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リアルコバさん

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繁太郎繁栄衰記

14/01/25 コンテスト(テーマ):第四十八回 時空モノガタリ文学賞【 昭和 】 コメント:0件 リアルコバ 閲覧数:1236

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 私の母は大正15年の生まれ「あと一月遅く生まれれば昭和の・・・」が口癖であった。戦前 江戸明治大正が色濃く残るそんな昭和初期、私の祖父の物語である。

「俺は東京で一旗挙げるぞ」
 繁太郎の家は名家であった。水戸様の息の掛かる反物商は江戸大名行列の家臣の泊まる副本陣として家屋敷を提供していたのが唯一の自慢である。 水戸藩とは云えなにぶん在の宿場町、庄屋である本家本陣の栄華には敵うわけもなくそれは一生続くものと思われた。

 繁太郎は取引先の減った反物になど興味が失せている。それは商売云々ではなく東京に行く折に触れた銀座浅草吉原の華やかさがどうしても欲しかった。
「何が何でも行くんだ。おいキヨ着いて来ないならキクもろとも女衒に売ってでも・・・買い手もいねぇかな」
 村は押し述べてみな同じのっぺり顔である。江戸の頃から近郷親戚縁者での政略婚姻が繰り返され、それが治安を維持していたのだから仕方のないことではある。
 しかし家長にそう決められては従うしかすべのない時代、女房子供は渋々身近な荷物をまとめ旅支度をしたのである。

 小作に任せていた広大な田畑を本家に売って資金を作り、地平線の朝焼けまで明かりのない村を後にして出て来た東京は神々しいほど眩しい光の町であった。
「凄い綺麗・・・でもあなた様、お仕事はどうなさるおつもりで」
無口なキヨは娘のキクを抱きながらひとつの不安を投げかけた。
仕事の宛など別になかった。家屋敷は水戸様の伝手で本郷の下屋敷を間借りできた。
「俺にはなんと云っても水戸様がついている」
そう嘯いてもまだ説得力があるくらい世間に情報通信網は発達していない。しかし実のところは既に水戸家も只の人になった時代でもあった。

 女房子供は家に置き暫くは浅草吉原で遊び回る繁太郎であった。全国から女衒に集められこの地で交配を繰り返して出来た女たちはお粉もいらぬほど華やかな顔立ちで、それを眺めるだけでも繁太郎は東京に出てきた価値を覚えたのである。
(さて目の保養は十分だ。後はどうやって女達を囲える仕事に就こうかね)
そんな不純な考えこそが歓楽街で得てして商売の話に繋がる事は、今も昔も変わりはない。
「是非お願いいたします、丁稚だろうと職人だろうとこの身にかけて・・・」
当時副本陣に生まれるくらいだから人生の引きはそこそこ強運な方だったのだろう。遊郭で知己の仲となったのは今を時めく服部家の次男坊、そう今のセイコー社、銀座和光の血筋である。花魁を揚げ紋付袴にカーゼル髭、繁太郎が人生の目標にして仕え始めたのは昭和が5年過ぎていた。
 日本での時計作りの魁として時計職人の道を歩み始めた繁太郎はめきめきと頭角を表した。元が反物商の家系で商売の経験上流行り廃りも少しは読める。そして染物関係のおかげで絵心も少なからず身についていた。当時の主力の置時計のデザイナーとして重宝されたのも強運のお陰であろう。

 昭和15年、服部セイコー堂の並び銀座2丁目に小さいながらも時計店を開いた重太郎である。歳は47歳になっていた。本郷の家も手に入れた。吉原の女も水揚げし柳橋に住まわせている。おまけに競馬馬まで所有して一端の旦那の顔で大手を振った絶頂期はたいして長続きはしなかった。
 欧州で口火を切った戦争はアジアにも政治的な飛び火をし混沌とした世の中になっていた。
「まさか東京は関係ないでしょうね」「無論皇国に恐れるものなしだ」
 柳橋の妾宅で顧客の将校と話をする度に縮み上がる思いであった。繁太郎は色恋博打は大好物だったが、こと争い事となるとからきし意気地のない小心者でもあった。
 昭和19年東京も度々空襲に晒される頃は家族と共に逃げ惑い、後楽園球場で命を拾った翌日、店も妾も馬も投げ出して早々に国へ帰って行くのである。

「この恥さらしめ、おめおめと帰ってきやがって非国民にも程がある」
 田舎町は以前にもまして封建的な社会に変わっていた。それも情報がないから戦況は2年前の大本営発表のままでしかないから、どんなに東京の悲惨さを伝えても誰も解ってくれるものはいなかった。
「戦争さえ終われば必ず東京に戻ってもう一旗・・・」
 結局それも叶わず都落ちのまま田舎町で無口な女房と余生を過ごすことになるのだった。
 いや、終戦直後一度だけ銀座の店だけでもと出向いたことがある。そこには既にロープが張られ瓦礫をどかした猫の額ほどのスペースに見知らぬ強面が芋汁を出していたらしい。
「生き馬の目を抜くのが東京だ」が余生の繁太郎の口癖であった

 平成1年世はまさにバブル景気に湧いていた。とうとう銀座の土地は一坪1億円を超えていた。祖父から昔話しに聴いた地所の登記簿謄本をあげてみた。《詳細不明》繁太郎の名が消され新しい所有者の名が幾重にも連なっていた。







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