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草愛やし美さん

時空文学コンテスト開催100回、おめでとうございます。思えば、初めて私が、こちらに投稿したのは2012年5月のこと、もう4年近く経ったのですね。時空モノガタリさまが、創作の場を与えてくださったお陰で楽しい時間を過ごすことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。 また、拙い私の作品を読んでくださった方々に感謝しております。 やし美というのは本名です、母がつけてくれた名前、生まれた時にラジオから流れていた、島崎藤村作詞の「椰子の実」にちなんで……大好きな名前です。ツイッター:草藍やし美、https://twitter.com/cocosouai 

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将来の夢 いっぱい食べて飲んでも痩せているっての、いいだろうなあ〜〜
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ケネディ大統領そして、私感としてのアメリカ

13/11/22 コンテスト(テーマ):第二十一回 【 自由投稿スペース 】 コメント:15件 草愛やし美 閲覧数:1934

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 ◆ 前置き ◆

 今、アメリカからやって来られた新駐日大使のキャロライン・ケネディ氏が、話題になっています。ご存じのように、彼女は、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディ氏の長女、母親はジャックリーンさんです。ケネディ大統領は、遊説先のテキサス州ダラスの市内をオープンカーでのパレード中に狙撃され、暗殺されました。奇しくも、今年は、その暗殺から50年、アメリカでは追悼式典が催されるようです。
 悲劇の大統領一家のことは、私には忘れられない子供の頃の思い出として残っています。5年前にライフワークとして書いていました「昭和日記、ろばのパンやさん」より、今回はその章を無謀にも、推敲もなしに(大汗)投稿したいと思います。ケネディ大統領一家も含め、私の個人的な視点から見たアメリカに関して書いたものです。かなりの長編ですが、もしよろしければ読んでいただければ嬉しく思います。
 

 ◆ ケネディ一家 ◆


 1963年11月22日(アメリカ時間)、日本では時差で23日勤労感謝の祝日だった。その日私は、中学の同級生たちと近所の水源地へピクニックを予定していた。友の家を訪れた私に向かって、友がすっ飛んできて叫んだ。
「ケネディ大統領が暗殺されたんやてぇ」
「えっ! ケネディが、なんで? なんでやのん」
「歓迎パレードの車に乗ってるとこ撃たれはってん」
 私の脳裏にケネディ一家の顔を浮かんだ。その頃日本でもケネディ人気は素晴らしく、家族の仲睦まじい写真が特集されることが多かった。少女雑誌にも娘さんと息子さんの可愛らしい姿と共にエピソードが連載されていた。私は娘さんのキャロラインちゃんの可愛い姿が遠い国の人なのに凄く身近に感じていた。わくわくして雑誌発売日を待っていた記憶がある。確か息子さんのJrはまだ小さくってかなりいたずらっ子だった。
 それらはとても楽しい記事でそれまで敗戦国の立場から、アメリカを堅苦しく見ていた私は、凄く親しみを持つことができた。記事の中では豪華な調度品のホワイトハウスの部屋なども紹介されていた。まるで少女漫画のお姫様の世界だと思った。今思えば、アメリカではソファーやベッドなど当たり前の家具なのだが、当時の私にとってそれは夢のお部屋に思えたのだ。
 雑誌に載った夫人のジャックリーンは私にとって大統領夫人のイメージとは違いアイドル的な要素をかもし出していた。夫である大統領が殺されたというのに、私には雑誌の中で笑っている彼女の顔しか脳裏に浮かばない。だが、彼女の目の前で惨劇は起こったというではないか。日本中を震撼させる事件だった。
 テレビニュースの映像で引き攣るジャックリーンの顔と崩れるように倒れこむケネディの姿が目に焼きついた。娘さんや息子のジョンはどうなってしまうのだろう。他人事とは思えない私は気になって仕方なかった。

 当時このニュースは衛星放送で流れてきたのだが、日本にとって初めてのものだったとか。こんな悲惨なニュースでなくもっと素敵な話題だと良かったのに……。だけど、リアルタイムのニュースという点ではこの事件報道は衛星放送の利点の素晴らしさを伝えたのだった。

 昭和30年代後半になっても、日本人にとって海外は遠い世界だった。まだ1ドルは360円、沖縄へ行くのにパスポート持参でなければ行けない時代だった。海外に行くことは多くの日本人にとって夢になっていた。
 その頃のテレビ番組で人気があった「アップダウンクイズ」のキャッチフレーズは、『ハワイへのご招待。10問正解して、夢のハワイへ行きましょう!』だった。司会の小池清さんがこのキャッチコピーを言ってから番組が始まる。横並びの小さなBOX状のゴンドラが、クイズ回答者を乗せて上下する。早押しクイズで10問正解を獲得できれば、ファンファーレと共に頭上から色紙の紙ふぶきが降って来て、日航機で行くハワイ旅行をゲットできるというものだった。ハワイに行きたいと漠然と思ったが、どんなところなのかわかってない私。飛行機なんて乗ったことはもちろん、近くで見たこともなかった。
 遠い世界だった海外は今や身近なものになっている。その頃の私たちはFAXもワープロも知らなかった。PCや携帯電話の存在する時代が来るなんて微塵も思っていなかった。
 あのアップダウンクイズで毎週言われ続けていた日航機、その機体に描かれた鶴のマークは憧れの象徴だった。あの鶴マークは今では違うものに変わってしまった。私は残念で仕方ないと思っている。ある意味、日本を代表する企業だった日航が今では更正法で頑張る会社になってしまっている。こんな日が来るなんて……。先のことは本当にわからないものだ。毎日を大切に生きていかなくてはと思う。
 
 アイルランド移民として生まれたケネディが大統領になった時の就任演説は有名である。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」というフレーズを力説するカセットテープは今でも我が家に眠っている。このテープは私の旦那さんの大事な持ち物で、彼はケネディ大統領の大フアンだった。彼は就任演説は今も英語で話せるという。ケネディも含め、彼は子供の頃からずっとアメリカに憧れて来た人だった。

 私の旦那さんはその後、夢が叶い会社の研修生としてアメリカ大陸に渡ることができた。1980年の春、飛行機から見えたその広大な大地に感動して電話してきたことを私は今も鮮明に覚えている。
「どこまでも続いているんや大地が。水平線は知っていたけど、地平線やで、地平線を見たんは初めてやからなぁ、感動して涙出てきたわ」
 アメリカに憧れその地を踏みたいと願った彼はそのために英語を勉強した。その苦労が報いられ本当に幸せな人だと思う。

 ケネディの功績として一番大きく取り上げられることとして、「アポロ計画」がある。ケネディは、アメリカが宇宙開発競争の先頭に立つことを熱望した。宇宙開発についてはソ連が完全にアメリカに先立っており、ケネディは「アメリカが宇宙開発競争で後れをとることはできない」と発言していた。
 当時、ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニクをアメリカに先駆け成功させたのに続き、その後、ボストーク1号にて1961年に初の有人飛行を成し遂げる。「地球は青かった」と述べたガガーリンの言葉はあまりにも有名だ。ガガーリンのこの言葉によって地球は宇宙からは青く見えるということを私は知る。
「青いって何でやろうなぁ?」
「緑ならわかるけどなあ、いやどっちか言うと茶色違うの? 地面って茶色やし」
 知識の乏しい姉妹にとっては、地球儀の地球しか思いつかない。第一地球が球状をしていることも半信半疑だ。アリストテレスにしろピタゴラスにしろ大昔からわかっている人もいたのだろうが、実物を見たこともない私達にとっては、地球儀をそれなのだと思い込むしかなかった。
 
 ソ連のボストーク計画はその後も着々と進められ、6号には、人類初の女性宇宙飛行士テレシコワが搭乗した。テレシコワは軌道上から「私はかもめ」(ヤー チャイカ)と送信し、当時の流行語となった。これらソ連の偉業は人類にとって宇宙への夢が本物のものになるという素晴らしい時代への幕開けとなった。
 
 その後ケネディは、アメリカ人を月に到達させるという計画(アポロ計画)のために220億ドル以上という巨額の予算を承認してくれるように議会に依頼し、この計画の推進によって大きな利益を得ることになる大手軍事産業のロビー活動の後押しもあり、これを無事に通過させることに成功した。ケネディによって推進されたアポロ計画は、ケネディの死後ジョンソン政権とニクソン政権に引き継がれ、ニクソン政権下の1969年にアポロ11号はついに月面に人類を送り届けることに成功した。
 司令船コロンビアから切り離された着陸船イーグルは静かに月面に着陸した。イーグルから降ろされた9段の梯子を慎重に踏みしめながら、アームストロング船長が一歩、また一歩と降りて行く。
 1969年日本時間7月21日 午前11時56分、米東部夏時間7月20日午後10時56分、月面に歴史的な第一歩が記された。そして彼は有名な次の言葉を発したのだ。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である Thats one small step for man, one giant leap for mankind.」
 様々な技術的困難を乗り越え、月面からの史上初の船外活動をとらえた映像は、世界中に配信された。地球上ではこの瞬間、少なくとも6000万人以上の人々がテレビでこの場面を見ていたと言われている。日本でもこの瞬間を見た人は多いと思う。あの時の衛星画像を見つめていた地球人は私も含めて感動も共有していたのだ。
 ケネディの葬儀の日、幼かったジョンF、ジュニアが父親の棺に向かって小さな手で敬礼する姿は日本でも何度も放映され涙を誘った。覚えている人も多いことと思う。私もそれを見て胸を熱くした一人である。父の死がよく理解できていなかったジュニアにとって、その仕草は他の軍人を真似たものに過ぎなかったのだろう。だが、幼い子供を残し、志半ばで死に至らなかったケネディはどんな気持ちだったろう。死者に聞くことは叶わないが、大統領としてこれからという時だったはずである。この暗殺に関しては色々取りざたされている。モンロー説や、人種差別説、マフィア説など……、今でも彼の死は謎に包まれている。
  私は大統領夫人としてジャクリーンさんは、ケネディに尽くしてきたと信じていた。マスコミの情報で思い込んでいただけなのかもしれないが……。彼女はケネディの亡き後も凛として生きていくはずと思っていた。だから彼女がギリシャの海運王であるオナシスって人と再婚するというニュースが伝えられた時、私は非常に驚いた。オナシスは20世紀最大の海運王と言われたミリオネアだ。驚きと共に私は、嫌悪感を抱いた。
「なんで? 大統領夫人やったやんか。旦那さん亡くなっても、娘さんや息子さんのお母さんだけでえぇやんか。お金欲しいんかな? オナシスって凄いお金持ちらしいわ〜」
 本当にショックだった。今思えば人生選ぶのは当人の自由である。誰と再婚しようが他人にとやかく言われることはないはず。その頃はまだ幼かった私だから。あるいは、当時は主人を亡くしてもすぐに再婚しないという時代の風潮もあったのかもしれないが……。そういう考えで支配されていたのだろうか、私はとても嫌でしようがなかった。あれほど、良いと思っていたアメリカのハッピー家族に私は、裏切られた気がしていたのだった。

 ◆ アメリカという国(2005年頃のものです)◆

 後の西暦2000年になって私自身もアメリカへ行けるというチャンスに恵まれた。旦那が三度目のアメリカへの出向が決まったからだ。姑と自分の両親の介護が終わったその年、私はアメリカの本土の地を踏んだ。正確に言えば、この時は渡米3回目だったのだが……。1度目は1981年研修生だった旦那が帰国辞令に合わせて、子供ともどもハワイへ観光に行った時。2度目は1990年、シカゴ出向の旦那に会いに1週間だけ行った時。3度目の今回は今までと違って長期に滞在することができた。3ヶ月の観光ビザを使ってとはいえ、長期だった。住まいするという感覚は初めてのことだった。

 ケネディ暗殺、夢のハワイと騒いでいた時代、私にはとても遠い国だったアメリカ、その地を何度も踏むことになるとは当時は微塵も思っていなかった。そんな大国アメリカについて自分のこの目で見た感想を、常々一度は書いてみたいと思っていたので、昭和からは離れますが少し書かせて貰うことにします。
 ですが、英語も運転もできない私ですので、交流というほどの場を持てたわけではないのです。こんな私が自分の目で見聞きできたものは僅かなもの……、多分に私の主観と偏見が入り混じっていることかと思われます。このことを初めにお断りしておきます。
 
 住んでみて初めてこの国の大きさを改めて知った。どこもかも大きく、広い。どこまで行っても地面だ。初めて住んだ地はインディアナ州、ウエストラファイエット(West Lafayette)という町だった。奇遇なことに、2010年のノーベル化学賞を受賞された根岸英一博士がこの町の大学で教授をされていたのだ。このウエストラファイエットという町は、彼の在籍するパディユー大学 (Purdue University)を中心に栄えている町で、穏やかな良い町だった。また、このパディユー大学はアポロ11号に乗り月面に人類初の記念の第一歩を印したアームストロング船長の出身校でもある。日本ではあまり名前が知られていないが、この事柄によりアメリカではかなりの有名校である。この町のケーブルTVでは、パディユー大学のチャンネルがあり、宇宙ロケットが打ち上げられる時はリアルタイムでナサやヒューストンの映像が流されるほどだ。
 この町はラファイエットという町とワーバッシュ川(Wabash River)をはさんで双子都市を形成しているのだが、この川が凄かった。護岸はそのままで、堤防などは全く見られない。だがアメリカという国はほとんどの川の護岸がそうなのだとか、ワーバッシュだけが特別ではなかった。天然のままで嵐が来ればすぐに水は溢れる。溢れても大地が広いのですぐ傍の川べりまで家が建っていないので、すぐには水没しない。だが大水害になると、ダウンタウンだって危ない。あの数年前のニューオリンズの町のような惨事になりかねない。万事がこんな感じの国なのだ。文明国というイメージを抱いていたが、かなり違っていた。中心街だけが非常に発展しているのだ。摩天楼がどこまでもではない。それはほんの一部だった。

 アメリカでの生活を通して思ったことは単に広いだけだった。そしてその広さが国の強さにあったのだ。技術を駆使しなくても広い農地がある国。どこまでもコーン畑が延々と続く。機械化されているのだろう、畑に人がいるところにはそうそうお目にかかれない。農作物を大量に収穫することが可能な国なのだ。スーパーマーケットには平台に山盛りの野菜たちが……、だがよく見ないとカビが生えたものや腐ったものもある。管理されているとは思うのだが、どうなっているの? と、何度か疑問に思った。それも初めの頃だけで、慣れてくると必死で目を凝らして品選びをする自分がいた。卵やミルクの消費期間、賞味期限が日本の感覚よりかなり長い。卵の黄身は白っぽいものがほとんどで、在住している日本人の間では日系のスーパーで売っているもの以外、卵を生食してはいけないと言われていた。卵に関してはオムレツや菓子作りに即使用できるように卵を液状にして牛乳パックのようなパック詰めになったものも売っていた。
 
 今は変わっているかもしれないが、その当時の(2000年〜2007年)ほとんどのアメリカ人の年収は日本人と比べてかなり低い額だった。金持ちもいるのだろうが、会社の社員も臨時雇いがほとんどで、正社員が少ない。収益の少ない店舗はすぐに閉められるという感じだ。首にしても臨時雇いの社員ばかりなので支障がない、そういう体制の国だった。もちろん収入に合わせて、物価も安い。だけど、週給制の人々は貰ったその給与を週末には食料品を買って終わるという生活だとか……。銀行口座を持たない、正確には持てない人も結構いるそうで、経済的に家に住めないので、車で暮らしている人も多くいた。旦那の勤務していた工場にも犬と一緒に車で生活している男の人がいた。

 大抵のアメリカ人のご馳走はバーベキュー。庭でこんもりした蓋のついた炭を使用するオーブンで塊肉を焼く。味付けは塩コショウが基本で、それは大きなステーキハウスレストランに行っても同じだった。盛りつけられた肉の塊には味は通常付いていない。テーブルにある塩コショウで味をお好みでどうぞというのだ。味が付いていても塩コショウだけが当たり前。だが、高い料金を出してこれでは……、家庭でもできそうではないか。ポテトを注文したところ、丸ごと茹でたものに鋭いナイフを真ん中にブスリと刺さったものが出てきてびっくりしたことがあった。それには、サワークリームが付けられていたが、丸ごとのじゃが芋の大きさが半端ないほどでかい。初めて見れば日本人なら、きっと驚くことだろう。長さ15cm直径8cmくらいはあるアイダホポテトがそのまま出てくるのだから。

 冷凍食品や缶詰食品が普及していて、一般的なアメリカ家庭では、普段の食卓には出来合いのハンバーグや肉を焼いたものに、これまた缶詰のソースをかけるだけのもの。煮込み料理も缶詰ソースに肉や野菜を放り込んで煮るだけのものだとか。グレイビィソースなどのソース缶詰や、スープ缶などは充実していた。知り合いのアメリカ人は風邪を引いた時は、缶詰のチキンスープを飲めば治ると言っていた。お婆ちゃんの時代からの言い伝えだとか。今では日本でも奥さんも働くのが当たり前になっているが、アメリカでは昔からそういう家庭が普通だったようで、料理は簡単が一番だったのだろう。缶詰を常備していれば、すぐに夕食が作れるのだ。

 アメリカでも今時は週末だけ買い物する家庭は減ったようだが、昔から買い物は週一回の家庭が定番だったようだ。そのために、この国の冷蔵庫の大きさは素晴らしく大きいものだった。日本でも近年、大型冷蔵庫が増えたが、それでも置き場所で制限されることがある。だが、この国ではその心配はないだろう。キッチンはアパートでもかなり広く、お風呂やトイレも二箇所も付いていたりする。家そのものが大きいのだから、家電が少々大きくてもへっちゃらなのだ。だが、大きさは素晴らしいのだが、内容は機能的に冷やせば良いという考えのものが大半で、細かい気配り商品はなかった。冷凍や冷蔵の切り替え室などは見かけなかった。アメリカ人は庫内にどんどん入れるだけなのだろうか? 細々と仕分けしないのかもしれない。

 家電全般において機能第一で、細かいサービス的なものは少なかった。掃除機は吸い込めば良いのであって、細かく立ち回れない。毛足の長い絨毯でもパワーで吸い込んでゴミを取り去るが、部屋を丸く掃く感じだ。でかくて重くて掃除機をかけるのも力仕事だった。結局私は旦那に無理を言って、日系スーパーに売っていた小型の掃除機(日本の普及版の大きさのもの)を買って貰い、それで掃除をしていた。それを購入してからは、大きな縦型バキュームはほとんど使わなかった。

 アメリカでは日本人が思うほど日本を特別に思っていないということも知った。日本にいる時、私はアメリカでは末端まで日本のことを知っている人ばかりだと思っていた。でもそうではなかった。まぁ知ってはいても、アニメのことや寿司の範疇しかない。特に少しでも都会から離れればその傾向にあった。今も海外の国で日本はその程度だと思う。日本? それってどこにあるの? という人の方が多いのだ。

 どこに行くのも遠いので、車なしでは生活ができない国。私は便利なようで、凄く不便な大国だと思った。日本は狭い国ゆえの利点が多々あると思える。日本でも田舎ではこの範疇から外れるのだろうが、基本、日本では人々は電車やバスで移動が可能だ。地方でも少し出れば遊ぶ場所に行き当たれる。だが、アメリカではそうはいかない。遊園地など特別な州を除き、各州に一、二箇所くらいの割合でしか存在しない。どこの州も日本の都府県をいくつか合わせたような広さだから、想像できない数の少なさだ。公園も遊具があるというものは少ない。家の庭が広いのでそこで遊べるからかもしれない。少し行けば自然はいっぱいあるので、わざわざ公園を作る必要がない。セントラルパークなどは都会だからこそのものなのだ。
 だから、遊びは基本アウトドアしかない。車でどこまでも出かけていく。自転車を積んで行って、そこでサイクリングをする。車の後部バンパーの上部に自転車を乗っける器具を付けた車もよく見かけた。中にはシティバスにもバンパーの上にその器具を付けているものも見かけたことがあった。これには私もかなり驚いた。バスで現地に行ってサイクリングなのだろうか。
 高速道路は安かった、と言うより基本無料だ。シカゴには有料道路が何箇所かあったが、USハイウェイはどの州にもあって、周回できる。アメリカ中、車さえあればガソリン代を除けば無料で行くことが可能なのだ。大地が延々と続く大国だからこそ、陸路でシカゴからラスベガスに行くなんてことをみんないとも簡単にやってのけるのだ。シカゴからだと、7泊くらいして到着かな? 私はやったことないので人に聞いた話だが、長旅もバイタリティある彼らは平気だ。内陸部に住む人には死ぬまで海を見ないという人もいるそうだ。
 
 5年間のインデアナ勤務を終え、次に住んだ赴任先はイリノイ州のシカゴだった。住まいは日本人が多く住むシカゴ郊外だったが、日本人向けのスーパーやレストランも多く凄く住み易かった。日本食はアメリカ人にも大変な人気で、どのレストランでもアメリカ人が食事をしていた。人気は寿司がヘルシーだと思われているからで、日本人の体系のスリムさに憧れてのことだ。だが、彼らの食べる量は半端のないもので、太巻きのレインボーロールを一本丸々食べてから、握り盛り合せを注文する。から揚げも食べ、あれもこれもって……、太るでしょう。言いたかったが余計なお世話になるので言わなかった。

 博物館や美術館などは素晴らしい施設が多く、全て教育的に構成されている。水族館なども、エデュケイションがまず第一で、かなり堅苦しさを覚えた。子供は国の宝で、大事にされている。養子制度が発達していて、白人の親が黒人やアジア系の子供たちを大勢連れてレストランや買い物に来ている場面をよく見かけた。初めて見た時は違和感を感じたがすぐにそんな自分を恥じた。我が子がいても養子を育てている人が大勢いて、5〜6人の肌の色が違う子供達に同じように接していた。その後はそんな家族の姿を見かける度に非常に感心して、感動した。国が栄えるためになくてはならない子供を大事にする姿勢は見習うべきだと強く思った。

 話が随分昭和から離れてしまったが、当時昭和30年代後半の私が憧れた国は実際行ってみたら違っていたのだ。まぁでも、ここまで書いたことは私個人の思ったことなので、これが全て当てはまっているとは限らないかもしれないが……。

 旦那がアメリカ赴任中に年に何度か日本とアメリカを往復した。観光ビザが切れれば一旦帰国するという生活だったからだ。渡米してはあちこち旅行した。こんな機会はめったにないだろうと考えてのことだ。もちろん。ワシントンにも行った。アメリカの国立墓地であるアーリントン墓地に眠るケネディの墓も見ることができた。広い敷地の中のなだらかな坂道を入っていったところにその墓はあった。特別囲ってあるのでもなく、普通に誰でも見ることができる墓に驚いた。多くの墓の中の一つという感じなのだ。まぁ、そこはケネディの墓なので、区別はできるものはあったが、本当にごく普通だったのだ。毎日そこへ参る人が多いので綺麗な花が切れることはないとか、私たちが行った時も生花が美しかった。他の戦没者の軍人さんと共にケネディも静かに眠っていた。

 この章で私はアメリカ像をいろいろ書いた。だけどこれは私が見聞きしたほんの一部、それも私の偏見や思い込みが含まれている。この大国の真の姿は当のアメリカ人でもわからないものかもしれない。移民の国、雑多な民族が住む国、広大な土地がなければ有り得ない話だが、この国が世界に果たしてきた役割は大きい。そしてこれからもこの国は世界中に大きな影響力を持ち続けることだろう。島国の日本しか知らない私が、このような大国に数年でも接することができたのは本当に幸せだったとしみじみ思っている。


 ◆ 最後に ◆

 長い拙い文を読んでいただきありがとうございました。感謝


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このストーリーに関するコメント

13/11/23 W・アーム・スープレックス

草藍さんの目でみたアメリカを、一緒に文章で旅することができました。
実際に行ってみないことにはわからないところが多々あって、あとでだれかに話したら、まるでアメリカにいってきたと思われるかもしれません。
ケネディは、大統領になってわずか3年で暗殺されたのですね。あまりにも衝撃的な事件で、その箇所の記述を読むと、当時衛星中継されたテレビを前にした人の心境と、社会にひろがった大きな波紋がよくつたわってきました。こちらでは勤労感謝の日でしたか。
アメリカって、大きな国だけに、その暮らしぶりは本当におおまかですね。日本人のきめ細かさとは好対照です。にもかかわらず社会情勢などは、いまの日本とずいぶん重なり合ってみえるところもあり、いろいろ考えさせられました。
あちらでは墓は、我が国と違って、ずいぶん質素だときいたことがあります。そんなところにも日米の違いが出ていて面白いです。
私たちは、むしろ草藍さんの個人のアメリカ観を知りたいので、この作品はそういう意味でも、とても興味深く読むことができました。
拙い感想でごめんなさい。「ろばのバンやさん」のバンは、蒸しパンでしたね。

13/11/23 鮎風 遊

「昭和日記、ろばのパンやさん」で一度読ませてもらいましたが、あらため拝読させてもらいました。
ああ、こういうことだったのだと認識し直しました。

私もアメリカに憧れ、幸いチャンスを得て、暮らしたことがあります。
正直、同じような印象ですね。
それと、アメリカ人は普段はお人好しですが、ここぞの一番では滅茶苦茶強い。また、超優秀なヤツが何%かおる。
これで日本は絶対に勝てないなあと実感しました。

13/11/24 草愛やし美

W・アーム・スープレックスさん、長々とお読みくださりとても嬉しいです、コメントありがとうございます。この章は、丁度、1万文字に500ほど足らなかったので、前置きなど添付しまして、1万文字にトライできました、一度やってみたかったので、喜んでいます。

私感という部分を心配していましたが、それが良かったとお褒めくださり、とても嬉しいです。ニュースでケネディ暗殺より50年と聞き、これは追悼の意味も含めて投稿したいと考えた次第です。私達の年代にとって、ケネディの存在は大きかったですね。まあ、初めて、子供にもアメリカという国、大統領というものを考えるようなきっかけになった方だと思います。
一家の記事はあちこち報道されましたが、少女フレンドでしたっけ、週刊漫画誌に掲載されたのを契機として、女の子の人気が一挙に上がりました。私は、当時、漫画本は全て貸本屋さんで借りて読んでいました。貸本屋って、ツタヤの前身とでもいうのでしょうね。苦笑
ロバのパンやさんも楽しい思い出です。この次にこの章も投稿してみますね。蒸しパンで、いっぱいありました。昭和日記は、章分けしていますが、かなり長く書いています。幼い頃から、赤ちゃんを産むところまで書いて、お休みしたままです。機会ありましたら、続きも書かなくてはと思っています。もう段々記憶が忘却の彼方へ行ってしまっていますのですが……。

13/11/24 草愛やし美

鮎風遊さん、長文を今一度お読みくださり感謝しています。コメントありがとうございます。
私とほぼ同じような感想をお持ちなんですね、ほんと、安心しました。私は、渡米したとはいっても、英語が苦手で(勉強しようとしても、さっぱり脳が働きませんでした、情けないことです 汗)狭い世界でしかアメリカを見ていません。その中で感じたことを書いてみましたが、偏見と言われるのではと不安でしたので……。
そうですよねえ、アメリカ人のパワーは凄いと痛感しました。あんな力どこから出てくるのやら──やはり、肉食人類、コーラがぶ飲み、1ガロンミルクなんていうのから来ているのでしょうね。
一部の優秀な方々が、アメリカを支えている感は持ちました。相方の会社でもそういう傾向にありましたから。しかも、そういう方々はよく働くのです。一般的にアメリカ人は、必要なこと以外は言われなければしないのですが、その方々は、自主的に動いてましたね。まるで、日本人のように、働きものでした。日本の今まであった繁栄は、ひとえにこの働き者の性質にあると思います。これからも、企業戦士は辛いでしょうが、頑張って日本を支えて欲しいなと思います。

13/11/24 草愛やし美

OHIMEさん、このような長文を最後までお読みくださって感謝にたえません。コメントまで、本当にありがとうございます。

若い世代の方々には、ピンと来ないと思います。ニュースで、駐日大使のキャロライン・ケネディ氏が、今までの大使と違って、特別に扱われ取り上げられている感はありませんか。なぜと思われる方もおられるのではないかと思います。それは、団塊の世代にとり、ケネディが、特別な存在の大統領でだったからです。
感慨深い気持ちになっていましたところ、暗殺後、今年が50年というニュースを見ました。「えっ、今日は暗殺日の11月22日ではないか!」ってことで、単純な私は、これは投稿しなければなんて思ってしまったのです。その結果がこの作品になりました。推敲もせず、5年前の文を焦って投稿しましたので、拙く読み辛かったことと思います。そんな作を最後まで、お読みくださり、泣きそうに嬉しかったです、ありがとうございました。

13/11/24 泡沫恋歌

草藍さん、拝読しました。

私は日本から出たことが無いので、人の話や本、テレビでしか海外は知りません。
こういう生の体験はとても羨ましく、貴重な創作の糧になるだろうと思います。
読ませていただいて勉強になりました。

ありがとうございます。

13/11/24 草愛やし美

泡沫恋歌さん、長文におつき合いくださいましてありがとうございます。とても嬉しいです。

海外なんて、縁がないと思っていましたが、チャンスに恵まれました。ですが、当時は、自分が、このような創作をするとは全く想像すらしていませんでしたので、ただ楽しんだだけで終わってしまいました。いい機会でしたのに、惜しいことをしました。メモなど、何も残していないのです。
5年前に記憶を頼りに書いていった「昭和日記」ですが、今、読み返しますと、よく覚えていたものだと自分のことながら感心してしまいます。時間と共にどんどん忘れていってしまっているのが、現状でして(大汗)、続きを書くのができるかどうか自信全くありません。あの時点で頑張って書いたことは良かったですが、もっと最後まで書いておけば良かったと後悔もしています。

こんな私の情けない文ですのに、恋歌さんのような素晴らしい技量を持っておられる創作者さんから「勉強」というコメントまでいただきまして、飛び上がるほど喜んでいます、ありがとうございました。

13/11/24 朔良

草藍さん、読ませていただきました。
草藍さんの目でみたアメリカという国を追体験させていただいたようで、とても興味深かったです。
生活や文化や食事情…テレビだけではわからないことがたくさんですね。
私は海外にはほとんど行ったことがないので、貴重な体験でした。
勉強になりました。ありがとうございます^^

13/11/25 クナリ

テレビでインタビューされる街中の人々が、口々にケネディ大統領への好感を伝えているのを見て、「なぜそんなに大人気なんだろう」と思っておりました。
異国暮らしは、こちらに書ききれないほどのカルチャショックと思い出があるのではないかと思います。
自分も前に研修でラスベガス(カジノは行ってないっすヨ(^^;))とロサンゼルスへ行ってきましたが、驚き満載でした。
乗り放題のハイウェイ、何もかもがでっかい街、重く深い夜(夜はホテルの中も出歩くな言われて)。
スーパーへ行けば「お釣り無いからお札とか使うな」な店員さん、「まだ料理とかしてるんですか?」と言わんばかりに充実した冷凍食品にデリ、冷凍品のみの魚介類、ド原色にして青だ緑だ寒色系(ペンキみたいッ…)のケーキ、「紙のパックなんかじゃ破けちまうよHAHAHA」と言わんばかりのプラ容器にずっしりつまったガロンミルク。
草藍さんがどんな驚きと異文化に触れられたのか、想像しただけでも(^^;)。


13/11/27 やっちゃん

草藍様、拝読いたしました。
今、キャロライン・ケネディ氏が来られて我が国は湧きかえっていますね。
お父上が暗殺されてから50年経ったのですね。
あのときはまだお小さいお嬢ちゃんだったのがこんなに立派になられているのですね。

我が国との国交とオバマ大統領の思惑を旨く外交するための第一歩を踏み出しましたね。

草藍さんがアメリカに住まれて知ったお国柄を知られて下さって大変勉強になりました。
いつもながらの文才に感動しています。
遅れましたが改名しました。私のブログ名にひげを生やしました。(笑)
よろしくお願いします。

13/12/23 草愛やし美

朔良さん、お読みくださって嬉しいです。コメントありがとうございます。

私自身、海外なんて夢の話、無縁だと思っていました。でも、人生ってわからないものです。観光旅行と違って、そこで僅かでも生活らしきものができたことは、生きていく過程で、良い時間を持てたと思います。正直、一人で飛行機に乗り、入国審査や、税関など、英語もたどたどしくスマイルだけで通るのには、毎回ドキドキものでした。何かあったら、下手な英語より日本語で、誰かが言ってくださった言葉を胸ににっこり笑ってました。懐かしい思い出です。
今、下の息子は日本から見て地球の裏側に住んでいます。友人の娘さん二人が、海外の方々と結婚して日本に住んでおられる。地球は狭くなったというより、世界が広くなっている──国際的交流できる時代になったのだろうと思います。

13/12/23 草愛やし美

クナリさん、コメントありがとうございます。

サンフランシスコ、何年前に行かれたのかわかりませんが、クナリさんのコメントを読み、アメリカは新しく変わりそうで、中身は少しも変わらない国なのではないかと思いました。確かにビルディングや、町の中は最新のものを取り入れたりして、変わっているのですが、体質というか基本姿勢はそう変化ないのかもしれません。私はあの国は孤独な国のような気がしました。自分が孤独だったとは思いませんが、笑顔で接する人々が、繋がっていそうで、一人ずつのような……移民の国は、何かそういうマイナー面を持たざるを得ないのではと感じました。まあ、そのマイナス面が良い方向にむき、紳士の国として弱いものを助ける部分も育てたように思います。どこでもドアー前に立てば、必ずドアーを率先して開けて下さる男性がおられ、障碍者には女性も率先してドアーへ走る。日本ではみかけないシーンでした。

14/03/12 リードマン

拝読しました!
物凄い勉強になりました! ありがとうございます!

14/03/29 草愛やし美

リードマン様、長い作品をお読みいただき感謝しております。
コメント嬉しいです、ありがとうございました。

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