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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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幽霊を見る少年

15/02/02 コンテスト(テーマ):第五十回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1243

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 立花ヒロオは、彼女のあとをつけることにした。
 中学校からの帰りみちに、ばったりでくわした。尾崎ハユキ。
 近所にすんでいたから、その丸みをおびた顔と、額の上できっちりそろえた髪型を、ヒロオが忘れるはずがなかった。道端ででくわしたりすると、どちらも頬をぽっと赤く染めたりしたことを、ヒロオはいまもよくおぼえていた。
 彼女は一年前、交通事故で亡くなった。
 病院に運ばれてから、息をとめるまでの三日の間、両親や弟にみまもられて彼女はあの世に旅立った。ヒロオがみたのは、まぎれもなくその彼女だった。
じつはヒロオは、よく幽霊をみた。
 これまでにも、何人もの幽霊とであっている。
 幽霊はどこにでもいた。歩道の上や、市場のなか、川岸や、映画館にも、みかけたことがあった。
 であうと、ヒロオはすぐぴんときた。
直観というやつだろうか。見た目は、ふつうの人々と、ひとつも変わりはない。だけど、どこかちがった。ふつうの人たちが、この人生を、どこかにむかってまっしぐらにつきすすんでいるのに比べ、かれら幽霊たちは、その場にじっととどまっているような印象があった。もう、いきつくところにたどりついていて、それ以上、どこにもいく必要がなくなった。かれらにはいつも、そんな雰囲気がただよっていた。
 これまでなんども、幽霊を目撃したことのあるヒロオだったが、顔見知りの幽霊を見たのはこれがはじめてだった。
ヒロオが幽霊のあとをつける気になったのは、そんな理由からだった。
 尾崎ハユキは、生前彼女がすんでいた家のまえで足をとめた。
彼女の家は、商店街のはずれにある花屋で、店内には彼女の両親の姿が見える。ハユキが亡くなったときは、見る影もなくやつれてみえた二人も、一年後のいまは、元気をとりもどした様子で、母親は客の応対を、父親は花をつつんでいる。
母親も父親も、彼女にまったく気づいた様子はない。
それを見ているとヒロオは、どちらかでも、ちょっとでいいから、彼女に気づいてやったらと、残念に思った。

 ヒロオはその夜、仕事からかえってきた母親の和江との食事の最中に、こんなことをたずねた。
「母さん、幽霊って、信じるかい?」
和江は、口許までもっていった箸をとめると、じっと息子の顔をみつめた。
「どうしてそんなことを、きくの?」
 黙っているヒロオを、ちらとみて和江は、
「みたのね?」
「………う、うん」
 和江は、湯呑のお茶をゴクリとのんで、
「私も、どういうわけか、よくみるの。で、だれをみたの?」
「花屋の、ハユキだよ。あとをつけていったんだ」
「まあ、あんたも、よくやるわ。幽霊のあとなんか、つけるもんじゃないわ。あの世に引き込まれたら、どうするの」
「そんなことが、あるのかい?」
「わからないけど、注意はすることね。幽霊をストーカーするなんて、いけない趣味よ。ハユキちゃん、あなたには気づいていたのかしら」
「さあ、どうかな………」
 和江は、きびしい目で息子を見据えた。
「こんど、ハユキちゃんがあらわれても、けっしてあとをつけたりしちゃいけないわよ。あなたがあの子に興味があるようなそぶりをみせたら、あの子だってあなたに、興味をもつにちがいないから」
「わかったよ、母さん」
 ヒロオは、母親を心配させたくなかったので、素直にうなずいていた。
 和江は、食事が終わり、食卓を片付けおえると、奥の部屋にいって、仏壇に飾られた夫の遺影に手をあわせた。ヒロオの父が癌で死んだのは、いまから半年前のことだった。それ以来一人息子の彼は、母親ひとつの手で育てられた。
母さんを、悲しませてはならない。もう一度、ヒロオは自分にいいきかせた。
ハユキがつぎにヒロオのまえに姿をあらわしたのは、一週間後のことだった。
このときも下校時、このまえとほとんどおなじ場所で、ヒロオは背後にだれかの気配を感じて、ふりかえった。
彼の目とハユキの目が、まともにあった。おたがいをみとめあった瞬間だった。
「ハユキ」
 おもいきって、ヒロオはよびかけた。
 ハユキはだまったまま、じっとこちらを見かえした。
 「ヒロオくん」
  当時、ヒロオがよく目にした、唇の両端をきゅっとすぼめるような笑いをハユキは浮かべた。
「やっぱり、きみだったんだ。元気?」
 いってから彼は、ハッとなった。元気な幽霊なんて、いるのだろうか。
 彼女はまた、おかしそうに笑った。生前どおりの、明るいハユキだった。
 二人のそばを、バイクが轟音をたててとおりすぎていった。また道の向う側からちかづいてくる数人の生徒たちの姿がみえた。
「図書館のうらの、古墳公園にいこうか」
 古墳公園は、このまちの高台にある、古墳時代に作られたという直径8メートルのかわいらしい小円墳のある公園で、鉄柵に囲まれた横穴式石室は、外からだれでも見学することができた。日昼、図書館をおとずれた連中が、裏山をあがって見に行くことはあっても、すでに日も大きく傾いたいまじぶんにでかけるものはまずいなかった。
 ヒロオはハユキとともに、古墳のならびにおかれたベンチに、ならんで腰をおろした。もっと辺りが暗くなれば、このあたりには蝙蝠がさかんにとびかい、場所が場所だけに、薄気味悪さがまして、もじどおりおばけでもでそうなふんいきになるのだが、すでに幽霊は出ているので、ヒロオはもうこれ以上恐れることもないと開きなおった。
「ここなら、だれにもじゃまされずに、話ができるよ」
「あなたとであえて、ほんとうによかったわ。だって、だれも、あたしのことに気がつかないんですもの」
「ふつう、幽霊って、もっとおそろしいものだとおもうんだけど、きみをみてても、ちっともそんなこと感じないのは、どうしてだろう」
「気持ちがつうじあっているからじゃないかしら」
 ヒロオは、ハユキをみていると、どんなことでも包み隠さず話したい気持ちになってきた。
「母さんがね、幽霊にはかかわりあうな、それはなぜかというと、ひきずりこまれるからだといって、釘をさしたんだよ」
「それをいわれていて、どうしてあたしにかかわりあったの?」
「やっぱり、ぼくはハユキちゃんが、好きだったからだ」
 彼女が生きているときは、とてもこんな大胆なことはいえなかったが、なぜかいまなら、照れることなく口にできた。
「ありがとう。あたしも、ヒロオちゃんのこと、好きよ」
「これから、どうするつもりだい」
「やりとげなきゃならないことをやらないかぎり、いつつまでもここにとどまっていなくちゃならない」」
「家族にはあえたんだろ」
「あれは、ちょっとしたよりみちだったの」
「よりみち?」
「わたしにはほかに、やらなきゃならないことがあるの」
「どうして、それをやらないんだ」
「やらないんじゃなくて、まだその時期じゃないの」
「なんだかむずかしそうだね」
「そのときがきたら、あなたにもわかるとおもう。―――おそくなるわ」
 いわれてはじめてヒロオは、ここにきたときにはみえていた夕日が、いまはすっかりむこうの山の影に隠れてみえなくなっているのをしった。図書館はとっくに閉館になっていて、それでなくてもひっそりした古墳公園の周囲は、くろぐろとした闇がつつみこもうとしていた。
「きみは、どうするの?」
「あたしのことは心配無用よ」
 確かに、幽霊の身を案じたところで、はじまらないことに気づいたヒロオは、ハユキにむかって手をふって、下につづく階段をおりはじめた。階段をおりたところで、ふりかえってみたが、もうどこにも彼女の姿はみえなかった。

 ヒロオが家にかえって、しばらくすると、母親の和江も帰宅した。
「どうしたの?」
 部屋にはいってくるなり、和江がいぶかしそうにたずねた。
「なにが?」
「顔色がわるいわよ」
「なんでもないよ。おなかがすいただけさ。晩御飯、はやく作ってよ」
 和江はもうそれ以上なにもきくことなく、いつものように仏壇で手をあわせてから、キッチンにはいって、調理にとりかかった。
 まもなくテーブルに、彼の大好物のオムライスがあらわれた。
 いつにない食欲をみせてヒロオは、オムライスを二人前、たちまちたいらげてしまった。
「ほんとにおなかがすいていたのね」
 満足そうに、椅子のうえで腹をつきだす息子をみて、和江はなんだかほっとしたようだった。 
 その夜、ヒロオは、ハユキの夢をみた。
 夢にしては、あまりにもリアルだった。夢のなかで彼は、しきりに彼女のほうに手をのばしていた。そして、ハユキの手を、つよくにぎりしめたとき、自分の手につたわってくる、彼女のぬくもりと、ドクドクとうちつづける脈拍をたしかに感じて、 彼はこおどりしてよろこんだ。
 目が覚めた時、夢の中のよろこびは、低反発枕のように彼のなかでたあいもなくしぼんでいった。夢のなかで感じた彼女のぬくもり、そして手首に規則正しくうちつづける脈拍が、本当だったら………しかしそれは、ありえない。そう、ぜったいに。
 
 つぎにハユキがあらわれたのは、二日後の、美術の時間だった。
 後藤という女子生徒をモデルに、生徒たちがスケッチブックに肖像画をかいているとき、その後藤のうえにいきなり、ハユキが出現した。
 ヒロオは、えっと目をみはった。がたしかに、生徒たちで作る輪の中央で椅子に腰かけている生徒は、尾崎ハユキだった。
 ヒロオは左右の生徒の絵をみくらべた。それらの絵はみな、ハユキではない、モデルの生徒がえがかれていた。
 ヒロオはそして、じぶんのスケッチブック上に描かれた鉛筆画が、どうみてもハユキそっくりなのに気がついた。
 ヒロオは、消しゴムをつかむなり、じぶんの鉛筆画を、力いっぱい消しはじめた。
 
 放課後、学校からでてきたヒロオの顔は、憮然としていた。もう自分のまえにあらわれることはないと思っていたハユキなのに、それがこともあろうに教室に、他人の生徒の上にあらわれるなんて………。
「怒っているの?」
 その声がきこえたのは、ちょうど道がわかれて、山裾からつづく木立に挟まれた人気のない細道に彼がさしかかったときのことだった。
 たちならぶ樹木の影から、ハユキが顔をみせた。
「ぼくをだましたりするからさ」
「なにもだましてなんかいないわ」
「だってきみは、後藤さんのうえにあらわれただろ。ぼくはそのことに気がつかずに、せっせときみを描いていたんだ」
「あなたのまえにあらわれるのは、いけないことなのかしら」
「いけないことはないけど、きょうみたいなことは、二度としないでもらいたいな」
 彼女はなにかをいいかけたまま、黙り込んでしまった。
ヒロオは、ちょっといいすぎたかなとおもった。つぎの言葉がみつからずに、あらぬところに目をやっているとき、道の向う側から、だれかがちかづいてくるのがみえた。
 その男は、タバコをくゆらしながら、ゆっくりとした足取りで歩いていた。こちらをみてないようで、みているようなその目が、ときおりするどい光を放つのをヒロオはみた。
 ヒロオは、しらんふりをしながら、男がとおりすぎるのをまった。そしてその男が、彼の背後を通過したとき、ハユキがその彼のあとを追うように歩きだすのをみた。
「どこへ―――」
 ヒロオは、おもわずじぶんの口に手をあてた。そして、いちどもこちらをふりかえることなく、男のあとに従っている彼女に、こんどは大きな声でいった。
「どこへいくんだ、ハユキ?」
 すると、彼女のまえをゆく男のほうが、ヒロオに顔をむけた。ヒロオは一瞬、その顔がじぶんにむかってとんでくるような恐怖におそわれた。
 足が、地面にはりついたかのように、一歩も動くことができなかった。そんな彼をその場に残して、男とハユキは木立のなかの暗がりに消えていった。
 あの男はいったいだれなんだろう。どうしてハユキは、黙って男の後をついていったのだろう。あの男と、彼女がやりとげようとしていることのあいだに、なにか関係はあるのだろうか。
 家にかえる道々、ヒロオはそんな疑問をなんどもむしかえしては、しきりに首をかしげた。
 ハユキのことが、気になってならなかった。あんなこといわなければよかったと、いまになって悔やんだ。ほんとのことをいえば、美術の時間に、モデルの後藤のうえにハユキがあらわれたのも、じつはヒロオにとってはうれしかったのだ。ただ素直にそのことが伝えられずに、わざと怒ったようなそぶりをみせたにすぎない。中学生半ばの男子の胸のうちは、女の子同様複雑なのだ。
 ヒロオは、家にかえりつくと、しばらく悶々とした時間をすごした。ハユキにあいたいという気持ちがとめどもなくこみあげてきて、彼の胸はふくれあがる一方だった。
 いてもたってもいられなくなって、ふたたびヒロオが家をとびだしたのは、それからわずか数分後のことだった。
 あてがないわけではなかった。図書館裏の古墳公園にいけば、ハユキにあえるような気がした。
 古墳公園までは、家から二十分ほどでいけた。高台にあって、わりと坂道がつづいたが、ハユキにあいたい一心のヒロオにとって、そんなものは問題にならなかった。
 このあいだ同様、古墳公園には人影はまったくなかった。空が曇っていることもあってきょうはいちだんと薄気味わるさがましていた。
 結局、一時間ばかりまちつづけたが、ハユキはあらわれなかった。重い足取りで家にかえってきたヒロオにまっていたのは、母親のさぐるようまなざしだった。
「また、あってきたのでしょう」
「あってないよ」
「じゃ、どうしてこんなにおそくなったの」
「それは………」
「ごまかしたって、お母さんにはわかるのよ。ハユキちゃん、またあらわれたのでしょう」
「ぼくが頼んだわけじゃない」
「やっぱり。………あんたは、幽霊にみこまれたんだわ」
「それ、どういう意味?」
「目をつけられたってわけよ」
「だから、どうなんだい?」
「なによその、反抗的な目は。あたしはあんたを心配してるのよ。あんたがあの世にひきずりこまれるようなことにでもなったら………」
 ふだんめったにみせることのない涙が、和江の目にうかぶのをヒロオはみた。和江はそして、首をめぐらして、隣の部屋の仏壇をながめた。ヒロオがもしいなくなるようなことになったら、彼女はたったひとりになってしまうのだった。
「母さん、だいじょうぶだよ。たしかにきょうの昼、学校にハユキはあらわれたけど、学校の帰り道で、だれかしらない男につれられて、どこかに去って行ったから」
「しらない男………?」
「うん。こわそうな顔してたな」
「ヒロオ」
 きゅうにあらたまった調子で和江は息子をみつめた。
「なに、母さん?」
「ハユキちゃんがあんたのまえにあらわれるのは、どうしてだとおもう?」
「そんなの、彼女にきいてみないと、わかんないよ」
「それはね、あんたが、ハユキちゃんを呼んでるからなのよ」
「え?」
「胸に手を当てて、考えてごらん。あんたは心のなかで、いつも、ハユキちゃんにあいたいとおもってるでしょう」
「そんなこと―――」
「ごまかさないで。正直にじぶんをみつめるのよ。あんたが、あの子のことをおもっているかぎり、ハユキちゃんはいつまでもあんたのまえに、あらわれるわ」
「もう、でないとおもうよ。ハユキは、あの男といっしょに、去っていったんだ」
 和江は、彼の肩に両手をあて、彼の目をのぞきこむようにしながら、
「いい、約束して。ぜったいにもう、ハユキちゃんのことをおもったりしないでちょうだい。それが彼女のためでもあるのよ。でないとあの子、あんたのために、いつまでもこの世を迷い続けなければならないのだから」
「わかった」
 ことばみじかく、ヒロオはこたえた。正直、自信はなかったが、いまの母親の言葉は彼の腹にずしんと響いた。じぶんがハユキのことをおもいつづけているかぎり、彼女は成仏することができない。いつまでもこの世を幽霊となってさまよいつづけなければならない。
 その夜の夕食は、あまりたのしいものではなかった。ヒロオも和江も、黙然として食べつづけ、ほとんど言葉らしい言葉を交わすことはなかった。ハユキのことはどちらからも、いっさい口にでなかったが、それだけによけい、二人がそのことを気にかけているのが浮き彫りになった。
 ヒロオは、食事がすむと、さっさと二階の自室にあがっていった。
 ドアをあけ、部屋にはいった彼の目の前に、ぬっとハユキがたちはだかった。
ヒロオは、壁に貼り付けた銀行のカレンダーを背にしてたつ彼女を、無言でみつめた。こちらが思いつづけるかぎり、ハユキは成仏できない。和江の言葉がおもいだされたにもかかわらず、ヒロオはこうして、ふたたびハユキとむかいあえたことをよろこんだ。
「もうあえないとおもっていたよ」
 いってはならない言葉とわかっていながらも、それをいわないではいられなかった。
 ハユキは、彼の目をみかえした。そのまなざしは、これまでの彼女のものとはちがっていた。なんというか、みているとしらずしらず、ひきよせられていくような感じがした。  ヒロオが目をそらそうとすればするほど、彼女の視線は強くからみついてきた。
「はなしてくれ」
 かすれた声でヒロオはいった。
 ヒロオはこのとき、事態は自分がおもっているよりはるかに深刻な状態にまできていることをさとった。母が、涙までうかべて嘆願した意味がいまやっと、わかったような気がした。
 そのとき、はげしい音をたててドアがひらいた。
 足音もあらく室内にとびこんできた和江が、はっきりハユキのほうをみながら、
「わたしの息子をおはなし!」
 と、大声で一喝した。
 そのとき、おもってもいないことがおこった。 いままでハユキだったものが突然、和江の夫、すなわちヒロオの父親の、博之に姿を変えたのだった。
 これには和江も、その場に硬直したようにたちつくした。
「あなた………」
 それ以上、なにもいえなくなってしまい、ただ茫然と夫の顔をみつめるばかりだった。
 和江が、はなはだしく動揺しているのが、ヒロオには手にとるようにわかった。博之が半年前肺がんでなくなった事実を忘れたわけではないのに、いま、自分の眼前にたっている彼の姿をまのあたりにした彼女は、それから目がはなせなくなっているのだ。ちょうど自分がハユキにたいしてそうだったのとおなじように。ヒロオにしても、突然出現した父親をみるなり、父親とすごした幸福な日々がにわかにありありとうかびあがってくるのを、どうすることもできなかった。博之につよくすがりつきたい衝動が、さっきから彼のなかでつよくうずいていた。
 だがヒロオは、いまもしそんなことをしたら、もう二度と父親からはなれることができなくなることがわかっていた。ハユキの場合とちがい、いまのヒロオには自制心があった。
 ハユキにのめりこむじぶんを、きびしくしかりつけてくれた和江の気持ちがいま、彼に理解できた。こんどはじぶんが、夫の幽霊にとりつかれそうになっている和江を、たすける番だった。
 彼は、となりの部屋の、父親の仏壇のところまでいって、遺影を手にしてもどってきた。
「母さん、これが父さんだよ」
 額縁の中で明るく笑っている博之の写真に和江は目をおとした。その表情が一瞬、ちからづよくなったような印象をヒロオはうけた。
 和江は、ヒロオの手をにぎりしめた。痛いまでにつよく。それはじぶんの弱さにたいする戒めのようにもうけとれた。ヒロオもまたその手を力をこめてにぎりかえした。いまここで手をはなしたら、荒れ狂う波にさらわれる人間のように、もはや母は二度ともどってこないところにいってしまうように思えた。
 ふたりにとって、ながい時間がすぎていった。それは永遠に明けない夜のようなものだった。だが、気がついたとき二人は、カーペットのうえに重なるようにして倒れていた。
 ヒロオは、和江の手がじぶんをかばうようにまきついているのをしった。そして自分の腕もまた、母親のからだをしっかりだきしめているのに気づいた。室内にはふたりのほかには、だれもいなかった。おちたままになっている博之の遺影が、彼の目にとまった。こちらに明るく笑いをなげかけている父親………。父さんが自分たちをまもってくれた。ヒロオにはそうおもえてならなかった。いや、そうおもいたかった。
「母さん」
ヒロオは和江の体をゆさぶった。すぐに和江は意識をとりもどしたようすだった。
「ヒロオ………」
「だいじょうぶだよ。もう、あれは消えた。ぼくたちが、勝ったんだ」
 勝つという言葉が、自然と彼の口から出た。
 玄関のドアの鍵が、ガチャガチャと音を立てて響いた。チャイムも押さずに、だれだろう。
 まもなく、ドアは外から開いた。だれかがはいってくる足音が、ヒロオの耳につたわってきた。彼は、母親をみた。その胸にみるみる、赤い染みがひろがりはじめた。
 ヒロオは、自分の胸にもまた、おなじような赤い染みが滲み出しているのをしった。
「これは………」
 そのとき彼は、母親の胸に深々と突き刺さった包丁をみた。和江の手はその包丁の柄を、しっかりとにぎりしめていた。
 どかどかと乱れた足音とともに、警官とともに女をまじえた数人ががはいってきた。
「半月まえに、うめき声みたいなのが、きこえたような気がしたんですけど、猫の声かなと思って………」
いろめきたって話しているのは、となりの家にすむ主婦だった。
「ご主人をなくされてからは、ずいぶん落ち込まれているご様子でした」
 この家の持主の大家の声がした。
「かわいそうに、息子さんをのこしていくことができなかったんですね。ご主人の遺影をまえに、心中とは痛ましい」
 二人の体はすでに腐乱し、無数の蛆がたかっていた。いまになって隣の主婦は、口をおさえてもどしそうになった。
 みんなの様子を、うしろからヒロオと和江は、じっとみまもっていた。
「母さん、ぼくたち………」
「どうやら、気がつかなかったのは、あたしたちみたいね」
 二人の横に、ハユキがあらわれた。
「ああ、よかった。やっと、わかっていもらえたのですね」
 安堵していうハユキに、ヒロオはいった。
「じゃ、きみがやらなければならないというのは―――」
「あなたとお母さんを、わたしたちのところにつれていくことなのよ。だけど、お母さんが、あなたを殺したとき、ひどい後悔におそわれて、そのために二人とも、霊となってこの世にとどまったの」
「あたしとヒロオに、ハユキちゃんがみえていたのは、あたしたちも幽霊だからというわけね」
 ハユキはこくりとうなずいた。
「どうぞ、いっしょに、いらして」
 ハユキはふたりをみちびくように、警官たちがいる部屋から、玄関にむかった。
 外にでると、見覚えのある男がそこにたっていた。あのときはずいぶんおそろしい顔にみえたものだが、いまふたりをみるその目は、おだやかなやさしさがやどっていた。
 ヒロオと和江、そしてハユキをまじえた三人は、男についてあるきはじめた。
 あたりはすでにどっぷりと暗く、家々に明かりがともっていた。
 すすむにつれてその明かりが、しだいに下のほうに遠ざかっていくのをしったヒロオは、自分たちがどこにむかっているかはわからないけれど、すくなくとも上をめざしていることだけはたしかなのをしって、ほっとしながら母親とハユキの手をにぎりしめた。













 



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