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堀田実さん

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隣室の音

15/01/12 コンテスト(テーマ):第七十三回 時空モノガタリ文学賞【 隣室 】 コメント:0件 堀田実 閲覧数:1341

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 壁にしっかりと耳をあて、隣室の声を聞こうとしたのは何も私がそのような趣味を持っているからではない。身前としては清廉潔白であり、新卒で現在の商社に勤めてからは今に至る20年間一切欠勤することもなく、真面目に仕事をこなし、そして来年には常務になることさえ保障されている地位にいる。部下からの信頼も厚く、敬意を持って「さん」をつけて呼ばれ、相談やあるいは愚痴を聞く役目さえ果たしている。
 そんな私が隣室から響いてくる音をじっくりと聞き入っているのはそこからギィギィと甲高い音を立てながら椅子を揺らすような音がするからなのだ。膝を落とし、左腕をしっかりと壁に這わせながら耳をそばだて慎重に音の詳細を探る。音韻の一つ一つが分離してそれぞれの要素に分かれ、引き伸ばされてしまうぐらいまで注意深く聞き入る。するとまるで天上からぶら下げた紐に人の首がかかっていてそれが振り子のように揺れているような、あるいは無邪気な子供が傾けた椅子の上でサーカスの玉乗りになって遊んでいるような、そんな音がするのだ。
 私は何もそのようなことをしたいと思ってはいない。にもかかわらず、意志とは反して隣室の壁に向けて耳を澄ませている。まるで神経質なストーカーのようにホテルの一室で一人膝を落として座り込みながら、物音を立てないように息を潜めている。
 溜飲を飲む音さえ気をつかう。もし仮に40代、中年半ばのこの私がたった一人隣室の物音を注意しながら1時間以上も息を潜めていることが何ものかに知られたらどのような事態になるのだろう。もし仮にこのホテルの一室一室には安全配慮のためにと一台一台監視カメラが設置されているのだとしたら、私の一挙手一投足を観察している監視官は、私に対してどのような心象をもって今の出来事を眺めているのだろうか。
 額から汗が流れてくる。今の時代、どんな可能性も考慮に入れなければならない。起こる可能性がないと思った出来事さえ起こり得るのだ。もし仮に隣室という存在が他殺やあるいは自殺という現場だったとして、私には何が出来るのだろうか。フロントにでも通報するのか。
「もしもし、○○○号室の者ですが、隣室から怪しい物音が聞こえます。いや、もっとはっきり言うべきだ。隣室の者が死んでいます。いや、死んでいる可能性があります」

 私は未だに聞き入っている。気が付けば部屋に備え付けられた振り子時計は午前0時を過ぎて指している。ホテルの外はすでにひっそりと静まり返っていてしんとした空気だけが漂っている。やもすれば私は生まれてからこの方40年間ずっとこの奇異な音を聞き続けてきたのではないかとさえ錯覚する。あるいは、私が商社マンであること、あるいはそれまで起こってきた人生においての起伏、恋愛、受験、部活動、学校での勉強、悔し涙、喜びに震えた幾多の出来事でさえこの壁の前を通しての夢だったのではないかと思えてくる。
 自然と祖母の顔が浮かんできた。仏壇の写真以外見たことがなかったのにも関わらず、幼少の頃にたった一度だけ対面したことを思い出される。もしかして夢を見ているのではないかと思い耳を傾けると未だに奇妙な音は鳴り響いている。視界には祖母の優しい顔と無機質な壁紙が重なり続けていた。

 微生物が何度も細胞分裂を繰り返し、生まれては死ぬことを繰り返している。卵が生まれ、壊れ、やがて死んで地の中に溶けていく。いつのまにかこの地上には恐竜が闊歩している。どうやら夢の世界へ入ってしまったらしい。意識は鮮明だが、視界があまりにも支離滅裂としていて、2015年の東京のホテルの一室ではないようだった。しかし耳を済ませれば隣室の音は鳴り響いている……。
 いや、それにしては周囲はあまりにも明るく、聞こえてくる音も、恐竜のイメージもあまりにも鮮明だった。気が付けば私は大草原に佇む一本の大木の前にいた。
「オトウサン イツマデ オトヲ キイテルノ」
しっかりと握られた右手には6歳ぐらいの女の子がいて、不思議そうに私に問いかけていた。
『そうだ。私はこの子の父親で、これから狩りに出かけるところだったんだ』
 私はわが娘を見送ると、仲間のもとへと戻っていった。長老の話によると空の彼方から神の怒りが訪れ長き寒さがやってくるのでなるべく毛皮と肉を集めなければならないとのことだった。深いショックを受けた私は気持ちを落ち着けるために娘と共に命の大木の下に来たが、そのあとのことはよく覚えていない。どうやら眠ってしまっていたらしい。
 命の大木からは不思議な音が聞こえる。植物は生きてはいないという輩もいるが、私は生きていることを確信している。大木の内部から響き渡る音を聞いていると、不思議と人間の心臓のような音が聞こえてくるのだ。ギィギィと命を吸い上げるように、大木はこの母なる大地の上に佇んでいる。


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