤリと笑んだ店主は、一旦外へ出てタイプライターを運んできた。皺だらけの両腕に抱えられたそれは、蛍光灯の下で見てもきらめいている。キーの数字やアルファベットの配置は、パソコンとほぼ同じであるようだ。
「完全手動式だよ。押してみるかい」
「よろしいんですか。では、お言葉に甘えて」
 店主に促され、女は自身の名前のイニシャルでもある『M』を押す。
 ところが、第一印象とは裏腹に、とにかくキーが重い。押せば押すほど、深く沈み込む。力を入れるあまりに指の腹は赤くなり、爪も一部が白く染まる。
「意外と重いんですね」
「そうだろう。今は入れてないがね、キーを押すと梃子の原理で活字をブワーン、バチンッ、なんてインクリボンが紙に叩きつけられたもんさ」
「あなたが持ち主さんなんですか」
「ああ。ワープロやパソコンも便利なもんだが、どうもこのレトロな感じに愛着があってね」
 店主の指先が、タイプライターの側面を懐かしげに撫でる。
「押しが弱いと、活字は上がるが、リボンを叩いて印字するほど強く当たらないんだ。しかも、全部の指の力を同じくらいにして叩かないと、印字の濃さがばらついてしまう。一文字でも間違えたら、初めから打ち直しになるしな。慣れるまで大変だったよ」
 ――古本屋さんだし、在庫の一覧表とかも作ってたのかな。
 女が想像すると、不意に奇妙な現象が起きた。
 キーが、ゆっくりと動き出したのだ。女も店主も、触れてさえいないのに。
「どうして……」
「お客さんが触ると、いつもこうなるんだよ。タネも仕掛けもございません」
 冗談めいた店主の言葉通り、キーは勝手に動き続ける。その緩慢な動作を、女もじっくりと目で追った。

 HON WO YONDE NONBIRI SHIYOU

 数十秒かかって打たれたメッセージは、見る者の心を和ませるような一文だった。
 女の眦から、また涙がこぼれる。
 ――物さえも、私なんかに優しくしてくれるなんて。
 胸の奥底からこみ上げてきた感情を、女は素直に口にした。
「素敵な……タイプライターですね」
「こいつも、お客さんが来ると嬉しいんだろうよ。外に出しといても、今まで一度だって盗まれたことはないからね」
 静かになったタイプライターを元の位置に戻し、店主は女に微笑む。
「せっかくだ、本でも読んで休んでいくといい。冷たい麦茶も出そう」
「ありがとうございます」
 彼が店の奥へ向かう間、女は本棚を眺めた。
 手に取った一冊のタイトルは、『タイプライターの歴史』。
 あのタイプライターも載っているのかもしれない。淡く期待し、女は頁を捲った。自分の涙で紙が汚れてしまわないよう、気をつけながら。


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