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前田沙耶子さん

性別 女性
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ざわめきを乗せてバスは今日も走る

16/08/23 コンテスト(テーマ):第115回 時空モノガタリ文学賞 【幽霊 】 コメント:0件 前田沙耶子 閲覧数:1638

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乗客はいつも僕と数人のサラリーマンに学生、そしてその幽霊だけだった。大学3年生の僕が早朝と言ってもいい時間帯のバスに乗るのは火曜と金曜だけだったが、幽霊はいつでも必ず同じ座席に腰掛けていた。
見た目は50代前後の白髪混じりの男性で、夏でもスーツにコートにマフラー姿。乗客が彼をすり抜けて行ったのを初めて見たときは驚いたものである。しかし僕が何よりも異様だと思ったのは、彼が毎朝美味そうな匂いを漂わせながら、弁当を食べていたことだった。

彼に気づいているのは僕だけらしい。何故だかわからないが、あまり恐怖は感じなかった。


とはいえ、向こうから声をかけられるとさすがに戸惑う。
「おはよう。たまには少し話をしませんか」それでも咄嗟にああ、はい、と隣に腰を下ろした僕は、なかなか肝が座っていると言えるだろう。
彼は高橋と名乗り、突然声をかけた非礼を詫び、死んでいるとはいえ車内で食事を摂っていたマナー違反を詫びた。紳士的な幽霊もいたものである。気にせずに召し上がってくださいと言うと、ありがとう、と嬉しそうに答え、卵焼きを口に運んだ。

それから僕は彼と話すようになった。
何故いつも弁当を食べているのかを尋ねると照れくさそうに「あの日、朝食を抜いてきたせいか、やたらと腹が減るんだ」と笑っていた。美味しそうなお弁当ですね、と言うと、妻が作ってくれたんだ、ととても優しい顔で答えた。
彼は物腰が柔らかく知性的で、話も面白かった。僕はいつからか彼と話す束の間の時間をとても楽しみにするようになっていた。おかしな言い方だが、彼はとても人間味のある人物だった。仕草も言動も、死んでいるなんて冗談なんじゃないかとすら思えるほど。

でもそう思うたび、彼の少し透けた体をすり抜けて目に映る町の景色が、その考えを否定した。


「今日は僕の命日なんだ」
12月のある日、彼は唐突にそう言った。答えあぐねている僕をよそに、いつも通り弁当を頬張りながら「バスの事故であっさりと死んでしまった」と話すその声は、いつもより少し感情的で、でも必死で穏やかさを装っているようだった。
「ここで死んだせいかな。どうしてもここから離れられないんだよ。事故現場を通り過ぎるとひゅうっと意識が飛んで、また次の日の朝になっている。ずっとその繰り返しなんだ」胸が痛くなった。彼は毎日、死ぬ間際の時間を繰り返しているのだ。静かに弁当を食べながら。
「息子が君の1つ上なんだ」長い沈黙の後、彼はぽつりと言った。「ひと目でいいから息子に会いたいよ。僕がいなくてもちゃんと元気でやってるか」それは今まで聞いたことがないようなか細い声だった。なるほど、彼は僕に自分の息子の姿を重ねていたのかもしれない。では僕は、少しでも彼の無念を和らげることができているのだろうか。
月日は淡々と流れた。彼はその日以降、特に変わった素振りも見せず、いつもの穏やかな彼のままだった。毎朝、僕の大学の最寄りのバス停に着くと、「行ってらっしゃい」と肩を叩いてくれた。父親が息子を送り出すように、温かい笑顔で。


春が来て、僕はなんとか単位を落とさずに進級することができた。4月の頭、学生や新社会人らしき人たちで、バスはいつもより少し混雑していた。「おはよう。今日から4年生か」コートとマフラー姿で、彼は僕に笑いかけた。はい、と答えて隣に座ると、彼は弁当を広げ始める。いつもと違うざわめきを乗せたまま、バスはいつも通りの道を走った。

次のバス停で乗ってきた男性の顔を見た瞬間に、彼は箸を止めた。どうしたんですか、と尋ねると、小さな声でマサヒコ、と呟いた。
その男性が彼の息子であることは、頭の悪い僕にもすぐにわかった。
男性は僕らの隣の座席に腰掛けた。真新しいスーツに靴、鞄。きっと新社会人なのだろう。
彼はぽろぽろと泣きながら、穏やかに笑っていた。春の陽射しが涙に美しく反射した。しばらくして車内アナウンスが、次は○○町です、と告げる。男性が降車ボタンを押した。

プシュウと音を立ててドアが開き、男性はどことなく緊張した面持ちで立ち上がる。彼が小さな声で、行ってらっしゃい、と言った。無論僕以外にその声は届いていない。にも関わらず、男性はこちらを振り返った。こちらに視線を向けることはなかったが、鼻をくんくんと動かしたのを、僕ははっきりと見た。

気がつくと隣に彼はいなかった。弁当の美味そうな匂いだけが、僅かに残っていた。

月日は淡々と流れる。僕はなんとか大学を卒業して社会人となった。
初めての出社日、僕はあの、行ってらっしゃい、という優しい声を思い出していた。次は○○一丁目、○○一丁目。車内アナウンスが告げる。
降り際に振り返ってみても当然彼はいない。でも、どこからかあの美味そうな匂いが漂ってくるような気がして、僕は鼻から大きく息を吸い込んだ。


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