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橘瞬華さん

徒然なるままに。

性別 女性
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行く先

16/01/29 コンテスト(テーマ):第100回 時空モノガタリ文学賞 【 純文学 】 コメント:1件 橘瞬華 閲覧数:1065

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 一月二十九日。地は濡れそぼっており、澱んだ空気に吐き気がする。雪にでもなりそうな天気だ。洋靴に泥が付き、袴の裾に撥ねた。あなた、今日は何処へ行くんです、お仕事は、と追い駆けてくる妻を五月蝿い、家で物が書けるか、と振り切り何時もの道を辿った。くぐもった音と赤子の泣声が聞こえたが知ったことではない。
 家から程近い店の暖簾を潜ると奇妙な音が響く。店の中は薄暗く、一昔前にモダンだとか言って買い付けた西洋風のテヱブルやらランプやらが埃を被っている。ジジと音を立てる其れに小指の爪程の蛾が集っていた。また真昼間から酒かね、と言う店主に五月蝿い、と言うと目前にウイスキヰの瓶が置かれた。一口飲み下すと指先まで熱が回り、漸く生きた心地がした。
 常連さんかい。不意に聴き慣れない甲高い声が問い掛けた。目を遣ると三十代程の見慣れない女が、隅の椅子に腰掛けていた。あの女は、と店主に問うと、女が雨宿り以外に何が在りましょうと答えた。頭を揺らす耳障りな声を振り払う動作をしている内に女が隣に座った。やけに高そうな着物を着ている女だった。私にも一杯くださいな、と女は店主を手招きした。店主がコップを一つだけ寄越すと、女は瓶を取り上げ自らの器へ注いだ。何もかもが腹立たしい女だった。
 何か厭なことでもあってと女が問い、店主が何時こうだと答えた。此奴は物書きで、話の種がないと昼間から酒を呷る。売れたら払うとツケを増やして、赤子を抱えた嫁が土下座してすみません、すみませんと謝るのに横で平気な顔して突っ立ってる。気の毒な人だよ、この人も、奥さんも。五月蝿い、と悪態を吐いて瓶の中身を飲み干す。へぇ、作家なのかい。あんたが書いた物、読んでみたいわと女がコップの中身を飲み干ししな垂れ掛かった。白い咽の動きが妙に艶かしかった。使うなら二階にしてくれ、と店主は階段を指した。
 二階へは今日と同じように見知らぬ女と何度か登った。殆んどは作家だと知っている女で、何の女も何処か諦めたような空気を漂わせていた。作品から同じ空気を感じて遣って来たのだと言った。何時か此処は茶屋かと鼻で笑ったが、店主は似たようなもんだと答えた。意外と小奇麗なのね、と云う女の身体を布団へと押し遣った。声を聞く事すら煩わしく、唇を貪り、塞いだ。喘ぐ声が荒い息に変わるまでそうしていた。
 唇を首に、鎖骨に押し当てている間に、女は聞きもしない生い立ちを語り出した。私の家は町一番の呉服屋でね、両親が歳老いてから授かった一人娘で大事にされていたの。ところが嫁いだ先が地獄の様な所でね、実家に帰る事も許されなかった。或る日三年子無きは去れって着のみ着のまま追い出されて、実家に戻ったら両親はよう戻ったと泣いて喜んでくれて。でも明くる年には二人共逝ってしまった。散々泣いて、泣いて、一張羅を着て此処へ来たの。ねぇ、私の事を書いてね。きっと、きっとよ。
 何が文学だ。私小説など、只の自己満足だ。酒に溺れ、女に逃げる屑の生き様の何処が文学だ。何の国の文学もやれ人妻が、不倫が、何処ぞの女を孕ませただの三角関係の末に自殺しただの、何が純粋なものか。只の醜聞だ。読者なぞ私が今抱いている女の尻がどうだ、股の間がどうだの書けば悦ぶ只の豚だ。愛だの恋だのも、純文学などと云う言葉も幻想だ。何が芸術だ。死に損なった屑の戯言だ。読者なぞは作家の堕落した姿を見て端たないだの、否、之こそが生なのだと分かった様な口を利いて見下して楽しんでいるだけだ。
 初めは崇高な文学を極めようと思って居たはずなのに。如何してこうなってしまったのか。元はと言えば私の名でなら何でも好いと、出版社に日記を渡した妻のせいだ。あんな物を公開する気は無かった。私の子を孕み腹を膨らませた女で在っても、嫌悪感は消えなかった。赤子には触れた事がない。こうなる前は、妻を愛していた筈だ。大事にしておきたかった。妻子を慈しみ、志高く生きようとしていた。今や私の名は地に落ち、初期の作品は忘れられ、人の好奇心が日常の糧を与える屈辱の日々。刃物は腕に傷を残したが死に損なった。入水したが生き長らえた。私は生きながらにして死んでいる。
 私は女を抱き、心中を企てる。其処に愛なぞはない。私は死ぬ為に女を利用する。女も同じだ。愛だの恋と自分に酔い痴れ、儘ならぬ世から逃げ出す口実を探している。女は私の生きた証を残せと云う。其れは私でなくとも好い。私は消したいと願う。死んでも世の中に残り続けるのだ、此の不甲斐無い私の姿は。永遠に。憤りの儘力任せに腰を突き出すと、女は身体を仰け反らせた。
 此処からは一人で行くわ、然様なら、と女は足を踏み出す。女は振り返る事もしなかった。自らの行き先を決めた、軽やかな足取りだった。私は只立ち竦んだ儘空を見上げた。雨は上がり晴れ間が覗いていたが、向かう先は何処にも無い気がした。


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このストーリーに関するコメント

16/02/11 光石七

拝読しました。
落ちぶれてしまった純文学作家の心の叫びと苦悩、胸に迫るものがありました。
この主人公は、本当は誰よりも純粋なのだと思います。
一昔前の文豪を思わせる文体で雰囲気もあり、素晴らしかったです。

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