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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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電池切れ

12/08/27 コンテスト(テーマ):【 時計 】 コメント:2件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1960

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 依子は階段を、重たげな足取りで、上っていった。
 このマンションの非常階段が、すんなり入れることは確かめてあった。セキュリティがどうのこうのというほど、ここは新しくはない。
 屋上に上りきり、どこまでも広がる夕焼けの下に、彼女はたった。
 ふきつける秋の風が妙に、頬にやさしく感じられた。こんな気持ちになれるのは、もはや人生との戦いを、諦めたからにちがいない。
 自分に残された道は、いまいる場所から屋上のふちまでの、わずか数メートルだけだった。これを突き進むとあとは、宙におどりでて、一巻の終わりだった。
 一応、遺書は用意した。『迷惑をおかけします。お父さん、先立つ不幸をおゆるしください』
 父しか名前がでないのは、母ははやくに他界していたから。自殺の理由を書かないのは、書きだしたらそれこそ便箋何十枚にもおよぶことになり、この上もう疲れたくなかったからにほかならない。仕事に行き詰まり、もともと苦手な対人関係にあくせくし、息が詰まるような毎日のくりかえしで何年もやってきたが、それでもめげずにこれたのはなんといっても、恋人の存在だった。そのさいごの絆ともいえる彼にすてられたことが、依子をこの屋上まで導くきっかけになったことはまちがいなかった。筆が立つものなら、そんなこともめんめんと遺書に記して、自分を死においやった社会を、呪ってやることもできるのだが、あいにくと彼女は筆不精ときていた。こんなことならふだんから、文章をかきなれていればよかったと、悔いたところでいまさらどうなるものでもなかった。
 依子は、低い手すりにかこまれた屋上のふちまでくると、靴をぬいだ。朝方ふった雨の湿り気がひやりと足のうらに伝わってきた。死ぬとき、ひとはなぜ靴をぬぐのかがいまわかった。遺書の重しがわりにするのだ。
 彼女は無意識に、時計をはずしている自分に気づいて笑った。なにもこれから、温泉につかるわけではないのだ。はずしかけた時計に目をおとした依子は、それが父親からプレゼントされたものだということをおもいだした。
 今から十年前の成人式の日に、父親はいかにも不器用らしく、照れ笑いをうかべながらそっと、時計のはいった紙箱を娘に手渡した。小さな印刷工場を経営していた父は、もうそのころから経営が思わしくなく、運転資金のねん出に借金を重ねるようになっていた。いまから思えば、この時計を買うのにも、苦労したのではないだろうか。結局会社は倒産し、いまは派遣社員として働いている父親だった。
 電池が切れれば新しいのに換えて、いままでいちども止まったことはない。あのとき父親から手渡されて以来、時計はずっと生き続けてきた。
 これはわたしの心臓の鼓動と歩調をあわせて止まることなく時を刻みつづけてきたのだ。
 そうおもうと、たまらなくいとおしく思えてきて、おもわず依子は時計に頬ずりした。
 しかしもう、すべては終わった。やはり時計は、しっかり腕にはめておこう。地面に落下した瞬間、わたしの命が止まると同時に、時計もまた停止するのだ。さいごまでわたしと運命をともにしてくれるのは、おまえだけよ。
 依子は、文字盤をみた。5時5分だった。彼女はぞろ目が嫌いだった。誕生日も6月6日で、まったくろくな人生ではなかった。あと5分まってから、切のいい10分に飛び降りよう。
 彼女は、ますます深みをました夕空をながめてすごすことにした。自然は美にみちている。人間だって、自然の一員なのに、どうしてこう醜いのだろう。しかしそんな青臭いことばかりいっているから、こんな屋上に立つはめになったこともまた、かなしいことに自分にもわかっていた。ため息が、ひとりでにもれた。
 ぼちぼちと思って、ふたたび時計をながめた。文字盤ははっきりみてとれる。それはまだ、5時5分をしめしているた。時計は、一足はやく、止まってしまった。
「いままでいっしょ生きてきたのに―――」
 それはないでしょと、恨みをこめて彼女は時計をながめた。
 ここへくるまでに、ファッション時計をあつかっている店のまえをとおってきた。あそこなら、時計用の電池もおいているだろう。依子は靴をはくと、階段のほうに歩きはじめた。
 灯りがともった歩道におりた彼女は、本来ならそこの路面に倒れているはずの自分の姿を思い描いてみようとしてみたが、無意味とおもってやめた。
 時計屋にむかって歩みはじめた彼女の足もとに、うえからなにかがひらひらと舞いおちてきた。それはたしかに、靴の下においていた、遺書だった。
 忘れ物だよ。と、屋上から声がきこえたような気がした。
 もう、いらないわと、依子は小声でいいかえした。
 はやく時計に命をふきこんでやりたいとおもうと、彼女の足はしらずしらず、軽やかにはずみはじめた。


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このストーリーに関するコメント

12/08/27 W・アーム・スープレックス

相良さん、ありがとうございます。
テーマの『時計』は物としての時計と抽象的な時間としての時計があって、範囲がひろく、しかし私の場合はあっさり、前者を選びました。作品の雰囲気を読み取っていただけて、うれしいです。

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