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カワウソさん

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マイ・ポルノ・グラフィティ

16/05/13 コンテスト(テーマ):第108回 時空モノガタリ文学賞 【 甘夏 】 コメント:0件 カワウソ 閲覧数:1387

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 黒猫を抱いた妻がくすくすと笑った。
「ねえこの子、自分がわからないみたいよ」
 黒猫は姿見の前で不安そうに鼻をひくつかせている。妻の言う通り、鏡に映っている姿が自分だということがわからないのだ。
「自分で自分の姿がわからないって、どんな気持ちなのかな」と妻は続けた。
 私は妻の顔を眺めた。すっきりと通った鼻筋、切れ長の目、小さな口とその下にあるほくろ。あどけない表情で私を見つめる妻はとても美しかった。
「君には自分がどう見える?」と私は妻に尋ねた。妻は少し考え込むようにして口をすぼませた。
「私? 私は……」
 妻は黒猫を抱いたままぼんやりと言った。目の焦点が次第にぼやける。おそらく私は彼女の触れてはいけない部分に触れてしまったのだろう。そのせいでまた発作が起きてしまったのだ。
「ねえ、あなたは自分で自分のことわかるの?」妻は消え入りそうな声で言った。
「わかる部分もあるし、よくわからない部分もある。鏡を見れば自分の姿がわかるけど、頭の中まではわからないよ」
「私たまに何もわからなくなるの」
「大丈夫だよ」と私は妻に言った。「そういう病気なんだ。薬を飲めば落ち着くよ」
「本当に?」妻は急にはっきりとした声を出した。「私がずっとこんな風になってしまったら、あなたどうするの?」
「もしそうなったとしても、一緒にいるよ」と私は答えた。彼女の中で小さな人格交代が起こっている。それはさざ波のようにひいてはまた現れる。
「私、一人はいや」妻はあどけない声に戻ってそう言った。「一人ぼっちはいやなの」
「いつも一人で留守番させて、申し訳ないと思ってる」
「そんな風に謝らないで」と妻は急に小さく叫んだ。目には涙が浮かんでいる。「あなたに迷惑をかけてるのは私なのよ。それがとても辛いの」
 そして少女のようにさめざめと泣いた。

 あまり症状が進むようであれば、入院という選択肢もありますが、と医者は控えめに言った。横に座る妻は椅子に浅く腰掛けて足をぷらぷらと交互に揺らしている。
「入院はできればさせたくないんです」と私は答えた。「以前入院した際、かなり弱ってしまったのを見てきたもんですから」
「ですが家に一人で置いておくのは不安ではないですか? 奥様のご実家にお話をしてみては?」
「家には帰りたくない」と妻が不満そうな声を出した。「嫌いなの」
「どうして嫌いなのかな?」と医師は子供に尋ねるような優しい声で問う。
 妻は理由を話したがらず、いやいやするように私の二の腕に顔をうずめた。
「簡単に言うと、あまり折り合いが良くないんです」と私は簡単に答えた。妻がこうなってから、明らかに妻の家族は彼女を避けていた。それは妻の実家が地元では大きな病院を経営していることと関係があるかもしれない。
「旦那様にお聞きしますが、奥様が正常と言いますか、以前のような様子でいるのは一日何時間ほどになりましたか?」
「合わせて一時間というところですね」
「それ以外はどのような状態ですか?」医師は先ほどから動かない妻のほうをちらりと見てつづけた。「もちろんお教えいただける範囲で構いませんが」
「よく泣いています。と思ったら急に機嫌よくニコニコしだしたり、肌荒れを気にしたり、子供っぽくなったかと思えば、急に元に戻って私を責めたり」
「何か明らかに別の人格が出てきていると感じたことはありますか?」
「今のところ、たとえば別の名前を名乗ったりしたことはありません」
「そうですか」と医者は簡潔に答えた。「ではもしそのような予兆を感じたら、すぐにでも受信するようにしてください。お薬は二週間分出しておきますので」
「どうもありがとうございます」と私は答えた。妻は興味を無くしたようにその白い顔を天井に向けていた。

「私ね、あの人嫌い」
 家での夕食を終えた後、妻は唐突に言った。
「あの人って?」
「お医者さん。あの人嫌いなの」
「どうして?」
「だって奥様とか旦那様とか、なんだか自分のことじゃないみたい」妻はもじもじと手遊びをしながら言う。
「それはそうかもしれないな」と私は笑った。
「ねえ、でもね、これは内緒の話なんだけど」と妻が囁く。「あの人ちょっとかっこいいよね」
 妻はそう言ってきゃっきゃと笑い声をあげた。
「母さんから甘夏が届いてるよ。今剥くから少し待ってて」
 そう言って私はつやつやと形のいい甘夏にナイフを入れる。さわやかな柑橘の香りが目に見えない粒となってあたりに広がる。私は甘夏を剥きながら、高村光太郎のレモン哀歌という詩を思い出していた。このみずみずしい甘夏を齧ったら、妻は元に戻るのだろうか。妻に元に戻ってほしいと、私はそう思っているのだろうか。

 妻がくすくすと楽しそうに笑う声が聞こえる。
 私は妻のために歌えるだろうか。上手くなくてもいい、妻のためだけの歌を。


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