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奈尚さん

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願掛け蕎麦

16/07/03 コンテスト(テーマ):第111回 時空モノガタリ文学賞 【 蕎麦 】 コメント:2件 奈尚 閲覧数:889

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 日が傾き始めた。
 一日の終わりを示す夕焼けが、仕事始めの合図になる者もいる。蕎麦打ちの平蔵も、その一人だ。いつも通り屋台に『夜鷹蕎麦』の暖簾をかけると、平蔵は『二八』と書かれた提灯に火を入れた。小さいながらも、店を始めて早三十余年。今では、彼の作る蕎麦の味を慕って遠方から来てくれる客も少なくない。
 どっぷりと暮れて川の対岸も見えなくなる頃。まばらにあった客足がついと途切れ一息ついたところで、ふと気がつくと、長椅子の端と端に一人ずつ、男と女が座っていた。
 平蔵が男の方へ近づくと、男は編笠も取らぬまま机に銭を置いた。十六文。具のない、一番安い蕎麦がやっと食えるだけの、最低限の銭だ。
「盛りかぶっかけか、どうなさいますね。今晩なら鴨の、出汁のよく出たやつがまだ残っておりやすが」
 男が無言で頷いたので、平蔵は銭を取って女の方へ向かった。若い娘だった。顔を隠すように俯いている。平蔵が近づくと、これまた無言で十六文を台に乗せた。先刻と同じ事を問う。女はか細い声で「では、かけ蕎麦を」と答えた。
 平蔵が熱々の蕎麦を出すと、二人は黙々と食べ始めた。離れて座り、全く声も交わさないのに、二人の仕草はどこか似通っていた。平蔵は屋台の奥に引っ込み、煙管に煙草を詰めながら二人の様子を眺めていたが、やがてえもいわれぬ不思議な気持ちに襲われて口を開いた。
「そういえば、去年のちょうど今頃でしたかな。同じような客が来ましたよ。今みたいに、椅子の端と端に男女一人ずつ座ってね。無言で蕎麦を食べておりましたよ」
 平蔵はくるりと自分の頭をなでると、記憶をたぐるように目を細めた。
「どちらも、まだ若くてね。こんな小汚ねえ屋台で蕎麦なんて食わなくても、いくらでも遊びに行く場所なんてあるだろうって言ったんです」
 相槌の声はない。しかし、二人とも耳を傾けている。そんな感触があった。
「そうしたらね、なんでも恋仲同士で『蕎麦』を食えば、ずっと『そば』にいられるって噂があるから願掛けにきたと、こう言うのですよ。でも自分たちは許されぬ間柄だから、悟られぬようこうして離れて座っているのだと」
 たわいのない言葉遊び。だが、そんなつまらないものにもすがりたくなるような危うく淡い関係であったのだろうかと、その二人の事はずっと心に残っていた。
 不意に女が突っ伏して、わっと泣き声を上げた。
「おいおい、急にどうしなすった」
驚いた平蔵が声をかけると、女は濡れた頬を月明かりにさらして
「私達です。それは、私達です」
 そう、消えそうな声で言った。
「彼はあの後、程なくして死にました。辻斬りに遭ったのです。一体誰にやられたのか……こちらで食べた蕎麦が、あの人との最後の食事になってしまいました」
「なんだって……」
 男が座っていた方へ目をやると、いつの間に席を立ったのか男の姿はなく、代わりに小さな細工物のついた簪が一つ、空の器と共に残されていた。
 先刻、ここに男が座っていて、一緒に蕎麦を食っていたのだ。そう告げると、女は目を丸くした。女には、男の姿が見えていなかったのだ。
「きっと、あの人です。この簪、私が彼に渡したものと同じです。お守りに、と……。あの人も、私と同じ気持ちだったのでしょう。この屋台が、蕎麦が懐かしくてつい、食べてみたくなったのだと思います」
 彼を追いかけてみます。簪を握りしめて、女は言った。
「死人を、かい」
「今晩なら、追いつけるような気がするのです。私、とても不安でした。いつか死んだとして、ちゃんとあの人に会いに行けるのかと。同じ場所に行けるのかと。だから、この機会を失いたくないのです」
 お蕎麦、とても美味しかったです。そう言って女は深く頭を下げた。

 夜半過ぎ。平蔵の屋台を、町医者と同心が連れだって訪れた。仕事帰りだと言う。うまい蕎麦汁をすすり、酒をあおると、自然二人の口は滑りがよくなったようだった。
「若い娘だったんだよ。今日の夕刻、突然死んだと言うから、殺しかと思って見に行ってみたんだが」
「あれは病死だね。心の臓が大分弱っていたと見える。心労続きだったようだ。道ならぬ恋をして、しかも相手の男は通り魔に殺されたとか」
「ぎゅっと簪を握り締めていたな。あまりに強い力で握っていたものだから、指を離すことができず家族が困っていた」
 煙草を詰める平蔵の手が、ふと止まった。確かめようにも、器はもう綺麗に洗ってしまっている。
「その女は、死んだ男のそばに行けたでしょうかね」
 平蔵の問いに、同心は首を傾げた。
「さあ、どうだろうな」
「死んでから先は、我々のあずかり知らぬことだよ。それより親父、酒をもう一杯」
「へえ、ただいま」
 行けたに違いない。なにせ、うちの蕎麦を二度も食ったのだから。
 ゆるゆると流れる湯気の向こうで、提灯の火が揺れていた。


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このストーリーに関するコメント

16/07/10 冬垣ひなた

奈尚さん、拝読しました。

蕎麦には時代物の世界が似合いますね。雰囲気に引き込まれました。恋人たちの思い出の蕎麦、ラストの平蔵の優しさが胸にしみました、あの世で二人が結ばれる事を願います。

16/07/12 奈尚

> 冬垣ひなた 様
コメントありがとうございます。
雰囲気を気に入っていただけたとのこと、嬉しい限りです。
時代物の小説は執筆経験が少なく、うまく書き上げられるか不安なところもありましたが、挑戦した甲斐がありました。
冬垣さんにそう願っていただけるなら、あの二人はもう離れることはないと思います。

コメント本当にありがとうございました。

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