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三条杏樹さん

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書店員希望が証券会社に就職した

14/07/10 コンテスト(テーマ):第三十五回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 三条杏樹 閲覧数:1046

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死んでしまう。
私ははち切れんばかりの心臓を抑えてバスに乗り込んだ。
まさかこの自分が証券会社で働くことになるとは、思ってもみなかった。


緊張で胃は痛いわ頭痛がするわで、あがり症の私にとっては吐き気を催すほどだ。私は書店員になりたかったのに。
畑違いもいいところだ。学生時代からめっぽう数字に弱い私が、一体なんの役に立つというのか。
「はあ・・・」
ため息ばかりがこぼれる。就職が決まってからというものの緊張と焦燥感でろくに眠れていない。
コンディションは最悪だ。いや、そもそも、今までの人生の中で絶好調な日などなかった。




「あんたって劣等感の塊ね」

母親に言われてから、私はその言葉に縛られ続けた。

要領が悪い。
器量も悪い。
行動が遅い。
思考能力が低い。
集中力がない。

何をしても他人と比べて、他人が完璧に見えて、自分はだめ人間。
そんな思いで生きてきた。当然、そんな性格では友達もおらず。
学生時代のことは思い出したくもない。

「うううう・・・・」

バスに揺られ、一人で呻いた。
吐きそうだ。
出社初日にして嘔吐でスーツを汚してしまうのか。

要領の悪さに煮え切らない性格に優柔不断さに決断力の欠如。それらが私を構成していて、それらが私を人間恐怖症にしていた。


生きてきて褒められた回数はほぼ皆無。年をとるほど人から褒められることがなくなるというが、私はそもそも生まれたことも祝福されていなかった。
このどんくささが他人を苛立たせ、賞賛されることなんてあるはずがない。

証券業界で働く人間の朝は猛烈に早い。
まだ道行く人も少ない。爽やかな朝だった。空だけは。

私の気分はというと何か得体の知れない不安に襲われ、腰に子どもがぶら下がっているのかと思うほど体が重い。つまり、最悪だ。

同僚たちはエリートの猛者ばかり。自信にあふれた人間。とてもその中でうまく立ち回る自分など想像できない。



なぜ人生はこうも上手くいかないのだ。不公平だ。
そう叫んだこともあった。若かったのだ。
今はもはや抗う気力もなく、ただ与えられた試練に右往左往しながら取り組むことで精一杯だ。他人に優しくする余裕もない。

失敗したら怒られる。

異常なまでにその点を気にしていた。怒られる、という言葉の中には私の不安要素がすべて含まれているのだ。

評価が下がる。
嫌われる。
見下げられる。
その他すべての私が怖いこと全部が起こる。



失敗してはいけないと思えば思うほど失敗する。
恐ろしい。
今日まで生きてきて心が休まる日などなかった。
趣味もなく好きな食べ物もなく嫌いな食べ物もなく好きなスポーツもなく。よくつまらない人間だと言われたものだ。しかし私はいつも怯えて、他人の視線が気になってしょうがなかった。


唯一楽しかったことと言えば読書だ。趣味欄に「読書」と書くのはずいぶん迷った。何故なら社会に出ると本は読んで当然と言われたからだ。もちろん学校から。
無趣味の人間がよく履歴書に書く無難な趣味。

それでも月に二冊は読んでいたし、そこそこ好きなものの部類に入ると思っていた。面接で食いつかれることは一度もなかったが。

そうだ、本屋さんで働こう。

将来の夢など考えることのなかった私が初めて決心した。


ところが、神様はとことん私の人生を追い詰めたいらしい。一生、不安と緊張に苛まれて生きて、死んでいけと。
予期せぬ人生選択に、ほかならぬ自分が一番驚いていた。




バスを降りて、会社へ向かう。
目線は下。猫背。足が重い。

我ながらなんと損な性格だろうか。
どうやってみんなは自信を持って生きているのだろう。


とぼとぼ歩いてると、前方からスーツの男性が歩いてきた。
私はほとんど下を向いていたので、その男の顔は見えない。すれ違うとき、男性のまっすぐに伸びた背筋が目に入った。



彼も社会人になって何十年かたっているのだろう。私も年数を重ねれば、あんな風に堂々と歩けるようになるのか。


「無理だ」

思わず、声に出た。
本心だったし、確信だった。

新社会人で、こんなに暗い気持ちで会社に向かう人は私ぐらいだろう。







「人身事故があってさ、電車遅れたんだよ。ほんと参るよ。初日だっていうのに遅刻しそうになって・・・」


ああ、人身事故があったのか。バスで来てよかった。


私は相変わらずひきつった笑顔を浮かべて、震える手でペンを持つ。
心臓が痛い。
縮こまって、せめて誰の邪魔にもならないように生きたい。前向きになる余裕はない。目の前のことを順にこなすしかない。
私にはそれしかできない。






だけどもし、私がせめて、少しでも背中を伸ばして歩く勇気があったなら、あのときすれ違ったサラリーマンの死んだ目に気がついただろうか。

いや、気がづいたとして。



それがなんだっていうんだろう。







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