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ゆい城 美雲さん

お目にかかれて光栄です。 まだまだ未熟者ですがよろしくお願いします。 太宰治の富嶽百景が好きです。 コメントや評価、とても嬉しいです!お返事が遅くなることがありますが、ご了承ください。

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うたひめ1to3

15/05/09 コンテスト(テーマ):第八十二回 時空モノガタリ文学賞 【 海 】 コメント:1件 ゆい城 美雲 閲覧数:1306

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 最近俺が越してきた部屋は、随分海に近い。窓を少し開けるだけでも、潮の匂いを乗せた、ぼんやりした風が入ってくるほどだ。耳を澄ませば、波が行ったり来たりするのが微かに聞こえる。
 俺は今まで、海を眼前で、実際に見たことがなかったから、初めてここに来て、海を見たとき、全く失望させられた。俺が思い描く海は、南国旅行のパンフレットのように、青い、宝石を閉じ込めたような、綺麗な海だったからだ。だが、実際どうだ。俺の隣の海は、緑も深みどり、まるで忘れられた底なし沼のようにどんより、空も、砂浜も、濁った寒色で、一概に言うと、汚い。磯の香りは、鼻をつく。海風は、アイロニカルっぽく、生ぬるく体にまとわりついて、気持ちの悪い。海は、ああ、嫌だ。しかし、また引っ越すとなると、中々に骨が折れるため、俺は何とか海と共存することを選んだのである。生きる上では、妥協が何より大切だ。しかし、いつか、俺はサンゴ礁でできた島に、住んでやる。そんなつまらないことを考えながら、乾いたパンとぬるい粗茶を嚥下する。だいぶ先の希望になりそうだ。
 言いたいことはあるものの、湿っぽい部屋で、一週間暮らした。実際、慣れてしまえばこちらのもので、磯の香りも、風の生ぬるさも、もう、大した問題ではない。もとより、俺は整合性の取れた人間ではなかったし、細かいことも、さほど気にならないたちだからかもしれない。そんな、侘しい夜のことだ。ちょうど、俺の背くらいに位置する、小さな窓から、風に乗って透き通った歌声が入ってきたのだ。俺は音楽には、全く明るくないが、この声は、世界で一番綺麗なのではないか、と思うほどだ。青嵐のように力強く、雨のように寂しく、砂漠のように乾いて、太陽のように、暖かい。もし、天国があるとしたら、きっと、こんな歌が、俺を迎えてくれるのであろう。その歌唄いが、本当は天から舞い降りた、天使なのではないかとも思った。やがて、オレンジの光が、辺りを照らし始めると、その声は段々とヴォリュームを落としていき、日が昇ったのを見計らったかのように消えてしまった。俺は少しだけ、海を好きになった。
 その次の日も、歌が漂う。昨日より、少し近くに居るようで、よく聞こえる。どこか、遠い国を連想させるリズムで、歌詞もわからない。ただ、ただ、その女の歌声は俺を安堵させる。シャットダウンしていた人間としての機能が、少しずつ回復し、腐っていた四肢が息を吹き返すようだった。あの歌は、俺を回す歯車の、主要な油になっていた。今まで、そんなもの、求めたことは一度もなかったのに、と俺は苦笑する。頬をあげたのは、何年ぶりであろうか。
 何回か太陽が昇り下りを繰り返し、女の声が耳元すぐに迫ろうとしていた時分の頃だ。太陽がそろそろ、山陰にいとましようとしていたら、番号になり変わった俺の名前…もっとも、本名はもうだいぶ前にどこかにやってしまったから、覚えてすらないのだが、それを、頬のこけた、背の高い、ここの住民が呼んだ。その男の目は、隣の海のように、濁っていて、泥を塗りたくられたように思えた。彼は俺と目を合わせずに、部屋の外に誘導する。足の裏が冷やっとした。
 無論、廊下の空気も、生ぬるく、鼻に付く。なんら変わりないのだ。ここも、外も。外に出ても、俺の世界は生臭く、退廃的で、いつでも厭世的で心地悪い。俺にとって、どこが天国なのか、てんでわからない。兎に角、前の男が天人で、天国に案内してくれているとは、到底思えないが、頭痛が酷い頭では、うまく考えがまとまらない。取り敢えず、彼についていこう。男とともに、薄暗く、湿っぽい空気を掻き分けながら、亡霊のように進んでいく。やがて、突き当たりに近づくと、重厚な扉が、どんと構えているのが、見えた。 俺はまだあの女の歌声を聞いている。
 男は、目線で俺に、そこに入るよう命じた。その通りにする。中は、黒々としている。また、彼女の声が、一層響く。そうして、目の前に現れた階段を登る。また階段を登る。歌が大きく響く。登る、響く、登る、響く、登る。あとは、もう、その繰り返し。鄙びた光が埃に乱反射しながら差し込む、階段の一番上に着く頃には、その女の歌しか、頭にない。そして、おれは今日も、なんてことない日々を過ごすのだ。淀んだ海から流れる歌を聴きながら、静かに眠るのだ。やっと目を閉じたとき、瞳から流れた海水がなんだったのか、おれには到底わからなかったが、足元にぽかりと生まれたどす黒い穴に向かって重力に従順になったときには、あの女のことは、少しだけ、思い出した。


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このストーリーに関するコメント

15/05/23 光石七

拝読しました。
主人公の部屋の正体に驚きました。
後半になるにつれて主人公の思考が普通でないことがわかってきて、怖さや哀しさと同時に奇妙な親しみを覚えました。
海で女性の声といえば船を難破させるセイレーンを連想しますが、これも一種のセイレーンかもしれませんね。
不思議な魅力を持ったお話でした。

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