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雨宮可縫花さん

雨宮可縫花(あまみやかぬか)です。エッセイ教室に通っています。向田邦子を読む日々です。

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駅の雨傘

16/06/05 コンテスト(テーマ):第110回 時空モノガタリ文学賞 【 雨 】 コメント:2件 雨宮可縫花 閲覧数:1737

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「実樹ちゃん、傘を持っていってね」
 朝食を食べていた実樹に、洗い物をしていた母が明るい声で言う。
 流しの片付けが終わると、母は洗濯物を干しに二階のべランダへ向かった。それから新聞を取りに外へ出て行く。
「午後から雨みたい。傘、忘れちゃダメよ」
 戻ってくると、天気予報の欄を見ながら実樹に念を押した。
 玄関で見送るときも、母はあれこれと実樹の心配をする。
「宿題、忘れてない?」
「ハンカチとティッシュは持った?」
「うん」
 ランドセルを背負いながら、実樹はぶっきらぼうに答える。
 シューズボックスに備え付けの鏡をのぞくと、ショートカットの髪にまだ少し寝癖がついていた。手ぐしで整えようとする実樹に、母は手を貸してくれた。
 髪を触る母の手の感触が、なんだかむず痒い。
「もういいから」
 実樹は自分で髪をくしゃくしゃにした。
「あ、待ってまだ」
 母の手と声を振り切って、実樹は玄関を出た。
 
 子供の頃、心臓の手術をしたことがある。
 まだ一歳にもなっていなかったから、実樹の記憶には残っていない。手術は成功したし、後遺症も残らなかった。
 そのことが原因なのか、母は実樹に対して心配をし過ぎるところがあった。
 実樹は私立小学校へ通っていて、電車で通学をしている。つい最近まで母に付き添ってもらっていた。他の子はひとりで電車に乗っているから、自分もひとりで大丈夫と訴えたが母はずっと渋っていた。
 今年の春、四年生になってやっと実樹の意見が通ったのだった。
 大事に想われるのは心地良いはずなのに、実樹はときどき、それを煩わしく思ってしまう。相反する感情のせいで、最近、実樹は母に素直に接することができないでいる。

 学校を出るとき、空はもう暗かった。
 最寄り駅に着く少し前に雨が降ってきて、実樹は改札を出たところでやっと自分が傘を忘れたことに気がついた。
 一緒に降りた乗客たちは、傘を広げて駅を後にしていく。ひとり残されてしまった。電車が行って遮断機が上がると、急に静かになった。雨の音がリアルに聞こえる。
 今朝「傘を忘れないで」と言った母の声を思い出した。
 なんだか心細い。しばらく待とうとか。少しくらい濡れて帰っても平気かな。
 迷っていると、後ろから声がした。
「傘、ないの?」
 振り返ると、駅員さんが立っていた。
 二十代半ばくらいだろうか。優しい表情で、実樹の顔の覗き込んでくる。
 こくん、と実樹は小さく首を縦に振った。
 駅員さんはいったん駅員室へ行き、傘を一本持って戻ってきた。
「どうぞ」
 差し出されたのは濃いグレーの傘だった。駅員さんの傘なのか、受け取っていいものか返事に困っていると、忘れ物の再利用だと説明してくれた。
 保管期限の過ぎた傘を、駅の利用者に無料で貸し出しているらしい。
「子供用の傘がなくて悪いんだけど」
 傘を広げて、駅員さんは実樹に手渡してくれる。
 大人の男性用の傘だった。実樹が普段使っている傘よりはだいぶ大きい。そしてずいぶん重い。
「大きすぎるなぁ」
 傘を差す実樹を見て、駅員さんは笑った。
 実樹も微笑って「ありがとうございます」と返した。母以外のひとには素直になれる。駅員に頭を下げて、実樹は駅を後にした。

 家に帰ると、実樹を心配した母がちょうど玄関を出るところだった。
 手には傘が二本、握りしめられている。
「実樹ちゃん、どうしたの。その傘」
 心配する母の声を、煩わしいとは思わなかった。毎日聞いている。今朝だって聞いたはずなのに、なんだか母の声が懐かしかった。
 駅で貸してもらったことを打ち明けると、母は息を吐いて、ほっとしたような表情になった。そして、傘に残った雨粒を丁寧に拭いた。
「よかったね。貸してもらえて」
 いつもの明るい母の声になった。
「うん」
 安心して、実樹は静かに頷いた。
 母は傘を拭き終えると、天候のせいで乾かなかった洗濯物を乾燥機にかけた。
「実樹ちゃん、今日お魚だけどいい?」
 笑顔で実樹に尋ねながらエプロンをしている。
「うん」
 そういえば、母はいつも何かをしている。
 家の中をせわしなく動いている。じっとしているところをあまり見たことがない。
「お母さん」
 いつも、実樹のことを気にかけてくれている。
「ありがとう」
 気づいたら、実樹は呟いていた。
 小さな声だったから、母は聞こえなかったかもしれない。
 もう一度、実樹はゆっくりと繰り返した。


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このストーリーに関するコメント

16/07/09 光石七

拝読しました。
駅で傘を借りたことが、実樹ちゃんの小さな気付き、お母さんに対して素直になるきっかけになったのですね。
飾らない言葉で素直に書かれていることに好感が持てましたし、心に温もりと小さな感動が広がる読後感も良かったです。
素敵なお話をありがとうございます!

16/07/10 雨宮可縫花

光石七さま
読んでくださり有難うございます。
気付きのシーンはあっさりし過ぎたかなと思うところもあったので、とても嬉しいコメントでした。有難うございました!

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