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タックさん

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降り始めた雨の音色は

14/04/18 コンテスト(テーマ):第五十四回 時空モノガタリ文学賞【 激しい雨がふる 】 コメント:0件 タック 閲覧数:1112

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 妻のカナコが出て行った。泣いていたようである。それは初めての現象であったが、私は特に感傷を覚えることもなかった。カナコの濡れた瞳は、私にガラス玉以上の意味を持たせなかった。カナコは小さな、本当に小さなため息をつき、荷物を抱えて姿を消した。帰ってこないつもりであるのだろう。畳の部屋に座しながらそんなことを漠然と考えていた私の頭は空模様と同様、虚ろに冴えというものをまったく失っていた。

 空が破れたような、という表現通りの大雨に外部は見舞われていた。家屋にいる私には、その覆いかぶさる冷たさが音として響いていた。窓に道の向こう側が見える。新婚の奥さんが、濡れそぼった自然体で家へと入っていくようである。カナコも、確かに傘を持っていなかった。室内外に歴然とある温度差を思いながら、私は紫煙を吐き出しモヤモヤと思惟に耽っている。
 
 カナコは天気予報を確認しなかったのだろうか。あれだけテレビを好いているのに、天気予報だけは見逃したのだろうか。それとも、私から逃げ出したいという欲求は、雨に対する不快感さえも損なわせるものなのだろうか。思惟は愉悦へと発展し私の中心に温い震えをもたらした。
 
 仰向けに寝転がる。薄汚れた天井は陰鬱で、意味のない古さに支配されているばかりである。ふう、という自分の呼吸が空気中に抜ける感じは寂しく、何の喜びも痛みを与えることはない。カナコの不在は私に時間というものの重さを味わわせた。私はカナコの肌を待ち遠しく思っていた。畳をなぞる自身の指は多少の埃と無粋な畳目の触感を伝えるのみである。温かさも柔らかな肉の反発も残すことはないのである。カナコは寒さに身を凍らせて帰ってくるだろう。それは予測ではなく確証であった。信頼があった。私は探す気力も辛苦の忍耐も持ち合わせず、空想に、弛緩した肉体を任せるのみでよかった。

 室内は静穏である。私以外の呼吸音もない孤独感である。その排他はただただ私を透明にさせた。カナコの初めての反抗が、ウサギを追う狩猟犬のような征服感を奥底から生じさせていた。私は雨の届かない箱のなかで午睡にも似た気だるい重さを耽溺する。カナコの白いうなじが雨に濡れ、艶のいい黒髪がへばりつく空想に耽り続ける。蛇に似た圧迫に捕らえられるうなじの弱々しさと、その上の、カナコの薄幸そうに微笑む顔容。その美しさは、何物にもかえられぬ象徴であった。カナコに触れたく、私は思った。時計の針の振動は遅々として進まず、雨のみが進行しているような錯覚に苛立ちを感ずる。横たわる泥人形のような体は部屋と一体となり沈殿する。カナコのうなじは香るであろうか。わずかに残ったカナコの匂いが鼻孔をくすぐることは一つの無常であった。私は待つことを命題とした機械のごとき辛抱に、雨の午後を過ごしていた。



「――やあ、おかえり。雨には、濡れていないみたいだね」

 私の体は冷え冷えとした玄関にある。灰色に固められた三和土。見下ろすように俯いているカナコの全身は元の静謐さをたたえたままである。雨露を、何かでどこかで凌いでいたのだろう。水の気配を感じさせない体の前で私は、私の信頼とカナコの判断の正しさにただ身を震わせるばかりだった。私の接近にカナコは臆病な小動物のように体を竦ませ、俯きを強固にする。その愛おしい仕草に破壊衝動にも似た愛情があふれるのを私は止めることができない。私は両腕を広げ、正面からカナコの華奢な体を包んだ。その両肩は冷たく微弱な振動を見せていた。

「嬉しいよ。また戻ってきてくれたんだね。君は他に行く所がない。君の居場所はここしかない。それに気づいてくれたことに、僕はひとまず満足しているよ。ありがとう。……でもね、僕は寂しかった。そして君は、僕の元を確かに一度離れてしまった。それはいけないよ。僕を置いていくことはいけないことなんだ、カナコ。だから僕は、初めて君にお仕置きをしなければならなくなったよ」
 
 耳に唇がつくほど近く囁くとカナコの背が跳ねた。長く伸ばされた黒髪。私は顔を埋め、香りを強く吸いこむ。その匂いがシャンプーのものであることを惜しく思った。数呼吸で髪を除ける。白い首が現れ、そのうなじを私は舌でなぞった。異物が生々しい感触をもって舌に当たる。タバコの痕、私の殴打による傷が、細くはかない首には浮かんでいる。愛の証明だった。カナコと私の、時を経た結晶だった。

「さあ、はじめようか。お仕置きはおなかにしてあげよう。カナコのおなかは敏感だから、僕の想いがきっとよく伝わるだろう。そのあとお風呂に入ろうか。冷えた体を、僕は好まないからね」
 
 カナコには頷きも了承もない。それがカナコの主張に他ならぬと私は感ずる。受け入れのある自身の多幸を思いながらカナコの体を遠ざけた。カナコの瞳は黒、何も見通すことのない虚無の眼孔であった。


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