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クナリさん

小説が出版されることになりました。 『黒手毬珈琲館に灯はともる 〜優しい雨と、オレンジ・カプチーノ〜』 マイナビ出版ファン文庫より、平成28年5月20日発売です(表紙:六七質 様)。 http://www.amazon.co.jp/dp/4839958211

性別
将来の夢 絵本作家
座右の銘 明日の自分がきっとがんばる。

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美術嫌いがらくがきを――えっせえのようなもの――

15/10/17 コンテスト(テーマ):第六十六回 【 自由投稿スペース 】 コメント:4件 クナリ 閲覧数:1289

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 時空モノガタリ様へ投稿し始めてから幾星霜、投稿作品数も少し前に百を超えまして、飽きっぽい自分めにしてはよく続くなあ…と思っています。
 これもひとえに「掌編のみ」という、投稿規定に支えられているものであります。そうでなければ、「長々と文章書くのは大変だよう」と、とうに投げ出していたことでしょう。

 告白いたしますれば、私は自分が何らかの制作活動を行うとして、文字媒体では決して活動すまいと思っておりました。
 理由は簡単、「人に見てもらえないから」です。正確には、「内容を理解して頂けるまで閲覧者様にお付き合い頂くのが、難しい媒体であるから」ということです。
 これが絵ならば話は違います。大抵の絵は一目見れば、巧拙の分かりづらい難解な絵であっても、少なくとも「自分にとって好みであるかどうか」はほぼ一秒で分かります。その後評価が変わることはあるでしょうが、「その時どう思ったか」はすぐに分かる。
 これが文章、特に小説だと、そうは行きません。
 場合によっては、最後の最後まで集中して読み込まないと、本来の魅力の十分の一も伝わらないことがあるでしょう。

 このようなリスクのある分野には、決して手を出すまいと思っていました。単純に、自分なりの文章というものを書くのが嫌いだったということもあります。
 音楽方面などにおいては才能はもちろん感覚すらゼロ能力であった私の手慰みは、結局、絵を描く方向で落ち着きました。
 しかし考えてみれば、元々私は、絵を描くのも得意でない――と言うより、むしろ大嫌いでした。
 そんな私がぽこぽこと気ままに絵や文章を書いているというのは、昔の自分を考えれば何だか不思議なのですが。
 ――そろそろ肩が凝って来たので、慣れぬ敬語を使うのをやめようと思います。
 やはり本質的に、私は文章を書くということに向いていないのでしょう。

 そのようにコミックイラスト(というかポンチ絵)を描いて来た自分めが、時折目にするイラストあるあるがある。
 少しでもイラストを手掛けた経験がおありの方なら大抵体験しておられると思うのだけど、――……
「右利きの人間は、人物を描く時、『向かって左向きの顔』が描き易い」
というもの。
 これは、その通り。関節の形状の都合により、右利きの人は「(」という曲線は描き易いけど「)」という曲線は描き難いのである。そのために上のような状況が生まれる。
 さて、この事実は、時に次のような誤解を生む。
「向かって左向きの顔を描くのは、描き手が描き易いから(だけ)である」
「向かって左向きの顔を描いてる描き手は、テクがない(描き易い左向きは描けるけど、右向きの顔が描けない)」
「左向きの顔のキャライラストは描き手がラクをするためにそうしているので、ある意味で手抜きである」
など。
 そんな話は聞いたことがない、という方もおられるだろう。しかし、人によっては、揶揄の嘲笑と共に懸命に描いたイラストを(出来不出来と無関係に)上記の要領でけなされてしまうことがあるのだ。
 人によってはというのはつまり、私とかであるわけだけども。

 かくいう私は、大学の途中で入部した漫画研究会で、先輩と同級生から何度となく上のような揶揄を受けた。というより、左向きの顔を描いただけで「手抜きではないか」「ラクをしたのではないか」と突っ込まれた。
 それは単にお前の人望がなかったからではないかとか、単純に嫌われていたのではないかとか、そういうごもっともな指摘をなさってはいけない。
 そして私は一方的な迫害を受けていたか弱き被害者でも何でもなく、こっちも同じくらい先輩方を嫌っていたので、全くのどっちもどっちである。
 反りが合わないのは仕方ないのだが、あの、何かこっちが主張するたびに「ちょっと絵が描けるからって調子に乗らないでくれよ」みたいな主張は本当に困りもので、「ちょっと絵が描ければそれこそ、自分など及びもつかないような絵描き様がちまたにゴロゴロゴロゴロゴロゴロ在野してらっしゃるのが嫌という程よく分かるので、到底調子になんぞ乗ってる余裕などありゃしません」という感覚が、なかなか伝わり辛い。
 他にも「絵が描ければ偉いってわけじゃないだろう?」というのも言われたことがある。が、絵を描かなければ偉いというわけでもないだろうに、なぜそんな言われ方をするのかが分からぬ。
 私は絵を描こうが描くまいが元より勝手気ままな嫌な奴で(謙遜ではありません)、絵は関係ないのだ。つまり単純に、気が合わないのである。

 話が逸れました。
 確かに、キャラクタイラストで左向きの顔が描かれることは多い。そして、手の関節の都合上描き易いのも事実である。
 そしてその事実を含むからこそ、「左向きの顔=描き易いからってだけで描かれてる説」をさも常識のようにおっしゃる輩もいる。
 しかし、出来れば理不尽に上のような嘲笑を受ける人が減って欲しいので、はばかりながら書いてみたいと思う――「なぜ描き手は、そんな風に言われてしまうことを承知の上で左向きの顔をよく描くのか」。
 もちろん、あくまで個人的な解釈なので、「ンなことはない!」というお声があれば甘んじて受け入れる。

 上のような揶揄をする方というのは、多くの場合、イラストを自身で描いた経験がないか、あるいはまだあまり習熟していない。少なくとも、私の周りではそうだった。
 なぜかと言えば、理由のひとつには、左向きは描き易くて右向きは描き辛いなどというのは「ある程度描いた経験があればあまりに当たり前過ぎて、左向きだからどうのこうのといちいち言う気がしない」というのがある。わざわざはしゃいで揶揄の種にするような取り上げ方をする方は、絶対的な経験自体が不足しているのだ(例外はありますよ、もちろん)。
 描く方は、そんなものはとっくに織り込み済みで描いている。というか、「あー、左向きの顔だから、ラクして描いてるとか工夫してないとか思われちゃうかなー」とすら思うことがある(これは私だけかもしれぬ)。
 お前漫研でどんだけ馬鹿にされたんだと思われるかもしれないが、「多分死ぬまで根に持つだろうなというくらい」と言えば伝わるだろうか。やはり私はたいそう嫌われていたのだろう。
 いや、一生懸命に仕上げた絵をね、自分では一年に一枚も仕上げないどころかペンも握らない(それはそれで全然構わないんだけど)人達に一目見るなり「なーんだ左向きじゃん(冷笑)」と一笑に付される悲しみだの悔しさだのというのはうんほらこうなんでしょうね、うん(何だよ)。

 結論から申し上げれば、コミック調の絵柄(あるいはそうしたオファ)でキャラクタイラストを描く場合、左向きに描くのが妥当である。「左向きにしない建設的な理由は乏しい」とさえ言えると思う。
 それは、「美学」というものの理屈が大いに作用している。
 人間の視線というものは、実は、ある一定の法則に基づいてものを見ている(らしい)。
 簡単に言うと、「ある程度以上のサイズの絵を見る時、人間の視線は、左上から右下へ向かい、それから左下へ向かう」というものである。これは無意識にそうするらしいが、一応体系立てられた調査のうえでの結論らしいので、まあ、多くの場合にそういう傾向があるということなのだろう。
 「人間の視線のシャワーは、まず左上から降り注ぐ」のである。

 キャラクタイラストというのはその名の通り、、基本的に人物を際立たせる表現手法を取る。
 つまり可愛らしいゲームやアニメのヒロインであれば、そのヒロインが最も輝く角度や表情で描く必要があるわけで。
 そのためにはどうするか。
 上記の通り、人間の視線は最初にイラストの左上から、右下へと走る。そうなると、前向きで明るい性格の少女などを描く場合、最も効果的なのは「左向きで、心持ち上向き」という角度になる。左上からやって来る視線をガッチリと笑顔で受け止めることで、その魅力が最大限に表現される。
 逆に、「右向きで、気持ち下向き」は視線のシャワーに対して真逆を向いているわけで、ややミステリアスな、影のあるキャラクタに適している。右を向いているだけで、人物は少し落ち着いた印象を与えるのである。
 若い女性向けのファッション誌をお持ちの方は、ちょっとパラパラめくってみて頂きたい。「元気で明るい系」は顔が左向きであることが多く、「しっとりした大人の女性」は右を向いていることが多いと思う(違ったらすみません)。これは単なる偶然ではないのだ。
 つまり、魅力的な可愛い女の子の魅力をストレートに引き出したい場合、必然的に「左向きの顔」にすることが合理的だと言える。しかもこれが、「描き易い」(右利きには)。そうなるともう、ややデザイン性が勝ち過ぎる正面顔や、落ち着いてしまう右向きを選ぶメリットというのはほとんど無くなってしまう(それを逆手に取ることは、当然ありますが)。
 「左を向いた女の子の絵」というのは、その人物の魅力を最大に表現しようという先人達の研鑽の先にたどり着いた、英知の結晶なのである。
 気ままな落書きや、短時間での仕上げを強いられてやむを得ない場合ならともかく、ある程度気合いを入れた一枚絵においては、描き易いとかラクなどというのはおまけであって、このアングルを選んだ本質的な理由ではない。
 右手では難しかろうがやり辛かろうが、「それが一番良い角度」となれば描き手達は頑張って描くのである。
 たとえ職業作家ではなく趣味のイラスト描きさんでも、あの方達の探究心、、求道の精神は凄まじい。
 右手の関節の都合などという小ネタ以下の常識をちょっと聞きかじったくらいで、笑い物に出来るようなものではないのだ。

 また、「正面顔は難しいから描き手は正面顔のイラストを描きたがらないのサ」という論旨もよく見る。正面顔が難しいというのは正しい。出来れば描きたくないというのも、まあ人によっては間違いではない。
 しかし根本的に間違っているのは、正面顔というのは「難しい割に、必ずしもキャラクタを効果的に演出出来ない」角度なのだという認識なしに、難しいから描かないなどという唾棄すべき安直な結論を出してしまう態度である。この「」内の前半は単なるリスクだが、後半はその絵自体を描く意義の有無に関わる。キャラクタを魅力的に演出出来ないキャラクタイラストなど、誰が描くというのだ。

 正面顔をイラストで描く場合は、「正面であること」が、画面内のデザインとして必要とされていることが多い。被写体よりもデザイン性の比重が高いアングルなのだ。易しい、難しいなどという尺度は、お門違いもいいところである。
 そもそもそんなにラクがしたければ、誰も絵など描いていない。描き易いものだけを描いていれば満足なら、へのへのもへじで充分だ。ではなぜそうしないのか。それは、ラクさなど、絵を描く場合の優先順位としては下方もいいところだからだ。
 分かったような事を言うのなら、その前にせめてそれくらいは鑑みて頂きたい。
 「ラクだからそうしている」などとうそぶく方は、ご本人がたいそうラクさを重視しているだけであって、他大勢のイラスト描きさんには当たらない話である。

 一例として、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』とレンブラントの『自画像』を挙げておく。
 『真珠』の方は見返り美人風のバストショットを構図とし、少女は左を向いている。左上から来る視線のシャワーを、フェルメール特有の光効果によって照らされた少女の顔面が受け止め、最高に魅力的な画面になっている。
 対してレンブラントの自画像は、左上から来る視線を後頭部と肩で受け止め、上半身をどっしりと据えた人物配置で、何とも言えない重厚感と渋みがある。空気そのものの重みまで描かれているようだ。

 肖像画は全体的に左向きのものが多いが、これは上で申し上げてきた視線の流れが、その理由のひとつである。
 肖像画であるからには、そのモデルを魅力的に描くのが大前提なので、必然的に左向きが多くなる。右向きのものは、渋い男性や、色気・陰・落ち着きのある妙齢のご婦人が多く、また、人物そのもだけでなく場の雰囲気まで描写しようとするものが多い(大抵は重たい感じとか、陰鬱な感じとかですが)。

 また、「視線の動き」がいかに描き手に研究されているかという点について、個人的にとても好きな絵なのだけど、ウォーターハウスの『ヒュラスとニンフ達』を挙げておく。
 この絵で画家が訴えたいのは、タイトルに登場しておきながら顔面すらまともに描かれていないヒュラスの魅力ではない。この世のものとも思えぬ美しさのニンフ達である。もうこれは絶対間違いない。……ハズ弱気。
 左上から入った視線は、暗い画面の中で明るい肌色の塊であるヒュラスの背中に着き、腕を伝って、右下へ降りて行く。ヒュラスは顔もない没個性失礼なな人物なので、この視線の動きを邪魔しない。
 その先には、美しいニンフ達が「左上を向いて」待ち受けている。流れて来た視線を、眩しく眩しく受け止める。ヒュラスでなくても、虜になってしまう程に。
 このニンフ達も、ただ群がっているのではない。弧を描きながら続く彼女らの列につられ視線が右へ流れて行くと、彼女達の中央からは、右下から左下へ流れる水路(ハスで道が出来ている)がある。この流れは、先にも書いた、画面内を巡る視線の流れ(右下→左下)と一致している。
 これに沿って行くと、画面下方中央の後ろ向きのニンフ(顔を見せていないのでここでは視線が受け止められず、流れが止まらない)の腕を伝い、視線は再びヒュラスの腕へ。そして見る者の目はまたも、美しきニンフ達に吸い寄せられて行くのである。
 またこの絵では、見る者の視線が散漫にならないように、ヒュラスの左側には「右を向いており、視線が左側へ逃げてしまわないように押さえる役目」のニンフがいる。画面上部には「岸が横たわって上に逃げようとする視線を押さえ」、画面の四隅のうち左上・右上・左下の三か所には「植物の植え込み(生え込み?)や樹木があることで視線を抑え」、右下には「独立したハスの葉を一枚置くことで視線を押さえ」ている。画面右端中央当たりのニンフ二名も、視線が左上から右下に流れるままに右に行き過ぎて絵から出て行くことを止める役目を担っている。
 これらはある意味もう、オブジェによる枠線なのである。額縁なのである。
 そして、結果として――……この絵を見る者は、中央やや右の美しいニンフ達に、視線を絵の外に逃がすことも許されずに、何度も何度もまみえ続けることになるのだ。

 人物を魅力的に描くというのは、ただ造形を美しくするということだけでは完結しない。
 画面全体をどう生かすか、というのも大切な要素なのである。

 ちなみにたった今偉そうに書いた『ヒュラス〜』についてのうんちくは、筆者がこの絵を見てそう感じたというだけで、別段偉い美術の先生がそう言ってたとかではないので、全くの的外れの可能性もあるため、あんまり鵜呑みにはしないで下さいもっともらしく書いてどうもすみませんすみません。

 時折、ネット上でも「なぜ人物のイラストは左向きが多いの?」という質問に、ご本人でもないのに「それが右利きの人には描き易いからですよ」と答えている方を見かける。
 正面切って「それは全くの間違いではありませんが、正解からはとても遠い答えですよ」などと言っても、せっかくの知識披露に水を差したということで逆恨みされることもあるので、放っておいても良いと思うのだけど、まあ、あまり意地悪な視点で絵を見ても楽しくないと思うので、ひとつの豆知識として上のような話も頭の片隅に置いておいていただければ幸いである。
 だいたい今の時代、ラクに描きたいだけなら「左向きの顔を描く→画像反転で右向きにする」で済んでしまいますしね。

 上の話はあくまでそういうひとつの理屈がありますよ、というだけで、絵の世界における万能の法則ではない。
 しかし、人類の美追求の歴史が探し当てた「美学」の法則は、多くの人々によって今なお研究され、作品に活かされている。
 書店やコンビニに置かれている少年漫画でも、その一端は見える。
 日本では本は右から左に読み進めるので、「前向きに頑張るぞ!」と主人公が決意するシーンでは、その流れに沿った上で視線のシャワーを受け止めるよう「左上を向いている」とか。
 逆に「ちょっと待てよ」と読者に一度立ち止まって欲しい時は、右→左の流れを受け止めながら陰を出せる、「右向きでうつむいている」顔になる、など。
 個人的には、少年ジャンプで連載されていた某囲碁漫画でよくこの手法を見た(作者様がそうと意図されているかどうかは不明ですが)。何しろ題材が囲碁なのでスポーツなどと違って体の動きがなく、顔のアップがよく出ていた漫画だったせいもあるだろう。

 まあ、あまりにわか知識で人を笑っちゃ良くないですよ、という話です(私怨あり←台無し)。
 今後キャラクタイラストを見る際、ちょこっと思い出して頂ければより楽しめるかもしれません。キャラクタの魅力が重要となるファンタジーや美少女ゲームのジャケット写真などでも、よく留意される要素なので。

 ラクだから、描き易いから左向きにしているんではありません。
 最も良いアングルを選んだら、それが後から見たら描き易い角度だったんです。
 順番が、優先順位が違うんですよ……と。

 以上、長々とつまらぬ話でしたが、読んで下さった方、ありがとうございました。


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このストーリーに関するコメント

15/10/17 クナリ

参考画像が見づらくてスミマセン特にヒュラス。
よろしければCtrlとマウスホイールころころで拡大してやって下さい。


15/10/17 クナリ

参考画像が見づらくてスミマセン特にヒュラス。
よろしければCtrlとマウスホイールころころで拡大してやって下さい。


15/11/13 石蕗亮

拝読いたしました。
お久しぶりです。
色々考察させられる内容で面白かったです。
私も一度は絵の世界に挑戦してみましたが絵心が無いと判明し諦めました。
ですが、構図などは好きで今回の物語は楽しませて頂きました。

15/11/14 クナリ

石蕗亮さん>
自分めも絵心がないなりに、落書きの延長で描いております(^^;)。
構図や色調についての理論は、純粋に学問としての面白さがありますね。
椅子などと同じで、物理+人間の工学的あるいは生理的な性向まで考えて、先人たちが発掘してきた情報なのでしょう…。
ここに書いてあるのはそのほんの一部かそれ以下ですが、絵を楽しむ一助になれば幸いです。
コメント、ありがとうございました!

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