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霜月秋介さん

しもつきしゅうすけです。 日々の暮らしの中からモノガタリを見つけ出し、テーマに沿って書いていきます。

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我輩の愚痴である。名前は未だ無い。

16/02/01 コンテスト(テーマ):第100回 時空モノガタリ文学賞 【 純文学 】 コメント:2件 霜月秋介 閲覧数:1238

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 読者に媚びず、芸術性を重視したものを純文学と呼ぶらしいが、私には大衆文学とそれの境界線が見えない。わからない。
 そもそも私は文学については疎い方である。私は小説をあまり読まずに育った。というより小説に興味を抱けなかった。それが災いしてなのか、文章力も読解力も人に比べてさほど無い。それが最近になって興味を持ち始めている。
 明治の文豪、夏目漱石の本を何冊か読んでみた。そこで私は、いくつかの壁に激突した。まず漢字が読めない。小説を理解する以前の問題である。漢字には常にルビを振って欲しい。そうすれば実に読みやすい。しかし今度は登場する用語の意味がわからない。巻末に解説がついているが、いちいち巻末の解説と今読んでいるページを往復しながらを読み進めるというのはなかなか面倒である。読んでいるページの余白にでも解説を添えてくれれば実に読みやすい。小説の理解が深まるだろう。いや、どれもこれも私の勉強不足によるもので、私のただの我儘である。愚痴である。本を作った出版社の方々は悪くない。悪いのは私だ。
 しかし読めない漢字や理解できない用語を飛ばしても、読んだ夏目漱石の本はどこか、心に染みるものがあった。物語に登場する人物に自分自身を投影して書いた作品。自分自身の心を打ち明ける。人に心を開く。そして理解される。読者に媚びずに書いたものが、最終的には読者の心をつかむ。なんと素晴らしいことだろう。
 よく行く書店に置かれている無数の本の中で、どれが純文学でどれが大衆文学なのか、そういった概念は私にはよくわからないし、たとえわかったとしても本を選ぶときにきっとそこには拘らないだろう。たとえどんな小説だろうと、書き手が満たされ読者もまた満たされればそれでいい。純文学であれ大衆文学であれ私にとって小説とは、手紙や電話、メールといった人と人とを繋ぐものの延長線上にあるもの。小説とは書き手と読み手の心を繋ぐ一種の伝達手段なのかもしれない。


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このストーリーに関するコメント

16/02/15 光石七

拝読しました。
とても共感できる内容でした。
純文学と大衆文学の境目、私もわかりませんし、本を選ぶ際にはそんなことを考えません。
“たとえどんな小説だろうと、書き手が満たされ読者もまた満たされればそれでいい”、我が意を得たりと思える一文でした。

16/02/26 霜月秋介

光石七様、コメントありがとうございます。

共感していただけて光栄です。書き手も読み手もそれぞれ満足できればそれでいいですよね。

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