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朝綺さん

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きみと話がしたかった

15/04/15 コンテスト(テーマ):第八十回 時空モノガタリ文学賞 【 テーブルの上 】 コメント:4件 朝綺 閲覧数:1225

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 五月も終わりに近付くと、夏はもう目の前だった。
 窓の大きなリビングは、朝の澄んだ光に満たされて眩しい。
 起きてすぐ、中央のテーブルに歩み寄るのは、このマンションに引っ越してから身に付いた習慣だった。
『おはよう。いってらっしゃい。おやすみ』
 右上がりの几帳面な文字でしたためられた簡潔なメモ。ささやかな挨拶だけを綴ったそれは、ドアの奥で眠っている同居人が僕に宛てた手紙だった。
 椅子を引く乾いた音が部屋に響く。
 白くて分厚いメモ帳を一枚ちぎって、隣にあるペンを取る。
『おはよう。たまには外の空気を吸っておいでね。いってきます』
 小言を添えた手紙を書き上げ、朝食の支度に取り掛かる。
 ベーコンエッグにサラダとスープ。二枚用意した皿の片方にはラップを掛けた。
 引きこもりの友人は、昼まで起きない。

 仕事を終えて帰宅すると、玄関に明りが灯っている。濃紺の夜を切り取る橙は、彼が示す気遣いの一部だ。
 ただいまと薄暗いリビングに呟けば、返事はメモ書きが返してくれる。
 おかえりとだけ綴られた短い手紙と、麻婆豆腐と炒飯の皿。
 閉まったドアの隙間から、細く光が漏れている。
 彼は今、恐らく仕事の最中だ。
 書いていられればそれでいいと語った男は、ひたすらに物語を描き続けている。
 新人賞をもらったとか、文庫が出るとか、大事な話は全部メモ書きから受け取った。
 喋ることを許されずにきた彼は、紙の上では殊更に雄弁だったから、この会話の方法は丁度よかったのだろう。
 小さな紙片の運ぶ言葉が、僕らの会話の全てだった。僕たちは、テーブルの上で絆を繋ぐ。

 明け方に降り出した雨で、リビングはずいぶん薄暗かった。
 いつものようにメモを手にして、ひんやりと心臓の凍り付いていくのを感じた。
『そろそろ出ていこうと思う』
 普段より硬い筆致をした文字に、滲む決意に眩暈がする。
「なんで……」
 正面切って問えないことが、これ程もどかしかったことはない。
 冷静になれよとひとり心に叱咤して、深く酸素を吸い込んだ。
 コーヒーを淹れてトーストを焼く。ベーコンは焦がしたし、スクランブルエッグはいり卵になった。
 苦い食事を飲み込みながら、必死に問いをひねり出す。
『急に、どうして?』

『ずっと考えてはいたんだ。一緒にいると甘えちゃうから。それはよくないことだと思った』
 散々な一日の最後に駄目を押されて、いっそ泣きたい心地がした。
 いつかはと、考えなかったわけじゃない。曖昧に絡んだ糸は、ほどかれるべきなのだ。
 虚しさが深く胸を満たしたけれど、出ていくというものを引き留める権利など、この手にはないのだった。
『いついくの?』
『五月の終わりに』
『住む場所は決まってる?』
『大丈夫。家具やなんかも目星はついたし。落ち着いたら遊びにきてよ』
 たまには外の空気をなんて、てんで的外れな助言だった。ベランダに出るのもやっとだった彼が、今はもう、一人で外出だってできる。僕はなにも知らないまんま、彼を守った気になっていた。
 朝一番のテーブルで、帰宅しなのテーブルで、僕は彼の今を知る。

 五月最後の朝がきて、僕はそっと、彼の部屋の扉を開けた。
 薄いカーテンの隙間から忍び込んだ早朝の陽光が、白い寝顔を照らしていた。
 どれぐらいぶりだろう。同じ家に暮らしているのに、顔を合わせることはほとんどなかった。不自然な同居だったけれど、だからこそ許されるのだと信じていた。
 おはようと、いってらっしゃいと、おやすみの、そっけない手紙につい笑った。
『いってらっしゃい、気を付けて。今まで、本当にありがとう』
 慣れない文面を綴る指先がもつれたせいで、メモを二枚駄目にした。いってらっしゃいはなにか違う気がしたけれど、他に言いようが見つからなかった。
 普段通りの支度をする。二人分の朝食を作り、一人前を平らげる。
 いってきますと部屋を出た。
 帰る頃に、彼はいない。

 真っ暗な玄関に、薄暗いリビング。漏れる光のないことが、彼の不在を知らしめていた。
 明りをつけて椅子を引く。
 いつもの場所に残された、最後の手紙。
 読みたくないのに手が伸びて、文字を目が追い掛けていた。
 目頭が熱を持ち、視界が滲む。
「うそ……」
 呟いて席を立つ。鍵も掛けずに部屋を飛び出し、階段を駆け上る。
 手中のメモと眼前のプレートを見比べて、震える指でチャイムを押した。
 焦れるような間の後に、扉が開く。
「おかえりなさい」
 照れくさそうに彼が笑った。
「なんで……」
 滲む視界で頼りなく問えば、ごめんねと彼は言い、ドアの内側へそっと僕を招き入れた。
「テーブルの上じゃなく、こうして話がしたかった」
 長く続いた習慣の壊し方がわからなかったと詫びた彼は、ぎこちなく僕の目元を拭った。


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このストーリーに関するコメント

15/04/20 つつい つつ

テーブルの上のメモのやりとりだけの静かな展開ですが、心の内の葛藤や
悲しみ、せつなさがすごく伝わってきました。

15/04/22 光石七

拝読しました。
何故彼が喋ることを許されなかったのか、何故このような関係が続いていたのか、はっきり書かれていないのが逆に効果的だと感じました。
文章・描写がとてもきれいですね。色彩感と透明感が魅力的で、すっと引き込まれます。
雰囲気のある素敵なお話をありがとうございます。

15/05/03 クナリ

さびしくもロマンチックに終わるかと思いきや、この劇的なエンディングは、…やられました(^^;)。

本筋とは関係ないところですが、単に怠惰からくる引きこもりではなくてちゃんと結果を出す仕事をしている『彼』だからこそ、ここまでの信頼関係を主人公と築けているのかな…と、作中の説得力を裏付けている部分に感銘を受けました。

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