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空乃星丸さん

私がこの時空に現れて、地球は太陽の回りを60周しました

性別 男性
将来の夢 ピンピンコロリ
座右の銘 われ思う、x”&%

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山野町

15/11/14 コンテスト(テーマ):第六十八回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 空乃星丸 閲覧数:975

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 山野宅造、73歳。一代で建設会社を興した男。30代で建築事務所を開き、50歳で東証一部上場の中堅ゼネコンに育てあげた。その後も社長を続け、73歳でその座を独身の息子、優造に譲り、今は悠々自適な生活を、自分が創った高級住宅街で送っている。
 宅造は一人っ子であった。両親は物心ついたときに離婚し、長い間母一人、子一人の生活で育った。母親は朝から晩まで生活費を稼ぐことに追われ、場末の市営住宅で貧しい暮らしをしていた。しかし、高校には行かせてくれた。小学生の頃から家が貧乏で、テレビもなく、漫画雑誌などもなかった。そのため、やることがなく勉強ばかりやったおかげで成績は良かった。就職を考えて工業高校に進学し、優秀な成績で卒業した。そして、母を少しでも楽にさせたいという思いと、母を一人にしたくないという想いで、地元の小さな建築関係の会社に就職した。地元の街は観光が主たる食いぶちで他は農業しかなく、大した企業は無かった。宅造の最初の仕事は、小さなビルの解体作業であった。夜学に通い、通信教育も受け、取れるだけの資格を取り、25歳で一級建築士の資格も取った。さらに、仕事と勉強に明け暮れる日々を送った。とにかく稼げるようになって母を楽にしてやりたい一心であった。

 26歳の時、仕事のつてで建築設計事務所に転職した。その事務所で事務の仕事をやっていた幸子と出会った。この建築事務所は高度経済成長時代の波に乗り成長していた。しかし、大学出の後輩が、現場のことも分りもせず先に昇進する。宅造は30歳を過ぎたころ、独立して建築事務所を開いた。当初は顧客も少なかったが、10年以上建築業界で働いたことで、いろいろ人脈もできており、少しづつではあるが仕事を回してもらい、2年ほどで食えるようになり、母親にもそこそこの金を渡せるようになっていた。しかし、彼の母親はビルの清掃の仕事を続けた。宅造にもらった金は全部貯金していた。
この業界の水が宅造に合っていたのであろう。高度経済成長に合わせて宅造の会社は急成長をし始めた。独立して2年ごろ、32歳で5年ほど付き合った幸子と結婚し、すぐに長男、優造が生まれた。しばらくして長女、良子が生まれた。数年後、貯えも少しできたので、かなり大きな郊外の雑木林を格安で購入した。今は誰も見向きもしない二束三文の雑木林であるが、将来は必ずここが宅地になり、値上がりすると宅造は確信していた。
その後も右肩上がりで宅造の会社は成長し、社員も数十人となり、大型案件を十数件ほど抱え、超多忙になった。大型案件の中に、以前世話になった知人の小ぶりの仕事もあった。昔、世話になった手前無視できない。小型のビルを解体し、そこに新築のビルを建てる仕事であった。解体作業は、宅造が高校を出てすぐに就職した建築工事会社が請け負っていた。この会社も高度経済成長の恩恵を受け、数十の解体作業を請け負っており、猫の手も借りたいほど忙しかった。この解体の仕事の中に宅造の仕事も数件あった。小さなビルを解体し、ダンプカー一台分、コンクリートの瓦礫などの廃棄物が出た。わざわざこの程度の瓦礫を遠くの処分場に運ぶのは大きな仕事の進行に支障が出ると、旧知の担当者に泣きつかれた。宅造は自分の土地なら良いだろうという甘い考えで、以前購入した雑木林の一角に穴を掘らせ、そこに廃棄物を埋めるよう指示した。現代では不法投棄となるのであるが、高度経済成長の時代であり、あやふやに済ませた。また、忙しさにかまけてあまり深くは考えていなかった。やがてその場所に瓦礫を埋めたことも忘れてしまった。
その後も高度経済成長は続き、建設ラッシュの波に乗り宅造の会社は大きくなり、中堅のゼネコン企業となっていた。宅造は自分の仕事のために、資産を日本中の土地に変えていた。将来性のある日本中の数十か所に大きな土地を持っていた。バブル景気が始まった時にはこれらの土地の値段が高騰した。宅造はこれらの土地を担保に銀行から金を借り、目を付けた土地を購入し、マンションやビルを建てると飛ぶように売れた。宅造は土地を買っては、建てては売り、立てては売りを繰り返し、会社の資産も何百倍にもなり、50歳の時には、社員も1000人を超え、東証一部に上場した。その後73歳まで会社を引張って来たのであった。

 宅造の母は10年前、宅造が63歳の時、亡くなった。苦労して自分を育ててくれた母であった。宅造が独立し、金の心配がなくなり幸子と結婚し、30代の半ばころから、何度も宅造と妻の幸子は一緒に暮らすことを勧めた。しかし、住み慣れた市営住宅が良いと言って独り暮らしを続けた。一方、妻の幸子は名前とは裏腹に薄幸な人生を歩んできた。幼少の頃両親を事故で失い、親戚の家を転々とし、何とか高校を卒業し小さな町の建築事務所に就職した。そしてそこで宅造と出会い、5,6年の付き合いの末結婚した。幸子に母がいなかったこともあったのか、幸子は宅造の母をとても大切に想っていた。お互い通ずるものがあったのであろう。宅造の母も幸子を娘のように大切に想っていた。宅造の母が元気な時は、幸子と二人でよく買い物などにも一緒に行っていた。しかし、母が買うものは、孫の優造と良子のお菓子だけであった。その母も晩年はボケてきたこともあり、
10年ほど前に高級な介護施設に移し、そこで88歳で亡くなった。宅造達の同居の申し出をかたくなに断り続けたのは、宅造が小さいときに父親と別れ、息子に苦労させたことを申し訳ないと想っていたのであろう。また、幸子にもそれなりに遠慮していたのであろう。口数は少ないが、芯の強い人でもあった。宅造は苦労した母の人生を想い、73歳の今でも時折涙することもあった。

 高度経済成長と共に、車社会も拡大し続けていた。街には道路が整備され、車が無くては生活できない時代となっていた。宅造の生まれ育った街の隣の県には、大きな企業や工場がたくさんあり、宅造の街から職を求めて隣の県に働きに行く人々が増えていた。宅造の生まれ育った街の人々は、地価の高い繁華街やその近傍の住宅街に住居を買うことが難しく、郊外に格安な土地と家屋を求めるようになっていた。いわゆるドーナツ化現象である。これに少子化が輪をかけ、時代の変化とともに娯楽の質もかわり、観光客で賑わった繁華街はさびれ、沢山あった店は歯が抜けるように次々と消え、小さな空き地がところどころ目立つようになっていた。繁華街の近くにあった小学校や中学校が少子化により閉校となり、統廃合され、宅造が通った小学校の面影は微塵もなく、その跡地に統合された中学校が出来、皮肉にも宅造の会社が建てた鉄筋コンクリートの校舎が並んでいた。街の道路も拡張され、繁華街の脇にあったメイン道路だけが立派になっていた。この街は戦国時代から城下町として栄え、宅造が中学生のころまでは、ちんちん電車も走り、街はずれにある山裾の小さな公園には、動物園、淡水魚の小さな水族館、科学館、昆虫博物館、県立図書館などがあり、江戸時代の街並みも少し残っており、特に鵜飼いが有名であった。何もかもがこじんまりと小さく、むしろ可愛いく思える、街全体が小さなテーマパークのようであった。しかし、今ではこの面影もなくなり、あらゆる施設は雲散霧散し、街全体が車優先の道路の一部と化していた。宅造は生まれ育った街が死んでゆくように感じ,寂しく思っていた。一つの街を再生することは不可能である。せめて人々が心安らぐ住環境を提供したいと思うようになっていた。

 宅造は50歳も半ばに、若いときに購入した雑木林を宅地造成するプロジェクトを立ち上げた。緑の林や小さな森を残し、緑と住居のバランスが取れ、車と人間が共存でき、人の癒しとなる居住空間を構築し、住宅を建て手ごろな価格で提供し、住みやすく可愛い町にするプランを実行することにした。手始めに、町の計画を立て、雑木林の十分の一ほどを造成し、分譲住宅を60棟建てた。第一回目の分譲はすぐに完売した。さらに第二、第三の分譲を行い、合計200棟ほどが売れていた。4LDK、2階建て、建坪40、敷地60坪、駐車スペースは車二台でも十分な広さがあり、さびれたとはいえ街の繁華街へも車で15分、仕事のある隣の県には車で30分で行くことができる。宅造のプロジェクトの町の郊外は畑ばかりであったが、ここも少子化と過疎化で畑仕事の後を継ぐ者がおらず、荒れ果てた畑が多く散在していた。この開発も進め、宅造の町から車で十分で行ける、大型商業施設を誘致するよう市にも働きかけた結果、3つの商業施設が賛同し、建築中であった。やがては大きなモールになり、隣の県からの顧客も期待できる。このような条件で、宅造の住居は三千五百万円。売れないわけがない。5年ほど分譲を続けた。その頃にはすでに大型商業施設は完成し、新たな小学校もでき、バス亭も数か所にできていた。非常に人気のある物件となっていた。しかし、宅造は値上げをせず三千五百万円にこだわった。買い手が殺到し、抽選会で買い手を決めるようになっていた。宅造も自分で作った町を気に入り、5年前に、小高い場所に豪邸を建てた。雑木林は景観を考慮し半分ほど残し、公園も市の半額の補助金を得て作った。公園から車で10分の場所には市営のテニスコート、体育館、プールがあり、文化センターもあった。この文化センターには音楽ホールもあり、カルチャースクールやコンサート、美術展などが毎週催されていた。これらの施設建設にも宅造の会社は関わっていた。宅造73歳の現在では、住宅は700軒を超え、雑木林は宅造の理想とした小さな町になっており、宅造の名字が町名となり、山野町と呼ばれていた。
 この山野町を一周するように遊歩道も整備され、町の住民は網の目になった歩道を使い、どこからでも遊歩道に出られ、ウォーキングなどをする人が多く見られるようになっていた。遊歩道の脇には並木が続き、並木の根元には様々な花が植えられている。春はいうに及ばず、四季折々、色とりどりの可愛い花が咲き、初夏には木漏れ日と若葉が目に優しく、真夏には太陽の暑い光を遮り、この光で緑に輝く木の葉と木陰のコントラスト、秋には色づいた紅葉が雅な姿を見せる。雨に濡れた秋の遊歩道も、映画の恋人を待っているかのような気分にさせる。初冬には枯れ葉が寂しげな演出を醸し出し、カフェを飲みながらJAZZを耳にするのがお似合いである。真冬の立ち枯れた木々も味わいがある。雪が降ればまた白い世界が違った姿を見せてくれる。この遊歩道の脇には、いろいろな飲食店もできており、各国の料理が味わえ、食道楽が遠くから訪れるほどであった。この町は建築の専門誌やテレビなどで何度も紹介され、住みたい町ナンバーワンとなっていた。
宅造の邸宅から遊歩道に入りしばらく歩き、公園に入り、公園の中の池の脇を通り、三十分ほど林をウォーキングすると、洒落たカフェレストランがある。宅造と妻の幸子はこのカフェレストランまでやって来ると、軽い朝食を取り、食後のコーヒーを味わいながら、好きな音楽や旅行やとりとめのない話をしたり、時には、持ってきた本を読んだりして小一時間過ごし、また歩いて邸宅に帰るというのが日課になっていた。宅造は、優雅な老後の典型のような生活を送っていた。沢山作って売った大きなビルで会社を大きくしたこと以上に、小さいながらもこのような住環境を整え、手ごろな値段で提供できたことが、宅造にとって仕事の達成感と、人生を使っただけの価値を見出せる、遺作であるという自負に満足して日々を送っていたのであった。

 毎週、木曜日の朝十時前には、娘の良子が宅造の初孫の翔太を連れて宅造の邸宅にやって来る。文化センターの合唱の練習のためであった。年末に、ベートーベンの第九を文化センターの音楽ホールで歌うのである。良子にとっては父宅造の邸宅は丁度よい託児所である。宅造は、もうすぐ三歳になる翔太をとても可愛がっていた。玄関の扉から元気よく入って来るやいなや、翔太が
「じいじい、おさんぽ」
と言うと、翔太が宅造の手を引きながら遊歩道に出て公園まで行く。公園に行く途中に短い草の生えた空き地がある。
「ヒコーキ、ブーン」
と言いながら翔太は空き地を走り回る。宅造は毎度のことながら翔太に尋ねる。
「翔太はヒコーキが好きか」
「うん」
また両手を広げて、ブーンと言いながら空き地を数周する。やがてこれに飽きると、
「じいじい、おうまさん」
「おうまさんか」
と言いながら空き地から五分ほど歩いて公園に行く。公園の一角に、太いバネのついた馬の形の遊具がある。宅造が翔太を抱き上げ、おうまさんに乗せてやると、翔太ははしゃぎながら、おうまさんを、ゆすって遊ぶ。しばらくすると、
「じいじい、ぶらんこ」
宅造が馬から翔太をおろすや否や、走ってブランコに行く。その後は滑り台、砂場などで遊ぶ。いつも三十分ほど遊ぶ。その姿を宅造はいつも目を細めて見守っている。やがて、
「じいじいおうち」
「おうちに帰りたいのか。じゃあ手を洗って帰ろう」
と言って帰路に就く。例の空き地に来ると、翔太はまた両手を広げて走り回る。
「ヒコーキ、ブーン」
ひとしきり走り回ると
「じいじい、おんぶ」
宅造は翔太をおんぶして家に向かう。ほんの数分で、すやすや眠っている。家に帰ると妻の幸子が用意しておいた、小さな布団の上に静かに寝かせる。これが、翔太の宅造との小一時間のフルコースであった。
 娘の良子は昼の十二時前後には合唱の練習も終わり、仲の良い数人の友達と軽くお茶をしてから十三時ころ宅造の家に翔太を迎えに来る。母の幸子が用意した昼ご飯を皆で食べ、十四時には帰って行く。もう半年近く、木曜日の慣わしとなっていた。
 
秋が近づいてきた、ある木曜日、良子はいつものように翔太を連れて合唱の練習に来ていた。宅造はお決まりの翔太のフルコースの相手をしていた。これも終盤、翔太は公園から帰る途中の空き地で、ヒコーキブーンを数回やっていた。翔太はいつもと違う、空き地の奥のほうに飛んで行った。そして、何かにつまづき転んだ。宅造は草地だから大したケガもないだろうと思いつつ、声をかけながら翔太の方に歩いて行った。
「翔太、大丈夫かい」
「……」
返事がない。
「どうした!翔太!」
ピクリともしない翔太に駆け寄った。最初は気を失ったのかと思った。しかし、よく見ると翔太の背中に太さ6ミリほどの鉄筋らしきものが、10センチほど突き出ていた。鉄筋は翔太の心臓を貫き、あたりの草に大量の血が見つかった。即死であった。
宅造はしばらく呆然とした。……。
そして、ハッと思い出した。
……ああ!昔、瓦礫を埋めたのはここだったか!……


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