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じゅんこさん

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爪先の宇宙、それが私のすべてだった頃の話

16/03/31 コンテスト(テーマ):第105回 時空モノガタリ文学賞 【 水族館 】 コメント:0件 じゅんこ 閲覧数:1123

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 肩に残る、黒い痣。外は涼しいからと言い訳をして、隠すように上着を羽織る。
 左手に缶ビール。右手には携帯。裸足にサンダル。これが今の私のスタイルだった。
 別れてからもう半年になる。新しいマンションに越し、思い出の品を捨て、華やかに生まれ変わるんだと思っていた。しかし自由になった筈の私が出来たのは、夜に仕事から帰宅したあと、ベランダでビールを煽ることくらいだった。元から何もなかったんだな、と他人事のように思った。
 こうして夜風にあたっていると、自分が夜に同化していくのを感じる。缶ビールを持つ左手の指の先、爪に塗った青いマニキュアが溶けてそこから徐々に侵食されてゆくのだ。それでいい。それがいい。そうして消えてしまうのが私の一番の望みだったのではないか。ふと頭を過った考えが、すとんと心の真ん中に落ちる。
 ぼんやりと下を見た。住んでいるマンションの前に、暗い路みちが大蛇のように横たわっていた。たまにそこを通る人は、何かに怯えぎこちなく足を動かし去っていく。迂回すれば表通りを歩けるのに。でも、私も彼らだったらきっと同じ路を通ったに違いない。面倒臭いからと近道を歩いている、腥い罪悪感に背中から襲われながら。
「あれっ」
 横から届いた声に思い切り振り向いた。手に持った缶が傾き少量のビールが指を湿らせた。若い男の声だった。
「すいません、驚かせちゃって。まさか隣の部屋の人も、ベランダに出てビール飲んでるだなんて、思わなくて」
 男は背が高くスーツ姿だった。暗闇に沈む蒼白い眼や、唇をみた途端、網膜が妙な自然さで鮮明にそれを捉えようとした。私はこの感覚を知っている。この後、二人はもっと親密になる。夜の空気は勘すら冴えさせるのか。得体の知れない、見てはならない夜の変化へんげを目の当たりにし反射的に俯いた。溢れ出たビールの泡が、トップコートで閉じ込めた青から逃げてきたあぶくのように指に纏わりついていた。泡はその形を保ったまま落ちた。
「そんな薄着で寒くないですか」
「ビール飲むと、のぼせたみたいになっちゃって。これがちょうど良いんです」
 子供の無邪気さで質問を重ねる男。この男も、あの人のように私を殴るだろうか。
 男は手に持った缶ビールを軽快な音で開け、首を反り骨をくねるように動かして飲んだ。蛙の腹を連想させる白い白い首を絞めたらどんな反応をするだろう。そんな妄想が止められなかった。
 ビールを飲み干し、二本目を取りに台所へ戻る。汚れた手を拭き、その強さでマニキュアが少し剥げてしまった。急いでリビングに行き、面積の狭い丸い爪に青を塗りたくった。付けた瞬間、少しひんやりして、この時だけ私は現実を忘れられる。青色。息を吹きかけて乾かしてから、空を閉じ込めるようにトップコートを重ねる。爪の中に、小さな水族館ができる。
 彼との初デートを思い出した。水族館。色温度の高い照明に照らされ、偽の青に囲まれて笑っていた。本当は色なんて無いのだと知っていながらも幸せだったあの頃。大事なものは爪先にある。わかっていたから離せなかった。そうしたら彼は、次第に私を暴力で縛り付けるようになった。
 胎児の様に背中を丸め耐える毎日。哀しい彼の息を止める想像をしながらも、実行する気力はとっくに根底から抜き取られていた。
 だから、自分の爪にネイルをしたのだ。それでまた殴られても、やめられなかった。自分を殺さないと、些細な事でいい、唯一「自分」を守らないと、死んでしまうような気がした。
 こよりのような関係だと、信じて疑わなかった。彼は他の女を見つけると、あっけなく私のもとから去った。

 リビングから戻ると、まだ男は隣のベランダに居た。
「まだいたんですか」
「風が気持ちよくって。二本目ですか?」
「そう。ネイルが剥がれちゃったから、塗り直してきた」
「ほんとだ。──あ、でも、爪って呼吸してるんすよね。ネイルするとそれが出来なくなって、良くないとか」
「知ってるわよ。だからしてるの」
 男は私に関心など抱いていない。だから言わなかった。本当は、爪は呼吸なんてしていない。ただの死んだ細胞だからだ。でもそれを知ったのはつい最近のことだった。男は一瞬、変な女、という目をしてから、すぐにさっきまでの無邪気を装った。
「今度うちに、飲みに来ませんか?」
 考える素振りの後、曖昧に頷く。
 だってどうせずっと変わらないままで、変われないままで生きていくんでしょ? 期待が裏切られるたびマニキュアの瓶は空になって、それを無表情を心がけながら捨てる私の姿がありありと脳裏に浮かぶ。
「とりあえず、今は、乾杯しましょ。」
 口角をあげて首を傾げてみれば、男はゆるりと笑う。
 どうか、次の幸せが泡沫のようにすぐに消えてしまいますように。唱えながら、青にまみれた手を伸ばした。



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