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橘 聰さん

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速さと重さとカーブ

15/11/19 コンテスト(テーマ):第九十七回 時空モノガタリ文学賞 【 他山の石 】 コメント:2件 橘 聰 閲覧数:1072

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 駅前のタクシー乗り場で空車のタクシーに乗り込む。
「K区民センターまで。」
 行き先を運転手に告げてシートに寄りかかり、今日の仕事について、頭の中で確認する。大丈夫、話すべきことはほぼ頭に入っているし、簡単なメモも用意した。必要と思われる各種資料も鞄の中だし、配布資料については先日手配してある。万事いつも通りだ。
 一通り確認を終えて意識を外に向けたところで丁度タクシーが止まった。目的地に着いたかと思ったが、路地から大きめの通りに出るT字路の赤信号で停止しただけだった。やることもないので外の景色でも眺めようと首を廻らすと、100メートルほど後方、一つ前の信号の右側車線で止まっている一台のバイクが目に留まった。しきりにエンジンをふかしていて落ち着きがない。信号が変わるのを待ちきれない様子だ。
 何の気なしに眺めていると、後方の信号が赤から青に変わるのとほぼ同時にバイクはスタートを切り、かなりの速さにまであっという間に加速した。そしてタクシーを右側から追い抜き、速度そのまま交差点に進入した。交差点に人がいないタイミングを逃したくなかったのだろうか。運転者にどのような事情があったのかはともかく、猛スピードで交差点に突っ込んだバイクは車体を目いっぱい傾けて右折を試みた。
 しかし、運転者の技量が低かったのか、タイヤのグリップの問題か、バイクは転倒し、バイクの車体は遠心力に従って横倒しになりながら滑っていった。幸い、T字路だったため対向車は無く、バイクも軽かったためか歩道の縁石に少し当たった程度で止まったようだ。すぐにライダーは起き上がり、バイクの方に向かっていった。それを左折するタクシーの中から見ていたが、それもすぐに遠ざかっていった。けが人もいなかったようだし、道路や電柱などが破損した様子も無かった。滑っていったバイクの側面に傷がついた程度だろう。ライダーにとっては少々痛い出費となるだろうが、けが人が、ましてや死人などが出ていたら、少々痛い出費どころでは済まなかっただろう。

「あんな粗い運転するバイクは多いの?この辺。」
「いえ、あんなのは見たことないですね。大方、免許取りたての若者が空いた道でレーサー気分になったんでしょうね。あのスピードと体の傾け方。完全に気分入ってましたよ。」
 私は、先ほどの勇ましい交差点への進入と、これでもかと傾けた体と車体、そして横倒しになって滑っていくバイクという一連の流れを思い出して思わず吹き出していた。運転手も思い出したのか、ルームミラーに映った顔は必死に笑いをこらえていた。
「まぁ、バイクの1人乗りだったからまだ良かったかもね。客を乗せたバスとかであんなんやられたらたまらないよ。」
「そんなことやるような人は運転手になれませんって。・・・と思いましたけど、ちょっと前にありましたねぇ、電車の脱線事故。スピードの出し過ぎが原因の。」
 運転手が言っている脱線事故は全国版のニュースにもなった大事故だ。あれも原因はカーブ進入時のスピードの出し過ぎだった。中学生レベルの理科の話だが、運動エネルギーは重量に比例し、速さの二乗に比例する。高速走行下でカーブする場合、運転者の技量が問われるのはもちろんだが、そもそもカーブの大きさや車体の重量とバランス、タイヤの性能によっては、物理的に制動不可能な場合もある。あの脱線事故のみならず、峠や夜道でのスピードの出し過ぎによる単独事故は、運転者の技量云々の前に、スピードと重量、そしてカーブの大きさとの関係を見誤ったために起こるものが大半ではないだろうか。“重いもの、速く動くものは急に方向を変えられない”。そのことを心に留めておくだけで単独事故のいくらかは減るだろう。事故を起こしたドライバー達やあのライダーは、中学時代の理科教育と、日々流れる事故のニュースの数々から、何も学んでいなかったというわけだ。

 そんなことを考えている間に目的地のK区民センターに着いた。私は料金を払ってタクシーから降り、事前に知らされていた控室に入った。何人かのスタッフと秘書と軽い打ち合わせをした後、今日の仕事が始まる。万雷の拍手を受けて登壇した私は、司会の紹介に続いてこう切り出した。
 「この国の経済を立て直すには既存の生ぬるい政策ではダメです。産業構造の改革も視野に入れた抜本的な大転換を可及的速やかに行うべきであり――」


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このストーリーに関するコメント

16/01/13 土井 留

拝読しました。深いですね。
主人公は、過去の経験に学んでいるのか、それとも、掛け声だけに終わった数々の「改革」を踏襲するのか。多分後者なのでしょう。事故と同様、笑えない話ですが。

16/01/17 橘 聰

土井 留さん

コメントありがとうございます。
書いた本人が言うのも変ですが、私もおそらく後者だと思います。学んでいるつもりで学べていないこと、学びの題材が目の前にあるのに気づかないこと、そういうことはたくさんあると自戒の意味も込めて書きました。

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