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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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真っ白な吐息

14/12/16 コンテスト(テーマ):第七十三回 時空モノガタリ文学賞【 隣室 】 コメント:4件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1913

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 妻が小さな娘をつれて、家を出ていったときも、和人は酔っぱらっていた。
 あなたには、つくづく愛想がつきました。
 妻のその言葉よりも、娘のこちらをみつめるまるで他人にむけるようなよそよそしいまなざしに、和人は胸をえぐられた。呼びとめる言葉の、ひとつも、口にできなかった。
 仕事をリストラされて以来、まともな仕事につくこともせず、毎日アルコールに溺れ、そのうさを晴らすかのように妻に暴力をふるい続けてきた父親に、どうして子供がなつくだろう。
 むしょうに、のみたくなった。
 いまの自分にできることといえば、それだけだった。だが冷蔵庫にも、キッチンのどこにも、酒はみあたらなかった。
 二階にもあがり、もしかして妻が隠していないものかと、押入れの全部のふとんをひっぱりだしもしたが、最後にはやけをおこして拳で柱を殴りつけておわった。
 買いにいくにも、金はなかった。子供部屋にあがり、貯金箱を探したが、それはごみ箱のなかに、細かく砕かれて捨てられていた。
 酔いが冷めるにつれて、これまでアルコールでごまかしてきた現実が、どすぐろい色をおびて彼の眼前に迫ってきた。
 これからどうしたらいいんだろう。もはやすがるべき友人も知人も、いなかった。
 無力感にうちひしがれて、彼はごろりと横になった。
 すぐにも酒を断つことが最優先事項だということはわかっている。すべては、そこからはじまるのだ。妻子に去られたことも、おれに立ち直る機会があたえられたと思えということかもしれない。
 これまで後ろばかりふり返ってきた彼が、はじめて前向きの姿勢になった瞬間だった。
 どんな仕事でもいいから、とにかく働き口を探して、生活を安定させるのだ。いつでも妻と子供がかえってこれるように、おれじしんが生まれ変わらなければならない。彼の決意は固かった。
 窓の外は、すでに夕暮れがせまっていた。カーテンの隙間から、凍てつくような空がのぞいている。
 妻たちは、こんな寒いなかを、いまごろどこにむかっているのだろう。
 それを思うと、彼はこみあげてくる悲しみに、おもわず涙がこぼれるのをどうすることもできなかった。
 なにかの音に、彼は目をさました。………いつのまにか、眠っていたらしい。
 猛烈な寒気に、ふるえあがった彼は、あわててコタツにもぐりこんだ。
 音はそれからもまだ、きこえつづけた。妙に、気持ちをひきつける音だった。
 彼は、首をもたげて、しばらく耳をすましたあと、それが隣室のものだとわかると、壁に耳をおしあてた。
 グラスに、氷があたってたてる響きだということが、彼にはぴんときた。
 隣の部屋の住人が、グラスをかたむけている。それがまちがいなく酒だということが、アル中寸前の彼には、直観的に理解することができた。
 酒の中でいくつもの氷が、ぶつかりあっては、壁をとおしてきいている彼に、かろやかな響きを伝えていた。
 彼は壁から耳をはなした。さっきつよく、酒は断つと、誓ったばかりじゃないか。それが、隣室からきこえるグラスの音につい、よだれをたらしそうになるとは、あまりに不甲斐なかった。
 彼は、湯呑にのこっていたお茶を、ぐいとのみほした。
 これが酒だったら、とまたしてもそんなことを考えている自分が、彼は正直怖くなった。
 隣にだれがすんでいるかはしらない。そのだれかも、相当な酒好きのようだった。
 グラスと氷の音は、なかなかやむことはなかった。
 酒を飲みほす様子が、氷の響きによって、彼にはききわけられた。喉をきゅっと刺激する心地よい感触を、いまそのグラスを傾ける者は味わっている。それを思うと彼は、矢も楯もたまらずたちあがった。
 いけない。まだわずかに残っていた理性が彼をおしとどめたが、それも30分が限界で、気がついたときには彼は、隣室のまえまでいき、とにかく酒が欲しい一心で、ドアノブに手をかけた。―――それは、開いた。
「すみません。いっぱい、いただけませんか」
 悲痛な声で懇願しながら彼は、部屋にあがりこんだ。
 足元で、なにかがあたり、ゴロンとそれが倒れた。空の酒瓶で、みると部屋じゅうにおなじものが何本もころがっている。
「あのう」
 開いた窓から吹き込む風に、はげしくカーテンがはためいた。
 その窓際に、中年をすぎた女性がひとり、仰向けに倒れているのがみえた。
 テーブルには、わずかに酒が残った瓶があるだけで、グラスは女性の手に握られたままだった。
 女性の口には、吐しゃ物があふれている。その吐しゃ物で窒息したのか、冷気にさらされつづけた結果か、彼女はすでに息をしていなかった。
 自分なんかより、まだはるかに悲しい人間が、壁ひとつへだてた部屋にすんでいた。
 底冷えする室内で彼は、瓶に残った酒をみるともなくながめながら、真っ白な吐息をついた。
 


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このストーリーに関するコメント

15/01/04 W・アーム・スープレックス

現代は、隣にだれがすんでいるかさえ、わからない時代ですが、つい隣室で、このような出来事がおこっても不思議ではないような時代ともいえるのではないでしょうか。そして、壁のこちら側でおこっている出来事もまた。

志水孝敏さん、コメントありがとうございました。

15/01/13 光石七

拝読しました。
実際にありそうなお話ですね。
アル中の描写もそうですが、隣室の音に想像を膨らませるところとか、自分よりも悲しい現実が隣室にあったところとか。
現代社会の影のように思いました。

15/01/14 W・アーム・スープレックス

光石七さん、コメントありがとうございました。


この作品を書いている時は、情景がじつにリアルに思い浮かびました。こういう出来事が、じっさいにどこかで起こっているかもしれない。という思いはつねに、つきまといました。

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