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クナリさん

小説が出版されました。 『黒手毬珈琲館に灯はともる 〜優しい雨と、オレンジ・カプチーノ〜』 マイナビ出版ファン文庫より発売中です(表紙:六七質 様)。 http://www.amazon.co.jp/dp/4839958211 twitterアカウント:@sawanokurakunar

性別
将来の夢 絵本作家
座右の銘 明日の自分がきっとがんばる。

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桐ノ倉家の殺人

13/10/17 コンテスト(テーマ):第十九回【 自由投稿スペース 】 コメント:4件 クナリ 閲覧数:1727

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桐ノ倉トオルという少年が、実の父を包丁で刺し殺す事件が起きたのは、彼が高校二年生の時だった。
母と、中学三年生になる妹とともに四人家族で一戸建ての家に暮らしていた。
外から見れば、特別なことも無い、よくある家庭のひとつだった。
ただ、最近、その妹が自室に引きこもってしまっていることを除いては。

夏休みがとっくに終わって秋が深まろうとする頃、ようやくトオルは、二学期で初めて登校した。
がらりと教室のドアを開けると、数少ない友人が声をかけようとする。
そのうちの一人などは、三歳年下の弟とそろって蓄膿症になりかけており、ぐつぐつと鼻を鳴らしていた。何となく間が抜けていたが、クラスメイトのそんな様子も今のトオルには微笑ましく思えた。
この数ヶ月、不登校気味になったトオルを心配して連絡を取ろうとする友達にも、トオルは意図して極めて冷たく、時には攻撃的に接していた。
それでも安心したように何人かが口を開きかける。
しかし、彼らはトオルの様子を見て、一様に絶句していた。
「じろじろ見んなよ」
トオルが周囲を一瞥して言う。
「いや、見るだろ、これは」
周囲の誰かが答えた。
夏休みの前も不登校がちになっていたが、その頃は何の変哲も無かったトオルの髪が、見事に金色に染まっていた。
「ばかじゃないの、あんた」
クラスの女友達では一番仲が良い、キクコが言った。
「そうだよ、ばかなんだよ。俺に構うと損するぞ、しばらくほっておいてくれ」
つっけんどんにトオルが答える。
その顔には、いくつかの青あざが浮かんでいた。
「何それ。けんか?」
キクコが、続けて構って来た。
彼女がトオルに好意を持っていることは、周囲の誰もが解っていた。トオルも含めて。
ばれていないと思っているのは、本人だけである。
そしてトオルも、キクコの気持ちを悪く思ってはいない。
遠からず、二人の中は進展するだろう。そう周囲は確信していた。
しかし、
「うるせえな。黙れないんなら、俺が出て行く。じゃな。
こんな教室、いたくもねえや。
ていうかな、キクコ。他人の癖になれなれしいよ、お前」
唖然とするクラスメイトの間を縫って、トオルは入って来たばかりのドアを開け、出て行った。
その態度が、大切な友人に対して、この時のトオルにできる精一杯だった。

学校には行きたいとトオルは思っていた。
しかし、もしもの場合に備えて、友人達を遠ざけておかなければならなかった。
今日は彼らと自分を隔絶するために、校門をくぐったようなものだった。
いつかは解らない。しかしそう遠くないうちに、自分は、実の父親を殺害してやりたいと考えていた。
そうせずに済めばそれに越したことはない。
しかし、いつ早まった真似をしてしまうか判らないところまで、トオルのストレスは高まっている。
父の殺害後、そんな自分と仲が良かったなどと思われたら、友人達の生活は計り知れない悪影響を受けるだろう。
特に、女のキクコにそんなダメージは決して与えたくない。
トオルの頭の中は、ここ最近ずっと、実父の殺しにまつわることでいっぱいだった。

家を出てから1時間もしないうちに帰宅することになるとは思わなかった。
玄関に父の靴が無いことを確認し、靴を脱ぐ。
リビングに母がいるだろうが、一人にしておこうと考え、トオルは二階にある妹のサキの部屋へ向かった。
部屋をノックし、「ただいま」と声をかける。
ドアがわずかに開き、サキの驚き顔が現れた。
「どうしたの?早いよ」
「さぼっちまった」
サキは苦笑しながら、トオルを部屋へ招き入れた。
「お兄ちゃん、頭、何か言われた?」
「まあ、びっくりはされたな。……でも、それだけだ。色に驚かれただけ」
「うん。ぱっと見、判らない」
トオルの頭髪は、本来よりもその本数をだいぶ減らしていた。
黒髪ならば明らかにそれが見て取れたが、金色にしたせいで目立たなくなっている。
「あの野郎、力任せに引き抜きやがって。このままハゲんじゃないだろうな」
「顔のあざも、痛そう」
「ま、ちょっとくらい怪我してた方が、俺の男前が引き立つよ」
「そうだね」
そういいながら少し笑うサキも、美しく成長して来ていた。
もう少しすれば、町を歩く男の目を集めるようになるだろう。
ただし、この部屋から出られるようになれば、ではあるが。
「あいつ、出かけてるんだろ」
サキが、せっかく浮かべた笑みを消してうなずく。
「今日は夜まで、家に寄らないって」

二人の父は、ルートセールスを行うサラリーマンだった。
その途中、家に寄ることも時折ある。
父が家にいる時、他の家族は、彼の暴力の標的だった。
妹や母すら、例外で無く。二人とも、服で隠れているところには数え切れないほどの内出血を起こしているはずだ。
仕事のストレスを家族にぶつけているのだろう、と思われる。
しかし父は、体格こそ並より少し大きい程度だったが、筋肉質の上、誰かに暴力を振るう時に通常働くであろう抑制や加減というものが、全く働かないタイプだった。
力の限り打ち、遠慮なく叩く。
母は息子から見ても美しい顔立ちをしており、サキもそれを受け継いでいたが、二人とも顔のどこかしらを腫らしていることも珍しくなくなった。
お揃いのロングヘアを二人してよく父に引っ張られており、それを止めたトオルの髪を、息子の口出しに怒った父は鷲掴みにして引き抜いた。
暴力の悪影響は、肉体だけでなく、家族の精神にも根付いて来ていた。
妹は暴力の痕を友達に見られたくないがために、学校にも行けなくなっている。
貴重な十代の時間が、日一日と失われている。
そして、そんな妹についてやろうとする自分にとってもそれは同じだった。
あと何年かして自分達が成人し、家を出れば解決すると思ったこともある。
しかし、それでは母は救われない。何より、家を出たところで、完全に実の親と有形無形の関係を絶つことなど困難だろう。
自分達の人生は、父親によって台無しにされている。
開放される方法はひとつしかなく、それは父親をこの世から追放することだ。長年の虐待の中、トオルの思考はそこに固まりつつあった。
できれば自分にも母にも妹にも累の及ばない形で葬ってやりたい。
しかし同時に、もう何にもかまわずにとにかくこの男を殺してやろう、という即物的な衝動を抑えきれなくなりつつあることもトオルは自覚していた。
外の世界へ訴えれば済む、という人もいるだろう。
しかし、法律が父を罰しようが、その報復はたやすく、暴力の形を取ってトオル達に降りかかって来る。
誰が助けてくれようと、世間の声が父を責めようと、直接的な傷を受けるのはトオルを含めた家族なのだ。
そしてその傷は、母や妹の心身にとって致命的なものになるかも知れない。
結局他人は、いつでも悠長だ。
トオルには、父をこの世から消滅させる以外の解決方法は考えられなかった。

階下に降り、台所の母に声をかけた。
「母さん」
びくりと、母が肩をすくめる。
「髪の色、不評だった」
冗談を言ったつもりだが、母はあいまいな笑みを浮かべただけで、隅のスツールにぐったりと腰掛けていた。
母の憔悴の原因は解っていた。
父は、週末になるとよくギャンブルに出かけていた。
内容は競馬やパチンコを筆頭に様々だったが、勝っている様子はほとんど見ない。
そのために家の金を散々持ち出しており、最近では母親の実家に何くれと理由をつけて金を引き出そうとしているようだった。
不快をあらわにする実家と、金の調達を強いる父の板ばさみになった母は、父のいない時は終始ぼんやりとしており、父がいる時はびくびくと震えている始末だった。
ストレスのせいで物忘れもひどくなり、一度、トオルの名前すら思い出せずに、二人で絶句したこともある。

それ以上母を刺激しないよう、今日は昼も夜も自分が食事の支度をする、とだけ伝えて、トオルはサキの部屋へ戻った。
自分の暴発も近いかも知れないな、と思いながら、顔だけは笑顔を作った。
部屋で会話していると、サキの表情が急にふっと曇る。
「どうした?」
「……あたし」
「うん」
「あたし、お父さんにされたことで、お兄ちゃんに言ってないことがあるの」
「うん」
それきり、サキは黙ってしまった。
本人が続けないので、トオルは自分なりに推量し始めた。
ここまで言いかけておいて、言えないこと。
何だろう。
何がネックになっているんだろう。
トオルに迷惑がかかるようなことだろうか。
それも、今更な気がする。
何か、プライドを踏みにじられるようなことをされたので、口に出すのも屈辱的なのだろうか。
しかし、サキはそういうタイプでもない。
サキの顔は、赤く染まり、涙ぐんでいた。
その表情が、思春期のトオルに啓示を与える。
まさか。
羞恥心を侵されるようなことなのか。
あいつは父親で、サキは娘だぞ。
絶望的な想像がトオルの頭に浮かんだ。
「あたし……」
とうとうサキは泣き出してしまった。
自分の考えは、当っているかもしれない。
しかし、それをサキにただすようなことは、トオルにはできなかった。
どちらにせよ、妹を守らなければならない。
これまでよりも、ずっと確かな防衛が必要だ。
あいつとサキを、二人で会わせることすら許してはならない。
決意しながら、トオルは、なぜか自分が崖の縁に向かって歩いているような気分だった。
「学校――……」
サキが、不意に口を開いた。涙声でつぶやくように言う。
「え?」
「あたし、……学校に行けなくなって、ごめんね」
怒りと悲しみで、トオルはめまいがした。

日が落ち、夕暮れが桐ノ倉家を染め始めた。
食欲不振のため、三人とも昼食は取っていなかった。
全員、さすがに空腹を覚えており、少し早めの夕食を始めた。
この時間だけは、ごく普通の家族のように、トオル達は過ごすことができる。
少なくとも外見上は立ち直ったサキが、母にあれこれと話しかける。そこには、励ましや慰めのトーンが混じっているのが解った。にこやかながらどこかうつろに、母は応えていた。
トオルの野菜炒めの腕が上達していることをサキが褒め、明日は私が夕飯を作るといきまいていた時、父親が帰宅した。
それまで茶碗や皿から立ち上っていた湯気が、一気に凍り付いてしまったような気がした。
父はリビングに顔を出し、感情のこもらない目で食卓を一瞥すると、自室にしている和室に引き上げた。スーツを脱ぐ、衣擦れの音が聞こえる。
先ほどまでの雰囲気が失われ、全員が無言で料理をかきこみ、あわただしく夕食は終わった。
早くも我を失いかけている母親をスツールに座らせ、――この時、新しいあざが鎖骨の辺りに増えていることに気づいた――トオルは洗い物を始めた。
すると、階段の方で、誰かが階上へ上がる音が聞こえた。
サキはもうとうに二階の自分の部屋へ戻っている。
ならば、あの足音の主は一人しかいない。
あいつとサキを、二人で会わせるわけには行かない。
手についた泡を流し、トオルは二階へ向かおうとした。
しかし、父と対峙して、自分が父を抑制できるとは思えなかった。
体格はまだ父には及ばず、何よりトオルは人を傷つけることに慣れていない。
何か、武器が必要だ。使用はしないまでも、あいつを脅かせるような武器が。
トオルは包丁立てからやや小振りな一本を選び、ズボンに差した。
横で母が、目を見開いているのが見えた。絶望的な表情で。その壮絶な様子に、トオルの方が気圧されるほどだった。
「いや……刺すわけじゃないよ」
言いながら台所を後にして、同時にトオルは、母はサキが父に何をされているのか全て知っているのではないかと思った。
だからこそ、サキの部屋へ向かう父に対して、トオルが凶刃を振るおうとしていると直感したのではないだろうか。
考えながら、サキの部屋のドアを開ける。父が中で立っていた。
ドアのところからは死角で見えなかったが、一歩部屋に入ると、サキは部屋の隅にへたり込んでいた。
「何だ」
父が短く言う。
「サキの部屋から出て行けよ」
声が震えないように注意しながら、トオルが返す。
トオルの体にも、父に付けられた大小の内出血が多数ある。それらがじくじくと痛み出した気がした。
恐怖で、全身から汗が噴出すのが、止められない。過去に受けた暴力の記憶が、痛みを伴って総出で襲いかかって来た。
それらを受け流せるほど、トオルには余裕はない。立っているだけでも追い詰められているのが、自分でも解る。
包丁は心強かったが、これを出したらいよいよ大ごとになると思い、まだズボンから出すことはしなかった。
「少しサキの話相手をしようとしているだけだ。下へ行っていろ」
「サキから、離れろって言ってるんだ」
「サキ、サキ、か。お前、最近サキの部屋に入り浸ってるみたいだな」
あざ笑うような目で、父がこちらを見ている。
その姿が、ふっと揺れた。
気が付いた時には、トオルは強い衝撃を受けて倒れこんでいた。
サキが悲鳴を上げる。
どうやら、左腕を横から蹴られたようだ。緊張のあまり、視界が狭まっていて、見えていなかった。
骨にひびくらいは入ったかも知れない。激痛のせいで、左腕が動かせない。
トオルの心は、へし折れかけた。
幸い、隠した包丁は足に刺さることもなく、まだズボンに収まっていた。
「お前、妹に妙な気を起こしているんじゃないだろうな。お前らも年頃だからな」
何を言われているのか、一瞬、解らなかった。
悟ってから、怒りで頭に一気に血が上った。
自分は、こんな外道に、下衆な濡れ衣を着せられようとしている。
頭の奥まで、腐ってやがる。
許せなかった。
「なんだ、まだなのか。それはそれで、情けないな。俺はもう何度も、お前が見たがっているものを見てるぞ。
母さんの許可も得てる」
言いながら、父が哄笑を挙げた。
サキが顔を覆って「いや!」と悲鳴を上げ、続けて泣き声を漏らした。
「てめえ……」
いよいよ、トオルの自制が限界に近づいていた。
「殺す……殺すぞ」
「嫉妬で人が殺せたら、手軽でいいな」
これ以上、こいつをしゃべらせるのは、我慢できない。
腕の痛みを忘れて、トオルは立ち上がった。
「てめえにはもう、我慢できねえ……殺してやる」
「親として、またしつけてやるか」
父が害意をあらわにした。
トオルは歯ぎしりするようにして、声を絞り出す。
「てめえのやり方が、気にいらねえんだよ。弱いものになら、何してもいいと思ってるような、下衆なやり方が」
父が、トオルに近づいた。
瞬間、先ほどと同じ暴力の記憶がトオルの脳裏に浮かんだ。
これまでに受けた無数の痛み。
そして、これから先も永遠に与えられ続けるような気がする、無限の苦痛。
絶望しかその表情に浮かべることのできなくなった家族。
ずっと、こんな辛い思いが続くというのか。何の救いもなく。
過去の辛苦を耐えることはできても、未来の恐怖はあまりにも強大だった。
その恐怖から逃れるためにもがくような思いで、トオルは包丁を右手でズボンから引き抜き、そのまま父の左胸に、刃を水平にして突き込んだ。
左腕は上がらなかったが、片腕でも、その刃は充分な殺傷能力を発揮した。
父は一瞬の間を置いて、自分の体に致命的な破壊が起こったことを理解し、それからその場に崩れ落ちた。
心身への衝撃で、呼吸もままならないようだった。
トオルも自失して、血の付いた自分の手を見下ろした。包丁は、まだ父親の胸に突き立っている。
父がどうにか呼吸を整え、硬直しているサキに声を放った。
「おい、助けろ。お前のせいで、刺されたんだ、俺は。俺が女にしてやったんだろう! そのことにこいつは、嫉妬して――……」
「やめて!」
サキが叫んだ。
だめだ。
これ以上、こいつをしゃべらせてはいけない。
トオルは父親に馬乗りになり、右手で包丁を引き抜いた。
まだ何か言おうとする父親をとどめようと、その刃を――
「黙れっ!」
――父の大きく開いた口の中へ、柄尻を手のひらで押すようにして打ち込んだ。
ぐきん、ぶち、という手ごたえが伝わる。
父の体が一瞬、痙攣するように震えて、そして永遠に動かなくなった。
やってしまった。
心のどこかで覚悟を決めていたせいか、トオルは不思議に落ち着いていた。
「サキ」
返事すらできないでいる妹に、声をかける。
「お前がこいつにされて来たことは、……どんなことでも、全部だけど。誰にも言うな。
どんなに信頼できる友達にも、尊敬できる人にも、大切な人にも。絶対だ。言ってしまったら、どんなにいい人でも、お前を見る目は変わる。そしてそれは、取り返しがつかない。周りにも、簡単に広がって、お前の居場所がなくなる」
そう言い残して、部屋を出る。
逃げられるなどとは考えていなかった。
あんな屑を殺して自分が捕まるのは釈然とはしなかったが、だからと言って無罪を主張するほど、都合のいい価値観は持っていない。
考えれば考えるほど、理不尽だと思う。
最も悪しき人間は、死んだ。もう悔やみも苦しみもしない。
だが自分達は、今まで苦しんできた自分達は、今までとは別種の苦しみに、これからさいなまれ続けなければならないのだ。
特に、直接手を下した自分は。
そして、その家族である二人も。
しかし母と妹の、まだしも救いのある未来を守るためには、これしかなかったのだと自分を慰めれば、納得もできるだろう。
階下へ降り、母に挨拶をしようとした。
ごめん、やっぱり刺しちゃったよ、俺。
そう言おうとして台所へ足を踏み入れる。

台所では、梁から通した荷造り用のロープで、母親が首を吊って揺れていた。

足元には、踏み台にしたらしいスツールが倒れている。
母の首は、不自然に折れ曲がっていた。
首吊りというのは窒息で死ぬのではなく、体重のかかった首の骨が折れて絶命するのだと聞いたことがあるのを、トオルは思い出した。
母はどう見ても、即死していた。
トオルのひざが折れた。
母は、心にも体にも傷を負い過ぎていた。
父がサキを好きにすることを母親に伝えた時、どんな気持ちだったろう。
そして、それを阻止できない自分を、どう思ったのだろう。
トオルよりもはるかに、母は崖の縁に近づいていたのだ。
そしてトオルが包丁を持って父に挑むのを見て、ついに最後の一歩を、谷底へ向かって踏み出してしまった。

――……俺が殺した。

その言葉が徹の頭の中で反芻される。

俺が殺した。

もし、自分に母か妹、どちらか一人しかいなければ、自分がこんな凶行に及ぶことはなかっただろう。
女二人は仲が良かった。
父の殺害は、自分が法の下に捕まっていなくなってしまっても、支え合って生きていけると思ったからこその決断でもあったのに。
その母親はいなくなった。そしてサキは、凄惨な記憶を抱いたまま、苦痛の日々を送ることになる。
父の殺害という、悲劇から抜け出すためのたった一つの手段を、リスクを織り込み済みでトオルは実行したはずだった。
しかし、好転したことなど、何一つない。
なら、何のために殺した。
こんな事態への覚悟は、決めていなかった。
どうしたらいい。
考えるよりも先に、体は家から脱出していた。
もう、捕まるわけにはいかない。
逃げ続けながら、サキを見守ろう。
この世の影となって、自分の存在など投げ打って。
空を見ると、ちょうど夕闇が、重い藍色に押しつぶされそうになっている。
その闇に返り血を隠して、トオルは走った。
幸い人に見咎められることもなく、暗闇の中を走っていたら、何かに足をとられ、転んだ。
線路だ。
目の前に踏切が見える。
闇雲に走るうち、最寄り駅から伸びる線路の、踏切に着いていた。
線路の周囲はぼうぼうと草の生えた茂みになっており、右手に向かってカーブしていることもあって、駅の明かりは見えない。
足の挟まったレールから、走行する電車が放つ振動が伝わって来ていた。
まもなく、ここを通るのだろう。
レールの溝は浅く、足はすぐにでも引き抜ける。
しかし、トオルはそのままそこに座り込んでいた。
本当に電車など来るのだろうか。
さっきのことは、本当にあったことなのだろうか。
自分が人を殺害し、母も自殺したなどと、そんなことが本当に起こったのか。
夢でも見ているような気分に、トオルは囚われていた。
家からここに到達するまでに誰とも会わなかったことで、その感覚はより強調された。
これは夢ではないのか。
きっと、このまま、電車など来ない。
そして、この夢も覚め、明日からはまた、あの屑親父との日々が始まるのだ。
そう思った時、カーブを超えた列車のライトがトオルを照らした。
ブレーキ音を響かせながら、巨大な鉄塊が、脆いトオルを破壊する。

ああ、現実だった、これは。ちくしょう。

脳裏に友人達の顔が浮かぶ。
家族殺しの汚名を来た自分。こんなことになってしまって、やっぱり、距離をとっておいて正解だった。

――桐ノ倉君とは、最近あまり、仲良くなくて。もともとちょっと嫌なやつでね。
最近では髪なんか染めちゃって、変わっちゃったみたいだったし――

そんな風に俺のことをうそぶいてくれればいい。
誰にも迷惑をかけずに死ねたのは、良かった。
ああ、この電車に乗っている人達には迷惑か。

頭蓋骨ごと砕け散っていく脳髄の中で、トオルは、サキに詫びた。
ごめん、兄ちゃん、失敗したよ。

むき出しになった脳細胞が空中を舞うわずかの間、トオルは最後に一瞬の夢を見た。
朝の光の中で、家族が笑って朝食をとっている。
登校すると、悪友達とふざけあい、キクコをからかって、昨日と同じような今日が始まって、それは、明日も続く。
誰もが、笑っている。
もしかしたら手が届いたかも知れない、奇跡のような日常。
次の瞬間には、脳は線路の砂利に落ち、めちりと音を立ててつぶれた。
桐ノ倉トオルは、こうして終わった。



桐ノ倉家の殺人 終


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このストーリーに関するコメント

13/10/18 草愛やし美

可哀想なトオル君……、とても、でも、現実は。事実というものは、時に歪んで伝わっている、そういうこと、私達は知っているけれど、与えられた情報に対して、別段疑ったりしない。人間って悲しいですね。
いろんな思いが交差して複雑です、実際あったかもしれない事件に思えます。
我が家も、父が暴力を振るう人でした。わけはあるんだけど、それがどうしてここまで殴られないといけないのというものでした。長姉が一番の被害者で、父の葬儀には来ませんでした。墓にも来たことないです。賢かった姉ですが、中学でぐれて、家出、万引きなどしました。逮捕はされなかったのが、私や家族にとっては幸いでした。
人格形成もうまくいかなかったのか、本人の持っていた要素なのか、わからないけれど、賭け事好きで、実家にやく○さんが、姉を探してやってきたことさえあります。賭場荒らしをしたようで逃げ回っていました。行先など母は知らぬ存ぜぬと言い続け追い返しました。
母は強い人だったので、私達姉妹は救われたのかもしれません。姉は、自分が一番嫌いだった暴力を振るう人と二度目の結婚をして、そこから逃れるために逃げていました。母はまた知らないとやってきた旦那を追い返していました。そんな母にも悪態をつく姉、結婚、そして不倫、人のものを奪うのが好きなのかと思う行為もありました。何度も……、今もどこにいるのか、借金を踏み倒したのか逃げて仲居をしているまではわかっています。
頭が他と比較して少し遅れる成長をしてしまった(養護学級はまぬがれました)真中の姉がいます。私達は三姉妹ですが、その中の姉が強い人で姉に縁切りを言い渡してくれました。お蔭で私は、今静かに暮らせています。
父と母は同じ墓に眠っています。共同墓ですが、中の姉と買うことができました。私は中の姉と仲良しです。
複雑な生い立ちをしたトオル君一家を自分とつい重ねてしまい、とても辛かったです。他人は救いにならないはよくわかります。より強くあればと思いますが、繰り返される暴力の前にそれほど強い人はいません。彼らが実在しない創作であったとしても、安らかにと祈らずにはいられません。長いコメントお許しください。

13/10/20 クナリ

草藍さん>
もうね、報道を鵜呑みにして、簡単に無関係の人たちが、「あいつが悪いやつ」って思い込むでしょう。
自分が正しいと思い込むってのは、すごく怖いことですよね。やっていいことといけないことの境目を、簡単に見失う。
今回はそこに至るまで書いていませんが(そうするとひどく個人的感情に任せたものになりそうだったので)、本当にいやになるのは、大衆というもののそういう性質です。自分が得た情報の正しさに疑いを持てない人間の、なんと恐ろしいことか。
そういうプライドの発露はやめてほしいなあと。
いえ、ていうか、このような作品などのコメントにおいて、ご自分をさらけ出しすぎです。
告白いただいたことが、草藍さんの新たな傷にならないことを願うばかりですが。
強さというのは往々にして孤独の別の名前ですから、家族のためにがんばることが互いのつながりを断ってしまったり、理不尽で残酷なことがたびたび起きますよね。
その孤独を癒せるのは結局家族しかいなかったりして、でも家族だから取り返しがつかなくて、時間が巻き戻せないとか、人生が一度しかないこととか、そういう当たり前のことを呪う日々を過ごさざるを得ないことが、つらいですね。

13/10/22 草愛やし美

クナリさん、ごめんなさい、お気を使わせてしまって……。あまりに、お話が真に迫ってまして、本気で書いていました。汗  
実は昭和日記と称してノンフィクションでつい二年前まで書いていました。そこでは詳細なことをもっと書いていましたので、その延長状のような気持ちで書いてしまいました。クナリさんの作品のコメントだということを忘れていました。コメントで書くべきではなかったと反省しています。大汗

13/10/24 クナリ

草藍さん>
そ、それはまた濃ゆそうなものを書かれておられましたねッ…。
ていうか、クナリなんぞの話よりも、草藍さんのコメントのほうが真に迫ってて(当たり前)内容濃いですよ!
自分にはお力になれることはあまりありませんが、せめて投稿活動の中で、今の、そしてこれからの草藍さんを応援させていただきまするッ。




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