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KOUICHI YOSHIOKAさん

性別 男性
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甘夏と蟻

16/04/28 コンテスト(テーマ):第108回 時空モノガタリ文学賞 【 甘夏 】 コメント:2件 KOUICHI YOSHIOKA 閲覧数:1585

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甘夏の香りに誘われて一匹の小さな蟻がやってくる
甘く透明な香りの底を泳ぐように甘夏のまわりを廻っている
庭に置かれて丸いテーブルの上に乗せられた甘夏は太陽の光を受けて輝いている
黄色い皮をより鮮やかに、空の青さを実に溶け込ませて
欅の葉がゆれて光がゆれて、木製のテーブルの上で舞っている
二階からは娘のぎこちないピアノが聴こえて風が薫る


リルケの詩集を膝に乗せて甘夏をながめる
忘れたいことがあまりに多いものだから僕は過去に蓋をする
一匹の蟻が二匹になって甘夏のまわりを廻っている
「甘夏を運ぶことなんて君らにはできないだろう」
蟻に言葉が通じるわけではないが、蟻は動きをとめて僕を見上げる
二匹の蟻が並んでじっと射るように僕を見上げる


甘夏が腐るまで見ていようか
甘夏が溶けるまでほっておこうか
「紅茶でも飲んだら、あなた」
妻が庭に運んできた紅茶は甘夏の香りを吹き消すほどに甘い
「あま夏、むいてあげましょうか」
「いや、このままでいい」
首を振る僕の肩に手を置いて、妻はかるく頭をなでる
「はやく良くなるといいわね」


一匹の蟻が甘夏を登っていく、一匹の蟻は廻りつづけている
甘夏の頂上に登った蟻は立ちあがり僕に向かって口を動かしている
「何が言いたいんだ」
僕に蟻の言葉はわかるわけもないが、蟻は気にせず話してくる
「笑っているのかい。それとも怒っているのかい」
遠くで猫の鳴き声がきこえてくる
僕と蟻は甘夏と紅茶の甘い香りに包まれながら見つめ合う


いつの間にか娘が降りてきて僕の顔を覗きこむ
「なんだ起きているんだ。寝てるかと思った」
「もう練習はいいのかい」
娘は頷いて、スキップしながらテーブルの周りを回りだす
「パパが元気になったら一緒にお出かけしたいな」
「どこに行きたいんだい」
「ないしょだよ」娘は笑って家の中に駆け戻っていく


甘夏の上にもう蟻はいない
甘夏のまわりを廻っている蟻もいない
曇ってきた空、光も薄く、影は淡く、風は生暖かい
白いペンキの剥げ落ちたテーブルの上、甘夏が乗っている
甘夏をとって鼻に押し当ててみれば想い出の蓋がそっとあく
忘れたい想い出が甘酸っぱい香りに包まれて浮かんでくる


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このストーリーに関するコメント

16/06/09 光石七

拝読しました。
具体的には書かれていない主人公の状況ですが、甘夏との対峙を通してその辛さや胸の痛みが伝わってくるような気がしました。
見事な詩だと思います。

16/06/12 KOUICHI YOSHIOKA

光石七様
コメントをいただき有難うございます。
「詩」と評していただいたこと嬉しく思います。
感謝いたします。

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