1. トップページ
  2. ひとそば

囁きヒトデさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

1

ひとそば

16/07/04 コンテスト(テーマ):第111回 時空モノガタリ文学賞 【 蕎麦 】 コメント:0件 囁きヒトデ 閲覧数:815

この作品を評価する

下級武士、梅崎吾郎(うめざきごろう)が生まれ育った畿内を離れ、江戸勤めとなってから早半年となる。
妻子と離れて暮らす吾郎であるから、ひとりぼっちの寂しさをまぎらわせようと、夜は決まって深酒をする。
その晩も、吾郎はふらつく足取りで帰り道をたどっていた。

肌を蒸す夏の陽気も、この時刻ともなればなりをひそめる。
月影を映す水路のふちでは、虫たちがさかんに声を上げている。

(暑くもなし、寒くもなし、実によい心地じゃ……)

しかし、ここへ来て吾郎は、ふと小腹がすいているのが気にかかった。

(ここらで何ぞ腹に収めたいのう。帰ってもろくなものがなし)

そば屋のひとつも立っていないかと探してみるが、こんな日に限って屋台はひとつも見当たらない。
あきらめてねぐらへ戻ってくると、藩邸脇の裏通りに、ぼんやりと行灯の光が灯っている。

(ほお。このようなところで商売する物好きがいるとは)

灯台下暗し。
願ってもないそばの屋台である。
吾郎はさっそく注文した。

「かけを一杯もらえるか」

「へぇお侍様。そこへ腰掛けてお待ちくだせえ」

「早く頼むぞ!」

裏返した桶に腰掛けながら、落ち着かず視線をめぐらしていると、行灯に書かれた墨書が目に付いた。
うねったかな文字で“ひとそば”とある。

「ひとそば? こいつが店の名前かね。けったいな名前をつけたもんだの」

「へぇ。あたくしんとこのそば粉は、借りものなんでござんすよ」

「というと?」

「そばは縁起物でごぜえます。身代も細く長くと申します。ですからそば粉を“他人様(ひとさま)”から借りうけて、そいつの分の身代も食っちまおうってわけですよ」

店主の老人があまりにくだらぬことをいうので、吾郎は声をあげて笑った。

「いや、いや、これは愉快じゃ。しかし借りられた当人は気の毒じゃのう」

「やはりそう思いなさるかね、そら、できました」

店主が差し出すものを見て、吾郎は仰天した。
暗い碗の中に髪の毛がうずを巻き、添え物のかまぼこのように、切りとられた耳や目玉がその上に乗っている。

「なんと! 店主、こ、これは何じゃ! ありえぬ、これのどこがそばだ!」

「熱いうちにおあがんなせえ」

桶ごと後ずさった吾郎が見上げると、店主の顔は一面が真っ黒な毛で覆われていた。
犬や狼を思わせる奇怪な顔だちのなかで、琥珀色の瞳がろうそくの火のようにぎらついている。

「さあ、おあがんなせえ」

老人の声が、けだもののうなり声のようにひしゃげ、吾郎にさいそくをする。
先ほどまで漂っていた出汁の香りは、胸の詰まる血のにおいに変わっていた。

うわあっ! っと声をあげて吾郎が飛び起きると、そこは布団の上であった。
――実に不吉な夢であった。

(さりとて……夢とあっては、気を揉むこともあるまい)

そう考えた吾郎が水を飲もうと土間へ降りたとき、つま先に何かがぶつかった。
拾い上げてみると、それは出した覚えもないそば用の碗であった。

しばらくの月日があり、季節は巡って秋の気配を漂わせていた。
ある晩、吾郎はいつものように深酒をして、藩邸へと帰って来た。

すると、うちさびれた裏通りに、見慣れぬ屋台がポツリと立っている。

(まさか! いつぞやの夢と瓜二つではないか)

吾郎はしばらくその場にたたずむと、覚悟を決めて屋台へと歩み寄った。

「かけを一杯もらえるか」

「へぇお侍様。そこへ腰掛けてお待ちくだせえ」

「いや。拙者はこのままで結構」

吾郎は屋台から距離を置き、隙のない姿勢で立った。
ちらと行灯に目をやると、案の定“ひとそば”と墨書きがあった。

「こりゃあまた、変わった店の名前だのう」

「へぇ。あたくしんとこのそば粉は、ちょいと遠くに住んでるお人様から借りているんでござんす」

「ふうん」

店主が屋台の後ろから出てくるのを見て、吾郎は腰の刀に手を伸ばした。
もし物の怪であれば、この刀で――!

「熱いうちにおあがんなせえ」

だが、吾郎の前にやってきたのは、何変哲もないそばであった。
腰を下ろし、恐る恐る口をつけると、これがまたえもいわれぬ風味とのどごしをもっている。

(なんのことはない。見事なそばじゃ、何ぞ、ふるさとの、懐かしい味がするわい)

以来吾郎は“ひとそば”屋の常連になり、夜毎通い詰めるようになった。

国許からの火急の便りが届いたのは、そのような折であった。
しかし、当の吾郎は五日前、いや、十日も前から出仕をしていない。
不審に思った同僚が長屋の部屋を訪ねると、そこに吾郎の姿はなかった。
生活の気配が絶えた部屋には、すすけたそば用の椀がひとつ、うつぶせにころがっていたそうな。

それゆえ、己の妻と子が疫病に倒れ、そばぎりのようにやせ細って死んだことを、吾郎は知らずじまいであった。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

ログイン