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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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雨の日のパラレル

13/11/12 コンテスト(テーマ):第二十一回 【 自由投稿スペース 】 コメント:2件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1453

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  街全体を、煙のような雨が包みこんでいた。
 その印象はまるで、街そのものが蒸発して空に、溶け込んでいくかのようだった。
 森宮聖悟は、駅前の公園から道路をへだてた向かい側にある商店街に足をむけた。
 雨を避けるというより、なにかを期待してといった様子が、信号を待つ彼の少し猫背の後ろ姿が語っていた
 土曜の午後とあってアーケードの下には、駅に向かう着飾った男女や親子連れ、自転車にのった高校生らの姿がほどよく点在している。商店街をはいるとすぐに、『ミナミダ』という小売り雑貨の店があり、ここは聖悟が小学生のころからすでに店を開いていて、ほかの店が次から次に変わるのにくらべ、ここだけは現在もなお活況をみせていた。パラレルがおこったのはこの、ミナミダの店だった。
 この店に、高島由希いう若い女性が店員となって務めていた。どうして聖悟がその名前をしっているかというと、彼女は彼の小学校の同級生だった。ある日たまたま店の前をとおりすぎたとき、彼女が店前にたって、商品を手に客とやりとりしていた。そのはっきりした顔立ちは、子供のころそのままで、勉強はあまりできなかったがそのかわり、運動能力は秀でていた。面白いことをいってよくみんなを笑わせていたので他の、勉強ができた子よりも彼はよくおぼえていた。はるか昔、聖悟が二十歳前後のときに、一本道で彼女とであったことがあった。小柄な彼女が唐草模様の風呂敷包みを抱えるようにもって、こちらに歩いてきたのだ。小学生のころいつも、胸を反らすように歩いていた彼女だったので、体の半分ほどもある風呂敷にじゃまされていても、聖悟にはすぐ由希だとぴんときた。自分が歩いてきた道の手前には、おおきな質屋の蔵があったことを彼はおもいだし、あえて視線をあわすことなくすれちがった。 そのときの彼女の印象があまりに強かったこともあり、ミナミダでみかけたときもすぐにあの由希だとわかったのだった。
 ―――しかし、それはありえないことだった。聖悟はことし60を過ぎた。会社を定年退職し、この一年間は趣味やボランティアに没頭する生活をつづけている。
 同級生の由希が聖悟と同じ歳なのはあたりまえだった。だが、ミナミダでみた若い彼女が由希だという認識は、彼のなかで覆ることはなかった。ちらと頭をよぎった由希の娘という可能性も、彼女が本人だという確信を揺るがすことはなかった。
「はい。あの子は、高島といいます」
 由希の不在時をみはからってミナミダに靴下を買いに入った聖悟のといかけに、年配の店員はすんなり教えてくれた。店員たちは全員名札をつけていたので、あえて個人名を秘匿する理由もなかったのだろう。高校を出てすぐミナミダで働いているらしく、このときの彼女は見た目どおりまだ二十歳前だった。
 ありえないことが現実におこっている。聖悟はひさしぶりに、難解な出来事にでくわして胸の中で闘志がもえあがるのを自覚した。そんな興奮は退職間際、営業部長だった彼がさいごの顧客獲得に躍起になったとき以来のことだった。

 時間はたっぷりあった。聖悟はその足で、由希の実家があった町のはずれにおもむいた。いったん気になりだすととことん、追求するクセはいつものことだった。
 まだ雨は、やわらかく、地上に舞い落ちていた。傘をさそうかどうか迷っている人々が聖悟の周囲に多くいた。
 目的の場所にやってきた彼は、記憶にあった軒の低い長屋がならぶあたりにいまは真新しいマンションがたっているのをみた。
 近くに、昔からやっている食堂があるのをみつけた彼は、店に入ってうどんを注文してから、店主にたずねた。
「あそこの白いマンションがたっているところに、高島さんの家があったはずなんだけど、ごぞんじですか?」
 できあがったうどんをもってきた店の主人に、聖悟はたずねた。
「高島さんなら、ご夫婦とも亡くなられて、家は長いあいだ空き家になっていましたよ」
「娘さんがおられたでしょう」
「ああ、ユキちゃん。あの子なら、フランスで服飾デザイナーになっていますよ」
「ええ!」
「たしかいま、日本に帰っているときいてるがなあ」
「どこに行けば、会えますか?」
「………お宅さんは?」
「同窓会の幹事です。音信不通の方々の所在を確認しています」
 でたらめにしても、また上手なウソをおもいついたものだと、聖悟は自分で感心した。
「―――ユキちゃんならいま、旦那さんの実家にいるはずですよ」
 店主が教えてくれたその旦那の実家は、ここから歩いてもいける隣町にあった。
 二時間後、聖悟は見上げるばかりに大きな屋敷の玄関に立ち、目の前でドアがゆっくり開くのを待っていた。
 玄関から顔をだした女性は、その瞳に心地よい社交的な笑みをたたえて、こちらをながめた。
 長年にわたるフランス生活は、高島由希の全身からすっかり灰汁を洗い流していた。フランスで、ファッションデザイナーをいまなお現役でつづけていると食堂の店主からきかされたとき聖悟は、彼女がいったいどのような変貌をとげているのか皆目見当もつかなかったが、あらわれたのは最高レベルに洗練された女性だった。
「おひさしぶりです。小学校のときいっしょだった、森宮聖悟です」
 はたして日本語が通じるのかと、顔つきまであちら風に変貌している由希をみて彼は自信なくいった。
「まあ、せーくん。よく訪ねてきてくれたわね」
 聖悟は約半世紀ぶりで、高島由希のどこか舌足らずな喋り方にふれた気がした。
 聖悟は客間にとおされ、彼女がいれてくれた紅茶をのみながら、しばらくやりとりするうち、当時の勉強はあまりできなかったが運動好きのさっぱりした彼女の性格はいまもひとつもかわっていないことがわかった。じぶんのいまの肩書に恐れをなしてだれも、ちかづくものがないなか、小学校の旧友の突然の訪問は彼女にとって願ってもない喜びだったことがその態度ににじみ出ていた。
「きょうたずねてきたのは、ほかでもないのですが―――」
 聖悟は、由希がみせてくれたあけすけな態度にこたえるように、こちらもなにも包みかくさず打ち明けるつもりだった。
 彼が話している間、彼女はただ黙って耳を傾けていた。聖悟はむろん、フランスの風土というものについてはなにも知らないにひとしかった。テレビなどでみるそれは、あくまで観光を主眼においた、飾り物のフランスにほかならない。彼女が、こちらの話を嘲笑することなく、むしろまじめに熱心に聴いていてくれるその様子から、相手が真摯ならこちらも真摯な態度をとるという立派な人間性を彼女に培わせたフランスという国に、どこか憧れのようなものを抱いた。
「へえ、そんなことがねえ………なんとも不思議な話ね。だけど、ほんとなのよねえ」
「荒唐無稽と、おもわないかい?」
「とんでもない。あなたのその目は、うそや冗談をいってる目じゃないもの」
 彼女は急にたちあがると、部屋の奥のドアをあけて、だれかに声をかけた。
「ちょっといってくるわね」
 返事はなかったが、どうやら彼女の主人が向こうの部屋でうなずいた模様だった。
「いきましょう」
「いくって、どこに?」
「若いころの私にあいに、ミナミダにいくのよ。せーくん、いっしょにきて」
 五分後、聖悟は彼女の運転するベンツに乗って、ガレージから走りでた。
 あっというまにミナミダのある街の駅前にたどりつくと彼女は、
「パーキングだとお金がいるから、ちょっくら道端にとめときましょ」
 と、意外に財布のヒモの固いところをみせた。
 まだふりつづく小糠雨のなかを、彼女の傘に聖悟も入って二人、商店街をめざした。
「ほら、あそこ」
 ミナミダの店頭に立つ店員の一人を聖悟は指さした。外人さながら窪んだ眼窩のなかから、澄んだ目をいっぱいにみひらくと彼女は、彼の耳にもはっきりきこえる吐息をついた。
 その吐息に、聖悟が顔をむけたときにはすでに、彼女は胸を大きく張って、ミナミダの
店にむかって歩きだしていた。
 いまになって聖悟は、はたして自分のとった行動が正しかったのかどうか迷った。二人の由希が向かい合うことによって、なにかとんでもないことがおこりそうな予感に、彼は背筋をおののかせた。
 だが、なにもおこらなかった。こちらの由希と、向こうの由希は、ただだまって目をみかわしているだけだった。いや、違う。聖悟は、こちらからはっきりみえる若い由希の顔に、なにか崇拝するような表情が浮かんでいるのをみた。それは若者が、無垢な気持ちで心を全開したときの顔だった。
 彼は、こちら側の由希が、はたしてどんな表情をしているのか、無性にしりたくなった。まさか前までのこのこでていくわけもいかず、しかたなく彼は、赤く染めた髪にかくれたその顔を、想像するしかなかったが、鏡にうつすように、いまみる若い由希の顔とおなじものがそこにあるように思えないこともなかった。
 やがて由希は足をかえして、聖悟のまつところにもどってきた。目に涙がひかっているようにみえたのは、あるいは顔にまといつく霧雨のいたずらだったのかもしれない。
「わたしは三日後に、フランスにもどるの」
 かえりのベンツの中で、それまでむっつり黙りこんでいた由希が、ふともらした。
「じゃ、もう、あえないんだね」
「―――わたしはフランスの人間だから」
「よかったら住所、教えてもらえないかな。ぼくはずっとこの街にいるからときどき、彼女の様子を伝えてあげるよ」
 依然として彼女はなにもこたえることなく、彼に名刺をわたした。『TAKASHIMA YUKI』フランスでは日本同様、姓がさきにくるのかと、確信がないまま彼はおもった。
 
 由希はフランスに立った。結局彼女は最後までなにもこたえなかったが、それだけによりおおくのものを聖悟に残していった。おなじ時間に過去の自分と相対したとき、人は、どのような心境になるのだろう。一人は、雑貨店で仕事をし、未来はこれからやってこようとしている。一人は年を重ね、成功をかちとり、若いころのじぶんからはおよそ想像もつかない地位にある。あの瞬間二人のあいだにはおそらく、言葉を超えたなにかがひびきあったのにちがいない。風のひと吹きでさえ、、なにもかも崩れてしまいそうな、全き均衡を二人で懸命に保とうとしながら………。
 二日後、それまで晴れが続いて空から、ふたたびあのときのような細かい雨がふりはじめた。その雨に誘われるように聖悟は、またあの商店街にでかけていった。高島由希が日本をはなれると同時に、あの彼女もミナミダから姿を消すのではという予感めいたものが彼にはあった。だが、彼女はいた。学生服や半纏をきたマネキンが立つなかを、小刻みな足取りでゆききしている。
その彼女を外からみまもっているうちふと聖悟は、あのときベンツの中で、横でさっそうと運転している由希からただよう、さりげない香りをおもいだしていた。彼は女の香水が大嫌いだった。ちょっとでも鼻につくとたちまちアレルギー反応をおこして、くしゃみががまんできなくなるのだ。別れた妻などは、まるでわざとのようにそれを着けて、彼を何度も耳鼻咽喉科に通わせたのだった。
 由希のそれは、ぜんぜんそんなことはなかった。自然の花の香のように、控えめでいてどこか一本、じぶんを貫いているような、それを嗅ぐものにそこはかとない安堵感をもよおさせるような、香りだった。………彼女は、あまりに自分とはかけはなれた世界にいた。手をのばしても、けっして届かない女だった。
 しかしいま、ミナミダにいる由希には、そういうものは皆無だった。彼女からはなにか、野の花にも似た素朴な香りが漂っていた。山にはえる野生の柿木なら、苦も無く実はもぎとれるだろう………。
「いらっしゃいませ」
 店内に足をふみいれたものの、いつまでもなにも買わずにぼんやりしている聖悟に、由希がちかづいてきた。
「―――やあ、高島さん」
 気安く声をかけた聖悟に、彼女はこわばった微笑でみかえした。
「なにかお要りようのものが………?」
 あくまで店員としての姿勢をくずさない相手に、なかばとまどいながら彼は、手近の棚からビニール袋にはいったなにかの布をとった。
「これ、もらえるかな」
 袋をみると、『お地蔵さんの前掛け』とあった。そんなもの、どうするのだという目をちらと彼に投げかけてから彼女は、それをミナミダのロゴ入りの袋に詰めて、安くはない代金を請求した。
 聖悟にとって意外だったのは、ミナミダの由希には自分がだれだか、わからないということだった。すんなりこの平行するふたつの次元をみとめた還暦すぎの由希の器量を若い彼女に求めるのはやはりむりというものか。
 時間をかけてじっく接近するほか方法はなさそうだった。親しくなってから事情を話してもおそくはない。
 翌日から聖悟の、雑貨店ミナミダへの日参がはじまった。最初のうちはさすがに遠慮ぎみに、店前をいったりきたりするだけだった。ときに入店して、羽織の紐とか枕カバーといった低価格のものを選んで買ったりした。まえのお地蔵さんのよだれかけで痛い目にあっていただけにそこは慎重だった。そのときの応対の店員が由希だったり、ほかのだれかだったりしたが、本人が店にいるときはなるべく言葉を交わすようにした。
「いい天気だね」とか「紅葉はいまが盛りだね」とか「繁盛してるね」などといった、あたりさわりのないことばかりに終始したが、もちろんそれらがいつか彼女を、お茶になり食事になり、まさかホテルになりとはいわないがとにかく、二人だけの時間がすごせる場所に誘うための序曲だったことはいうまでもない。
 彼女がときにみせる、目をクリッとみひらく表情が、ことのほか聖悟には気にいっていた。そういう彼女の愛嬌にふれると、勝負はおもいのほか早いように思えてならなかった。
 だが、急いては事を仕損じる。昼休みにでもちかくのカフェに誘ってみるかと聖悟は、還暦すぎの男らしく鷹揚にかまえた。
 その日は朝から雨になった。雨がやわらかく渦巻きながら、屋根に、路に、人々の上にまつわりつく中を、聖悟は、駅のほうから道路をわたって、商店街にはいっていった。
 いつもの場所に彼女はいなかった。横長の店内を、彼女をさがして聖悟は歩いた。
 ほとんど店のはずれにまできたそのとき、だれかが彼の肘をうしろからこづいた。一瞬彼女かとおもって、笑顔でふりむいた彼の目に、目をとがらせた若い男の顔がとびこんできた。
「ちょっと、きてくれるか」
 凄みをきかせるには線が細く、声もふるえていたが、意を決したようなふしが、その青年の態度からうかがえた。
「なんだね?」
 聖悟がこのとき極力感情を抑えたのはいうまでもなく、相手と自分との歳のちがいが理由だった。
 すると彼はまた、顔色を変えて、こちらを厳しくにらみつけた。こちらがなにをし、なにをいっても、彼の中のメーターの針は、怒りもしくは憤りのほうにしか傾かないようにできているかのようだった。聖悟は自分に、平常心を保てといいきかせた。これまでこういう場面にでくわすと、さっさと逃げる道をえらんできた。相手とむきあって、事態を切り開くなどという選択肢は彼にはなかった。いま彼がそうしなかった理由は、若者のみためにひ弱な印象のせいだった。男にしては細い腕、首なんか女のように華奢に感じられた。
 ふいに彼を嘔吐感がおそった。じっさいに吐くまでにはいたらなかったが、なにか胸の中に不快なものが、いつまでも重くこびりついていた。彼は眼前の若者を凝視した。すると相手は、わざとのように表情をあらげてみせた。
 若者と店の外に歩きはじめた聖悟に、こいつの仲間がまっていたらどうしょうという、つぎなる懸念がわきおこった。彼がこんなに強気に出るのも、外で仲間が待機しているからではないのか。きっとその仲間は喧嘩なれした連中にちがいない。相手の脆弱さをなめてかかって、のこのこついてきた自分に、聖悟はいまになって腹をたてた。だがもう、ひきかえせなかった。
 ミナミダの店の横は、裏側の通りからつづく路地になっていて、若者はそちらに聖悟をつれていった。
「どこまでいくんだい?」
 若者はなおも路地をつきすすんでゆく。しかしそれは聖悟にとって、ある意味ひとつの活路を示唆した。この路地をとおりぬけ、通りをこえてさらに進むと、すぐのところに警察署の建物がある。いまだって、全速力で警察にむかって走れば、この急場はしのげるかもしれなかった。還暦をすぎた男が、こんな若い男におどされて、わき目もふらずににげだす姿は、まったく無様そのものだった。だからといって、この60年の人生でつちかってきた知恵でもって、この事態を打破できるかというと、彼には自信はなかった。還暦をすぎたからといってこれまで、右往左往ばかりしてきた人間が、いきなり丁々発止と困難を切り抜けたりできるわけがないことだけははわかっていった。
 聖悟が、逃げる機会をうかがっているとき、ふいに前方の、家屋が一歩後退するようにたっているところから、由希が姿をあらわした。
 おやと目をまるめる聖悟に、眉間にしわをよせ、嫌悪感もあらわな彼女がみかえした。
「つれてきたよ」
 若者が彼女にいうのをきいた聖悟は、一瞬、彼女がじぶんにあいたがっていたのかと、これまでの不安を一転させるような虫のいい希望を抱いた。
 そんな彼の、スーバーの安売り商品のような楽観も、つぎの由希の一言で粉々に粉砕された。
「あたしにつきまとうの、やめて」
 これまで辛うじて保ち続けてきた聖悟の大人としての落ち着きはここにきて、惨めなまでのうろたえにかわった。
「ちがうんだ、ちがうんだ―――」
 説得するだけの言葉も思い浮かばないまま、そればかりをいたずらに繰り返した。
「おっさん、ストーカーだろ」
 由希を前にした若者は、これまで以上に居丈高になった。みれば両手は固く握られ、抑えきれない怒りがそれをブルブルふるわしている。おそらくこれまで、人を殴った経験はないのだろう、だがこんな人間にかぎって、限度をこえる殴り方をするものだ。聖悟はじぶんの顔が、恐怖にあおざめるのを意識した。暴力を、極端なまでに恐れるじぶんを、もはや彼じしんどうすることもできずにいた。
「毎日、あんたが店をのぞいているの、わかってたのよ。ほんとにいい歳こいたオジンが、気色の悪い………」
 そこまでいわれるのはまさに心外意外のなにものでもなかったが、いったん弱気の虫にとりつかれた聖悟にはもう、なにをいう気力も損なわれていた。
「私がわるかった。二度ときみにつきまとったりしないから、どうか許してくれたまえ」
 こちらが下出に出たことにより、当然のように若者は、空気をふきこまれたように胸をてっぱいにそびやかして、
「一発、殴ってやろうか―――」
「もういいわ、森宮くん。もどろ」
 若者は最初から脅しのつもりだったのだろう、彼女にいわれてあっさり肩の力をぬいた。   
 一瞬なぐられるかと緊張した聖悟は、心底ほっと息をついた。それからだった。彼の耳に突き刺さったの由希の声が、きりりと胸まで穿ったのは。
 彼は、じぶんからはなれてゆく二人を、茫然とみまもった。ミナミダの店で彼からよびとめられたときから、ある直観めいたものにさいなまれていた。そのやせぎすの体躯、血色の悪い顔をみたとき、ある種の不快な感情がじぶんをみまった。その気持ちはあながち相手の威嚇からきているものでもなさそうだった。
 いまはっきりと、彼女の口からでた『森宮』という名が、自分の名前にほかならないことを認めた聖悟は、じつははじめから心のどこかでわかっていた、あの若者が二十歳代のじぶんで、そのじぶんが聖悟のことをただ軽蔑の目でしかみていなかったこと。そしてこちらは嘔吐感におそわれたこと―――この忌まわしいじじつをいったい、どう受け止めればいいというのだ。

 いまも雨は、煙るかのように地上に舞っていた。
 アーケードの下から聖悟は、どんより曇った空をみあげた。。
 おれはいったいなにをやっているんだ。やることがなにもかも姑息だった。二人の由希の感動にみちた出会いをまのあたりにしていながら、男としての感情にかりたてられて、高嶺の花の由希のいわば代用品として若い由希に近づこうとするなんて………。
そんな浅はかなおれを思い知らせるために、若いころの自分があらわれたかのようだった。おれは過去に手ひどくしっぺ返しされ、惨めにも尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
 彼はうちひしがれたようにうなだれると、雨の中に力なくふみだした。
 そんな彼の頬を、細かな雨粒がかすめてゆく。
 いまの自分には似つかわしくない優しい雨の肌触りに、彼はふと、以前にもこれとおなじことを体験したような気になった。
 こんな状況にあっても、その気持ちはまんざら、捨てたものではなかった。

 


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このストーリーに関するコメント

14/03/10 リードマン

拝読しました!
いやいや、ちょっとした“駅”ですねぇ(笑)
面白かったです。

14/03/11 W・アーム・スープレックス

リードマンさん、読んでいただいてありがとうございます。

ちょっとした"駅"――意味深なお言葉、よくかみしめることにいたします。
コメントありがとうございました。

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