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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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曲盗人

15/01/12 コンテスト(テーマ):第七十五回 時空モノガタリ文学賞 【クラシック音楽 】 コメント:6件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1572

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 ベートーベンは、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
 いま彼は、作曲中だった。全身全霊を、ピアノの鍵盤上を踊るようにはしる指先に集中している真最中だった。
 窓の外に、だれかの気配がした。はりつめられたベートーベンの神経に、いらぬ不協和音ががなりたてたた。
 ………まただれかが、おれの曲を盗もうとしている。この家に越してきたばかりだというのに、はやくもかぎつけられたのか。
 いったいこれまでなんど、転居したことか。
 行く先々で、おれの作った曲を盗もうとする不埒な輩があらわれた。いくら広めの家を借りたとしても、ピアノの調べは外にもれる
 楽聖と呼ばれるベートーベンの、新曲を盗もうとするものはあとをたたない。じぶんの創作した曲が、発表するよりもまえに、知らないものの手で演奏されるのをきくときのあの、悔しく忌々しい気持ちはなかった。
「くそっ」
 口汚く罵るとベートーベンは、両手でおもいきり鍵盤をたたきつけた。
 これには窓の下にひそむ相手も、驚いたにちがいない。逃げ出すかとおもいのほか、まだそいつは壁に蛾のようにはりついている様子だった。
 頭の上から、水を浴びせかけてやろうか………。
 本気でそう思った彼だが、そのときふとひらめくものがあった。
 せっかくおれの曲を盗むために、冬だというのに冷たい壁にへばりついているのだ。そいつのためにひとつ、こちらから一曲進呈してやろう。
 ただしその曲は、音符など何も知らない子供がむちゃくちゃに鍵盤をたたくような、リズムもなにもあったものではない、とうてい曲とはいえないしろものなのだ。
 彼の口に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
 一音符といえどもむだのない、完全無欠の音感によって作り出された楽曲は、緻密な構成と天才的なひらめきによって比類なき美しい音域にまで高められた。
 いま彼は、それを根底からくつがえして、これ以上ないというぐらいでたらめに、好き放題に、鍵盤をたたきはじめた。
 しかも、できるだけながく。
 壁の外で耳をすましている吾人といえども、とてもこれだけおぼえるのは無理というものだ。
 それをおもうと、ベートーベンの顔がまた、にやりとほくそえんだ。
 文房具屋のKが、五線譜の用紙を届けにベートーベン宅にやってきたのは、それから一月後のことだった。
 Kはいつも、ベートーベンが一息いれている頃合いをみはからって訪問するのがつねだった。というより、作曲中の彼をたずねるぐらいなら、獰猛なオオカミにちかづくほうがまだましというものだ。
「さいきん町で、おもしろい音楽がはやっていますよ。無名の音楽家の手になるものらしく、演奏会がなんどもひらかれています。私もきいたのですが、なんとも変わった調べでしてね、はたしてあれが音楽といえるのかどうか、それさえわたしなどににはわからないのですが、妙に耳について離れないのです」
 ベートーベンは、たいして気乗りのしない様子でKの話をきいていた。いたずらに奇をてらった音楽を好んで作る手合いは、ちまたに氾濫している。
「コンサートのチケットが余分にあるのですが、よかったらどうぞ」
 Kから手渡されたチケットに、聖楽はなにげなく目をおとした。
 そのチケットには、いまの流行で、演奏される楽曲のワンカットが、五線譜と音符によって描がかれていた。
 ベートーベンはおやと目をみはった。
 その調べはまぎれもなく、あのとき自分が支離滅裂に乱打して作ったメロディーの一部にほかならなかった。
 一週間後ベートーベンは、Kからもらったチケットを手に、音楽会場をおとずれた。
 会場は、聴衆たちで埋め尽くされていた。
 本当に、あのときの曲が、奏でられるのだろうか。すくなくとも十分以上、乱れうちしたピアノの音を、あのとき壁にはりついていた者は、記憶にとどめたのだろうか。まともな曲なら、それも可能だろうが、あれはどうころんでも、音とさえいえないほどの、ひどいしろものだった。
 そのことがひっかかって彼はきょう、ここにやってきた。
 まもなく、舞台上に演奏者があらわれ、観客にむかって一礼すると、やおらピアノのまえに腰をおろした。そして彼は、いまちまたで大評判の曲を、演奏しはじめた。
 ベートーベンは驚嘆した。
 あのとき自分がでたらめに弾いた曲を、そっくりそのまま完璧にその音楽家がピアノでよみがえらせるのを、彼は聴いた。
 いまあらためてきくとそれは、どんな伝統音楽にもない、まったく新しい音域がそこには醸成されていた。もういちど、あのときのようにむちゃくちゃ弾けるかというと、彼には自信がなかった。
 演奏がおわったときベートーベンは、他の観客たちといっしょになって、我知らず拍手を送っている自分を知った。
 それがなににむかっての拍手なのかは、彼自身、はっきりしなかった。


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このストーリーに関するコメント

15/01/24 石蕗亮

拝読致しました。
実際にあったかのような物語に感じました。
特に最後のベクトルの分からない終わり方がよりリアル感を出していました。

15/01/25 W・アーム・スープレックス

石蕗亮さん、コメントありがとうございました。

見たわけではありませんが、当時、ベートーベンの作曲を盗む輩は本当にいたそうで、本人は困り果てて引っ越しを繰り返したという逸話が残っています。冒頭の苦虫………は、絵など見る彼の顔から、自然とそんな描写になりました。

15/02/08 W・アーム・スープレックス

志水孝敏さん、コメントありがとうございます。

あまり音楽のことはくわしくないのですが、志水さんのお言葉に、ああ、そうだったのか気づかされたりしています。盗まれた曲を、だれかの演奏できいたときのベートーベンの顔を、これを書きながら思い浮かべたりしました。

15/02/09 光石七

拝読しました。
ベートーベン、曲を盗まれるという悩みもあったんですね。
コメントを見るまで実際のエピソードだと思ってました。
ラストの拍手の描写がいいですね。
素敵なお話をありがとうございます。

15/02/09 W・アーム・スープレックス

ベートーベンの曲を、聴いただけで覚える輩も、考えてみればすごい奴とおもいます。偉大な音楽家にも、いろんな悩みがあったのですね。
光石七さんも、いろんなところでご活躍しておられるようで、こちらも大いに励みになっています。
コメントありがとうございました。

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