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ツチフルさん

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そして

16/01/02 コンテスト(テーマ):第九十八回 時空モノガタリ文学賞 【 革命 】 コメント:0件 ツチフル 閲覧数:1072

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『海馬』は脳の部位の一つで、記憶や空間と時間の把握に関わる重要な器官である。
 ここに損傷を受けると新しい情報を処理することができなくなくなり、少し前に話していたことを覚えていない、会った人のことをすぐに忘れるなどの記憶障害のほか、今いる場所や時間の感覚を喪失するなどの障碍を起こす。
 こうした障碍の典型的なものが認知症(特にアルツハイマー型)で、これは海馬の損傷から始まり、やがて脳全体の損傷へと広がっていく。
 認知症の完治は非常に難しく、これまでは薬物投与によって認知症の進行を遅らせることが限界であった。
 しかし、ある一人の研究者が、認知症の治療に革命を起こすことになる。
 それが『人工海馬』の発明だ。
 人工海馬は文字通り人工的に作られた海馬であり、損傷した海馬の機能をに完全に再現することができた。
 その効果はめざましく、認知症の進行が海馬より先に進んでいなければほぼ完全に機能を回復することができ、中には健常者よりも記憶力が高くなって周囲を驚かせたという報告さえある。
 こうして認知症は完治できる障碍となり、人工海馬は症状に苦しむ人々とその家族を救う福音となった。
 
 これほどの成果を上げれば、その功績にふさわしい賞が授与されるのは当然の結果だろう。
 しかし、研究者は辞退しつづけた。
「三十年後に、お受けましょう」
 そう言って、微笑んで。
 
 人工海馬は、さらにその用途を広めていく。
 認知症患者に効果があるならば、健常者に適用することもできるのではないか。
 記憶・時間・空間を司る海馬が強化されれば、あらゆる能力の底上げに繋がる。実現すれば、いわゆる『知能格差』も縮まるだろう。
 人工海馬の一般普及は、ここから爆発的に広がることになる。
 発表から五年後には人口の十パーセント、十年後には三十パーセント、十五年後には四十パーセントと増え続け、三十年目には貧困層や文明から外れた人々を除くほぼ全ての者が人工海馬を適用する世界になった。
 ここに至って、研究者はようやくその開発にふさわしい賞を受けることを受託した。

 取材陣のフラッシュの中、老年となった研究者は重い足取りで席に着き、大きく息をついた。
 司会者の長々しい紹介をうわの空で聞きながら、周りを見渡す。
 フラッシュがひとつ。ふたつ。ベストショットを撮るために、わずかな動きも見逃さないように。
 そんな彼らの脳にも、人工海馬が適用されている。
「それでは博士からのご挨拶です。博士、お願いします」
 長い紹介が終わり、促されてマイクに近づく。座ったまま話せるのはありがたかった。
「人工海馬は、海馬機能の代替として――すなわち情報を記憶し、空間と時間を認識する機能として――利用されている。かつては不治であった忌まわしい認知症もこれによって解決し、さらには健常者に適用することで知能格差を埋めることにも貢献している。ここにおられる方々も皆、人工海馬を適用しているだろう」
 フラッシュがまたひとつ。まぶしさに目を細める。
「私がこの場にいるのはその功績によるものであり、人の脳に革命を起こしたと評する声もある。…しかし、その評価はまだ早い」
 言葉を切って、壇上に置かれたペットボトルを手に取る。
「人工海馬を開発した際、私はその核にあるタイマーを設置した。製造過程でこのことに気づいた者もいただろう。…しかし、意味は理解できなかったらしい」
 できていたら私はここにいないと、研究者は笑う。
「人工海馬は開発以降、今も改良が加えられてきているが、核となる部分だけはそのまま使われている。
 つまり、世界中の人工海馬の中には私の仕掛けたタイマーが動いているわけだ」
 研究者はペットボトルの水を含み、懐からおもむろに懐中時計を取り出す。
「タイマーは本日の零時にセットされてる。正確には、この時計が零時を指す時だ。…あと四分ほどだな」
 時計をペットボトルに立てかけて、続ける。
「三十年という時間を設けたのは、できるだけ多くの者に人工海馬が適用されるのを待つためだ。むろん、私の時間との兼ね合いもあった」
 今日まで生きるために健康にはずいぶん気をつかったと研究者は笑う。
 取材陣は顔を見合わせて首をかしげる。
「理想は全人類に適用されることだったが、これはもとよりあり得ない話だ。…まあ、これだけ広まれば十分だろう」
 いつしかフラッシュは止み、静寂が会場を支配していた。懐中時計の針だけが、着実に時を進めていく。
「…あの。その時間がくると何が起きるのでしょうか」
 長い沈黙を破って、記者の一人が戸惑いながら聞く。
「その質問に答えたところで、すぐに意味はなくなるが」
 研究者はそう前置きをした後で、誇らしげに答えた。
「私が夢みた、本当の革命だ」

 そして。
 
 了


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