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KOUICHI YOSHIOKAさん

性別 男性
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ほうじ茶の香り

16/02/14 コンテスト(テーマ):第101回 時空モノガタリ文学賞 【 お茶 】 コメント:0件 KOUICHI YOSHIOKA 閲覧数:1105

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 三年続いた同棲を解消する日の午後、裕子は熱いほうじ茶を入れて慎一に出した。
 暖房のよくきいた部屋の隅にある加湿器からは蒸気が勢いよく噴出している。慎一が買ったものだったが、喉の弱い裕子のために置いていくという。
「夜から雪が降るかもしれないんですって」
 テーブルに向かい合って座りながらほうじ茶をすすり合うふたりの姿は、長年連添った夫婦のようだと裕子は思う。
「雪が降りだす前には出て行くよ」
 慎一は壁にかかった時計をながめた。両手で湯呑を握っていたが、まだほうじ茶に口はつけていなかった。
 そんなつもりじゃないのに、と裕子は思いながら爪を眺める。慎一と出会う前にしていたネイルを今はしていない。短くそろえた爪先には夜の仕事をしていた面影はもうない。
 店の常連客だった慎一と店の外でも会うようになって、一ヶ月後には同棲をはじめていた。IT関係の仕事をしていた慎一はパソコンだけを持って裕子の部屋にやってきた。他に荷物はなかった。全部捨ててきたと言っていた。
「一からやり直すんだ。過去にいつまでも囚われたくないから」
 こう言う慎一の過去を裕子は知らない。聞こうともしなかった。裕子にだって言いたくない過去はある。
「パソコンは置いていくの」
「置いていくよ。田舎に戻って落ちついたらまた買い直せばいいし。よかったら使ってくれ。もしいらないのなら捨ててくれないか」
 使わないけど捨てないだろうな、と思いながらも「じゃ、捨てておくわね」と、裕子は言ってしまう。
 テーブルの上に置かれた灰皿、まだ一度も使ったことがない。さまざまな色のビー玉が入れられているだけ。去年買ったレースのカーテンはまだ新品のように見える。暖房の風で僅かに揺れている。慎一が来て買ったものってなんだろう。思い返してみてもレースの白いカーテンと加湿器しか思い浮かばない。
 二杯目のほうじ茶を飲みほして三杯目を裕子が飲み始めても、慎一はまだ湯呑に口すらつけていない。
「ほうじ茶って甘くて香ばしいよね」
「そうだな。苦くて、さっぱりしているな」
 慎一はようやくほうじ茶に口をつけた。眉に皺を寄せて半分笑った。
 どのお茶よりもほうじ茶が好きと慎一は言っていた。気取らない味が好きだと。でもこのときは好きなほうじ茶が出されていることも忘れていたようだ。
「冷めているんでしょう。入れなおすわね」
 裕子は湯呑をもって立ち上がるとキッチンに向かった。流し台にほうじ茶を捨て、ポットからお湯を急須にいれて湯呑に注いだ。真っ黒な陶器の湯呑、何一つ模様がない。そういえばこの湯呑も慎一が来てから買ったんだ、と裕子は思い出す。
「今日無理して出て行かなくってもいいんじゃない。ほら、雪になりそうだし」
「いや、これを飲んだら出ていくよ」
 慎一は湯気のでる湯呑を受け取って、俯きながら答える。
「実家に帰ってどうするの。お見合いでもして結婚するの。そして幸せな家庭をつくるつもりなの」
 抑えていた感情が溢れてくる。言ってはいけないことくらいわかっている。
「一人暮らしの母親の介護のためだよ。この前、怪我をしてから介護の手が必要になったって言っただろう」
「お母さんの介護の手伝いしてあげてもいいんだよ、わたしが」
「何言っているんだ。君のお父さんが近くの病院で入院しているんだろう。側にいてあげないとって言ってたばかりじゃないか」
「でも、でも」
 裕子の瞳から涙は流れ、頬をつたいほうじ茶のなかに落ちていく。
「これまでありがとう、忘れないから」
 一気にほうじ茶を飲み干すと慎一は立ち上がる。そして小さな鞄を手に取って玄関に向かった。
「もう行ってしまうの。まだ早いんじゃないの」
 裕子の頬に手を当てて、しっかりと顔を焼きつけるように見つめると、慎一は出て言った。ドアの閉まる音が足底に響いた。
 肩を落とし部屋に戻った裕子は、空になったままテーブルの上に残った慎一の湯呑にほうじ茶を注いだ。溢れるくらいいっぱいに注いだ。湯気がのぼり、ほうじ茶の香ばしいかおりが部屋いっぱいに広がっていく。
 裕子は両手で顔をおさえ声を殺して泣いた。


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