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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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笑い声

14/04/01 コンテスト(テーマ):第二十八回 【 自由投稿スペース 】 コメント:2件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1193

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 笑い声がきこえた。
 木造モルタル塗りアパート一階の、窓にはりめぐらしたロープに、びっしり洗濯物を干した部屋から、その笑い声はきこえた。
 明るい、本当に幸せそうな笑い声だった。
 美千代は、うなだれていた顔をあげた。
 アパートの窓ごしにきこえた、住人のものらしい笑い声に、嫉妬にちかいものさえおぼえた。
 この何年もの間、自分と主人の間に一度でも、いま耳にしたような笑い声が起ったことがあるだろうか。
 まがりなりにも夫婦関係は続けているが、それはただマンションの同じ部屋に、一緒にすんでいるというだけのことだった。ほかにはなにもない。言葉もめったにかわさないし、まともに目を見交わしたことも久しくない。
 自分でも、どうして別れないのかわからなかった。たとえ離婚といえども、彼と協力しあわなければならないことが、我慢ならなかったのだ。
 けれども、二人の間に致命的な分裂が生じるのは、ほんのちょっとのきっかけで十分におもえた。
 あるいは自分も主人も、それが起るのを、まっているのかもしれない。ただそれを相手から起こしてくれるのを、どちらもが期待しているといった、まったくどうしようもないぐらい二人の関係は冷えきっていた。
 美千代はきょう会社で、解雇を言いわたされた。
 部屋にいるのが嫌ではじめた工場パートで、自給も低く、作業は過酷で、傲慢な主任にはよく嫌味をいわれた。その主任が朝、仕事につくまえの彼女を事務所によんで、一言、「今日かぎりきみを解雇する」
 スタッフの若い男性といちゃいちゃするというのが解雇理由だった。最初に声をかけてきたのは彼のほうで、休憩時間などに世間話をするようになり、仕事中にもときどき、冗談などいって笑わしてくれた。
 いちゃついているつもりはなかったが、中高年の女性が多い中で、若い美千代の存在はいやでもめだち、彼とのなんでもないやりとりが、あるいはめざわりだったのかもしれない。
 そんな連中が主任に、あることないことふきこんで、仕事に影響を及ぼすとかなんとか焚きつけたことは十分考えられた。
 あの主任にしたって最初のころは、なにかと美千代に声をかけては、気をひこうとしたものだった。美千代がはなから相手にしないのをみて、ことあるごとに文句ばかりいうようになった。若いスタッフとのことも、あるいはそこらあたりの感情のもつれがはたらいていないとはいえなかった。
 いずれにしろ、工場作業にはいい加減辟易していた彼女なので、はい、わかりましたと、かえって主任のほうがあぜんとするぐらいあっさり、了承して工場を立ち去ってきた。
 部屋には帰りたくなかったが、夫は会社にでているので、夜までは一人で過ごせるとおもいながら、彼女はマンションにもどってきた。その時間を利用して、つぎの働き口をウェブで検索するのもわるくはなかった。パートなら、いくらでもみつかるだろう。

 部屋のドアをあけると、玄関に、夫の靴がおいてあった。その横に、オレンジ色の女物のヒールが………。
 夫が女を自宅に連れ込んでいる。
 そのこと自体にはもはや、美千代はさほど動揺しなかった。
 だが時間がたつうちだんだんと、これまでためにためこんできた不満と憤りが、胸の中で暴れはじめた。
 尻尾こそつかませなかったが、これまでにもなんどか、夫の身辺には疑惑がうごめいた。
 自宅にかかってきた電話を、美千代がとるととたんに切れたりすることはなんどもあったし、深夜遅く帰宅した夫から、ボディシャンプーの香りがふんぷんとたちのぼっていたり、友達からなんどか、彼がしらない女と歩いていたことをきかされたり、そんな話はあげるときりがないほどだった。
 美千代はそれらの事実をいちいち詮索することなくじぶんの胸にしまいこんでいた。怒ったりするのは、彼にまだ未練があることを告げるようなもので、それこそ屈辱以外のなにものでもなかった。
 だからこのときも彼女は、足音をしのばせて部屋を出て行こうとした。
 が、きょうにかぎってなぜか、夫にぎゃふんという思いを味わわせてやりたくなった。 なんだかんだいってやっぱり彼女の中でくすぶっていた解雇通告した主任にたいする腹いせも、手伝っていたようだ。
 浮気の現場をおさえれば、慰謝料だってごっそりふんだくれるだろう。協議離婚するよりよっぽどましだ。決意もあらたに彼女は、寝室にちかづいていった。
 ふつうにしたつもりが、寝室のドアは大きな音をたててあいた。
 髪を額にもつらせて、ふりかえった女は、紫苑だった。
 美千子が唯一、心から気をゆるしている友で、夫婦間の問題にも相談にのってくれ、これまでなにかと彼女を励まし、ささえてくれていた。
「あら、みられちゃった」
 夫の首すじにしがみつき、咎があるのはあなたよといった目で、紫苑は美千代をみつめた。
 夫もまた、ひとつもわるびれた様子もみせずに、しがみついてくる紫苑に腕をまわした。
 美千代は、二人の顔に笑みがうかんでいるのをみると、おもわず寝室から飛び出していた。
 台所からもどってきたとき彼女の手には、包丁がにぎられていた。
 二人をめった刺しにするのは、意外と簡単だった。
 美千代は、廊下の鏡に映しだされた、血まみれの自分の姿を、おどろくほど冷静な気持ちでながめている自分を意識した。
 ―――なんだかたまらなく滑稽なできごとを、たったいま経験したような気がして、しらずしらず唇がゆるんでくるのをどうすることもできなかった。
 いつのまにか彼女は、おかしくて、おかしくてたまらず、腹の皮をよじらせて笑だしていた。
 笑い声は廊下を伝って、あけたままにしていたドアからそとに鳴り響いた。
 たまたま部屋の前を通りかかった、同じマンションにすむ女性が、その笑い声をきいた。

 まあ、なんて明るい笑い声かしら。きいているだけで、こちらまで幸せな気分になってくるわ。

 女性は、ちょっぴりうらやましそうな表情をうかべながら、エレベータに乗り込むまでのあいだその笑い声に聞き入っていた。


 


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このストーリーに関するコメント

14/04/02 朔良

W・アーム・スープレックスさん、こんにちは。
拝読いたしました。

平凡な日常でなにかが爆発する瞬間ってありますよね。美千代にもそれが訪れてしまったんですね、最悪な形で。
外にいる人間には何があったのかわからない…。淡々としたラストにぞっとしました。

14/04/02 W・アーム・スープレックス

朔良さん、こんばんは。

冒頭で美千代が聞いたアパートの笑い声も、もしかしたら………。そしてラストで美千代の笑い声を聞いた女性もまた………そんなことを考えながら書いていたのですが、こんな話は美千代ひとりでじゅうぶんだと思いました。
読んでいただいて、ありがとうございました。

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