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土井 留さん

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失恋の風景

15/12/25 コンテスト(テーマ):第九十九回 時空モノガタリ文学賞 【 失恋 】 コメント:2件 土井 留 閲覧数:925

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 遠くで、自転車のブレーキをかける音がかすかに聞こえた。
 連続した作業の流れが中断されて私は数式を書き込む手を止めた。シャープペンシルを握った右手に目をやると、文字に押し付けられた小指の側が黒ずんでいた。大学受験を来月半ばに控え、机の上には使い込んでよれよれになった英和辞典や、角のすり減った参考書が積みあがっていた。
 私は大きく伸びをし、立ち上がって窓に向かった。カーテンを開けて外を見ると、結露の浮いたガラスからしみとおるような冷気が伝わってきた。夜の住宅街は深々と静かで、柔らかいオレンジの明かりがあちらこちらの窓から漏れていた。
 集中していると意識しないけれど、こうして手を止めて外を眺めていると、車の通り過ぎていく音が道路の方から聞こえてくる。あのブレーキの音もまた、その方向から聞こえてきたに違いなかった。
 気分転換をしようと思い、私は部屋着からジーパンと厚手のセーターに着替え、その上にダッフルコートを羽織った。
 こんな時間にどこに行くのというお母さんの声に、すぐ帰るからと返事をして、私はいつものスニーカーを履いた。玄関の戸を開けると、流れ込んできた外気が頬を冷やした。
 団地の階段を降りて自転車のロックを外した。そのカチャンという音を聞いた時、駅に向かう彼の姿が浮かんできた。目の前の道を、新田君は右から左の方向に向けて、薄青色の自転車に乗って通学していくのだった。
 家から最寄りのコンビニは左側にある。しかし私は、少し迷って右側に向かった。
 ペダルを踏みながら、私は五ヶ月前の日本史の授業を思い出した。黒板にびっしりと書き込まれた年号を写そうと顔を上げた時、彼のノートが目に入った。
 方眼が入ったページの隅には、小さなフクロウがスケッチされていた。それはキーホルダーらしく、てっぺんに金具があって何かからぶら下がっていた。新田君は時々下を向いて書き込みを加えた。フクロウのキーホルダーは、授業が進むにつれてだんだんと写実的になっていった。
 授業が終わると、私はノートをのぞいて新田君に話しかけた。
「それ、かわいいね。」
「これは練習。」
「練習?」
「うん。」
 新田君は少し顔を赤らめ、そそくさとノートを閉じてリュックサックにしまってしまった。
 その時から、新田君は私にとって特別になった。私は駅に向かう下り坂で彼の自転車を追い、駅と電車内では何とか自然に近づけないかと頭を悩ませ、教室の中では、この野郎こちらを振り向けとテレパシーを飛ばしてみた。
 私のノートの片隅には、甘ったるい妄想が書かれるようになった。誰にも見られたくないその言葉は、シャープペンシルでぐしゃぐしゃに塗りつぶされたり、大量の英文や数式で過去のページに追いやられたりした。
 そんな恥ずかしい日々が過ぎた。ある日の午後、私は交差点で信号が変わるのを待っていた。ふいと横を見ると、少し離れて止まった自転車のサドルの下に、あのフクロウがぶら下がっていた。
 正直、私はその時までノートに描かれたフクロウのことをすっかり忘れていた。しかし、かすかに揺れるフクロウが、私に彼を意識した瞬間を思い出させた。
 自転車の乗り手には見覚えがあった。一年前まで、彼女は私と同じ制服を着てこの道を通っていた。確か彼女は美術部で、何かのコンクールに入選したと掲示板に名前が張り出されたこともあったように思う。ストレートのショートカットが、色白の肌によく似合っていた。
 信号が青に変わり、止まっていた人たちが水の流れのように動き始めた。彼女の方が少し前にいたので、私は自然に後をついていく形になった。
 体を少し左右に傾けて、彼女は坂道を登っていく。あのフクロウが大きく揺れて、ときどき自転車のロックに触れて音を立てた。彼女が道を曲がるまでの数分間、私は新田君の眼で彼女を見ていた。
 あのノートのスケッチは、私の消された言葉だった。私が彼を思って書いたように、新田君はこの人を思ってフクロウを描いていたのだ。一目でそれとわかる写実的なスケッチには、彼が向けた視線の強さが表れていた。家に帰ると、私は枕を思いっきり抱きしめて、声を殺して泣いた。

 坂道を登り切ってスピードを上げた。胸の奥には、何かうずくようなものがあった。仮に偶然、今窓から自転車に乗る私の姿を見かけても、彼は風景画を見るようにただそれを眺めるだろう。彼の最寄りのコンビニに行ってみても、店員に機械的な挨拶をされるだけで、そこに彼が現れるなんてことはないだろう。
 それでもなお、彼がいるだろう方向に、私は引っ張られるように進んでいった。
 強くペダルを踏み込んだ。裸になった街路樹が後方に流されていった。吐く息がくっきりと白かった。空気の流れが目に痛かった。冷たく澄んだ冬の夜空に、星がちかちかと瞬いていた。


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このストーリーに関するコメント

16/01/30 つつい つつ

 失恋て、こういうことあるなと思いました。。彼が書いていたちょっとしたスケッチで気持ちに気づいてしまう。わからなくてもいいのに好きな人のことだと気づいてしまうもどかしさに共感しました。

16/01/31 土井 留

つつい つつさん
コメントありがとうございます。
恋心が通じていないことは、ちょっとした些細なことから分かったりしますよね。喜んでほしいことを喜んでもらえないとか。そういう些細なきっかけを書きたかったのですが、一例を考えるのに苦労して小細工を弄しました。

今思えば、失恋の一部を、「相手の注意がこちらに向いていない(別の対象に向いている)状態」と考えれば、もう少しいろいろな表現ができたのかなと思います。

制作の意図を改めて考える機会を作っていただき、ありがとうございました。

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