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私の生きる意味、生きる力

16/01/27 コンテスト(テーマ):第100回 時空モノガタリ文学賞 【 純文学 】 コメント:0件 Fue 閲覧数:1036

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自分は何の為に生きているのか、そもそも生きる意味などあるのか。つい最近私はこれについてよく考えていたが、これは多くの人が人生に一度や二度は考えることであろうと思う。
先日私は好きな人に振られた。正確に言えば振られたのではなく、彼女が別の人とのお付き合いを初めてしまったわけであるが、彼女を自分が愛せないことに変わりはない。そして私はその時ふと思ったのだ、これから何の為に生きればよいのか、と。
そもそも人が生きる目的、もっと言えば生きる目標というものが人それぞれであるのは自明であるが、どうやら私にとってはそれが彼女だったらしい。確かにこれまで彼女の事ばかり考え、彼女がどんな男を好み、どのようにすれば彼女を振り向かせられるかという事だけを考えてきた。振られてしまった今でさえ、どうして彼女がそれほどまで私の中で大きな存在であったのかを考えている。
ところで、失恋といえば私は夏目漱石先生の『こころ』に登場する人物であるKを思い出す。読んだ当時高校生だった私は国語の教師にKが自殺したのは失恋の為ではない、と言われて大きな反感を覚えたものだ。そして当時の私は高校生の頭で高校生なりに考えたのだった。Kが自殺したのは奥さんとKの親友である『先生』との結婚を打ち明けられた直後だった。それにもかかわらず、何故Kが死んだのが失恋の為でなかろうか。確かにKには色々な葛藤もあっただろう。また自分の『道』を外れた罪を償う覚悟がないこともない、と言っている。そう、覚悟はないこともない、即ち死んで罪を償う覚悟は無いこともなかったのだろう。それでは何故Kはあの時まだ自殺しなかったのか。そんなことは自明である、もちろん『お嬢さん』に恋をしていたからに他ならない。この時Kは先生の気持ちやお嬢さんの気持ちに気付いていたかどうかはわからない。しかし、このKの覚悟があったのちにKがすぐに自殺しなかったのはどういう形であれ恋への未練に他ならないのである。
さて、何故私がこんな話を持ち出したかというと、このKに私は自分を重ねられるからだ。ただ私にとっての『道』は『恋』そのものである。つまり私は『道』そのものをバッサリと断たれてしまったわけだ。『道』を絶たれた今、私は進むことができない。過去に戻ることはもちろんできないので、せいぜいできるのは過去を振り返ることとこれからどうするか考えることくらいだ。そうして考えた結果出てくる答えはやはり彼女のことばかりなのである。
愛とはなんたるか、恋とはなんたるか。これもまた多くの人は考えたことがあるだろう。しかし幾人がその答えに辿り着けただろう。しかし、そんな事は関係ないのである。つまり恋とは、愛とは、それだけ大きな力を持つものだということである。恋は人を悩ませ、時にはその命さえ奪う。故に愛は不義だ、邪悪なものだと人は言う。ああ、そこなのだ、そこが間違っていると私は敢えて断言しよう。何故恋が邪魔なものか、それは恋に逆らうからだ。自分の気持ちを偽るからなのだ。人が人を好きだという、それの何が邪魔なものか。邪魔だという者は皆嘘つきだ、恋などしてはいないのだ。それは恋故に物事が上手くいかない者は恋をしている自分をしていたいだけだ。真に恋をするならばそんな、恋を力に変えてみせよ。人を殺めてしまう程の恋の偉大なる力を我が物として見せしめよ。何物にも変えがたい、人を殺めてしまうほどの力で、私という一人の人間を生かせてみせようではないか。
そうしてやはり私はこの恋という『道』に生きようと思った。恋は叶うだとか叶わないだとかの話ではない、ただ純粋に彼女に向かって生きようと思ったのだ。


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