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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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響き童子   前篇

13/09/16 コンテスト(テーマ):第十七回 【 自由投稿スペース 】 コメント:0件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:1771

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 蔵に閉じ込められた捨吉は、その日はじめて、太鼓の響きを耳にした。
 ああ、秋の祭りの稽古がはじまった。
 心が灰色に沈んでいるときでも、子供は楽しみを感じることができる。しかし、このところ頻繁に起こる発作のことを考えると、さすがに捨吉も不安が隠せなかった。
 祭囃子の稽古はおおむね、祭りのひと月前からはじまる。村人たちのだれもが一年で一番エキサイトするのがこの秋の祭りだった。一年のあいだ大地との格闘であけくれる農民たちにとって、祭りは唯一それから解放される瞬間にほかならない。
 しんとした蔵の中で捨吉は、頭の中でこれまでの祭りの光景を、いろいろ思い描いてみた。
 秋祭りには毎年、地方から多くの旅芸人たちが集まった。芸人たちがくりひろげる大道芸を、みるのがなにより彼は好きだった。大人が何人かかってもビクともしない大石を、軽々ともちあける怪力男。入れ墨にとりまかれた肌を露出した女の、妖しげな踊り。ねじった手ぬぐいを呪文で蛇に変えてみせる手妻師。気合ひとつで人をその場に金縛りにする男や、ほかにもいっぱい、摩訶不思議な芸をもった面々が集まってきた。今年はどんなファンタスティックな旅芸人がやってくるだろう。いまからはやくもわくわくする捨吉だった。
 だがその顔は、またしても不安に曇りだした。祭りという、日常を逸脱した非現実の空間を思うだけで捨吉は、発作の前兆にも似たかすかな皮膚の疼きに見舞われた。彼は息をととのえ、気持ちをおちつかせた。こういうとき彼はきまって、姉のお杏の、ちょっとお多福似の、ふっくらした顔をおもいうかべた。すると不思議と気分はおだやかになってきた。十ちがいの姉は、大勢いるきょうだいの中にあって、この異常体質の持主の捨吉にたいして、他の兄弟とわけへだてなく接してくれるただひとりの人間だった。みんなが彼のことを、化け物と露骨によぶのを、なによりお杏はいやがり、そのときばかりは長女の権威を発揮してきびしく叱りつけた。
 化け物。ちいさいときから、お杏をのぞくすべてのきょうだい、いや親、親戚からも異口同音に、そうよばれていた捨吉は、自分でも自分のことを、化け物だと思いこむようになっていた。
 発作はつねに、刺激によって起こった。極端な例をあげれば、家のうらの欅に雷がおちたとき、彼の体は一瞬にして別のものに変化した。横で寝ていた彼のすぐ兄が、突然怯えたように泣きだし、その声に起きだした家族がやってきたときには、捨吉の発作はなかば終わっていた。それでもまだその姿は、到底人間のそれとは異なり、なにか魔界から出現した物の怪とでもいえそうな戦慄すべき外観を呈していた。
 その発作がはじまったのは、捨吉がまだもの心つくかつかないころのことで、親はなるべく捨吉を、村の子供たちから遠ざけようとした。地主で、村の長もつとめる父親の芳平は、末っ子の発作のことを他人にしられるのを恐れた。捨吉が、村長の息子という特権によって守られていたのは事実だった。これが食うや食わずの赤貧の家の子供だったら、それこそ目も当てられなかったにちがいない。情け容赦のない差別、理不尽な暴力にさらされて、無事生きて行けたかどうかさえおぼつかなかっただろう。
「捨吉」
 南京錠を開ける音がしたかと思うと、お杏の声が捨吉の耳にひびいた。外戸がひらき、夕食の膳を抱えて姉が入ってきた。肩幅がひろく、筋肉質で、、村の力自慢大会では毎年、百キロの餅を抱えてだれよりも長い距離を移動することができた。
「お腹がすいただろう」
 捨吉はだまって、お経があけてくれた竹皮の上の握り飯を、頬張った。
「いつごろ、ここから出れるんだろう」
 なにも答えようとしない姉をみて、捨吉は質問の内容をかえた。
「祭りまでには、出れるだろうか」
「祭りはひと月さきだよ。それまでにはとっくに出てるさ」
 ただし、その間に発作がなければの話しだがと、暗に姉が語っているのはまちがいなかった。
「お姉、おらのこれは、治らないのだろうか」
「もともと病じゃないんだから、治るもなにもないだろう」
「病じゃなければ、なんなんだ?」
「あたしにきいてもわからない」
「じゃ、だれにきいたらいいんだ?」
「いま村に、ひとりの修験者がきている。父様がチラと、祈祷の話をしていた」
「祈祷………するとおらは、なにかに憑かれているというわけか」
「いちど、みてもらったらどうだ?」
「そうだな」
 このときはあまり気乗りのしない様子の捨吉だったが、その後姉からもたらされた情報から、その修験者があちこちの村で、原因不明の病にかかった者たちを独自の祈祷によって救済してきたことをしり、にわかに関心をおぼえた。
「本物かもしれない」
 まがい物の氾濫する当世、相手の弱みに付け込み大金をふんだくるあこぎな人間はあとをたたない。理由のわからない病でふせっている者がいると、この治療をほどこせば治ると、わけのわからない水をのませたり、からだをしばりあげて逆さまに吊し上げ、あろうことか下から炎であぶるといった正気の沙汰とも思えない行為をほどこす輩もいるという。姉のいう修験者は、患者の体に手をあてるだけだという。そのあまりのシンプルさに、かえって捨吉は興味を抱いた。カタリはたいてい、ご大層な理屈をならべたてる。その修験者は、なにもいわずに、ただ手をあてるそうだ。
 捨吉の父がその修験者を我が家に招いたのは、祭りまであと半月という日のことだった。
「さ、貧鈍坊さん。これがせがれの捨吉です」
 貧鈍坊とはまたひどい名だなと、座っていた割れ火鉢から顔をあげた捨吉は、父と肩をならべる修験者をみやった。意外に若い顔が、爽やかまなざしでこちらをみかえした。
「病人だときいていたが………」
 そういう貧鈍坊に、父芳平が妙な顔をむけた。
「この子はれっきとした病人です。そのことはいずれあなたにもわかることでしょう」
 貧鈍坊は、捨吉のいる蔵の壁にべたべた貼られた魔除の御札をみた。
「ふむ、ふむ………。なるほど、なるほど」
「なにをひとりで納得しているのですか?」
「いや、いや。この子がここで、みんなからどんな目でみられているかを、考えていました」
「どんな目―――とは?」
「ま、あまり先をいそぎますまい。おや、どうされました?」
 きゅうに芳平が顔をしかめたのに貧鈍坊は気がついた。
「秋風が吹きだすと、持病のリュウマチが疼きましてな」
「どれ、どれ」
 修験者は、芳平の体に両手をあてて、しばらくなでさすった。
「あれれ………」
 芳平は、楽そうに腕をまげのばしすると、信じられないような表情を浮かべた。
「また冬になると再発するかもしれませんが、それまでは大丈夫です」
「え、すると―――いまのが………」
 まだあっけにとられている父を、貧鈍坊はおかしそうに笑った。
 父親の、修験者を見る目がそのときから、明らかに変わった。
「よろしくせがれをみてやってください。修験者さまならかならず、捨吉の病を治していただけることでしょう」
「さっきもいったように、捨吉は病気ではありません」
 芳平はしかし、たったいま貧鈍坊から持病の痛みを緩和してもらったにもかかわらず、否定的に首をふった。
「捨吉の病をしらないから、そんなことがいえるのです。村の者にもきいてください。かれらはなんども、辺りに出没する物の怪を目撃しています。村人たちも、おそろしい妖怪変化に恐れおののき、いつその恐怖が捨吉に対する怒りにかわらないかと、わたしたち家族はたえずびくついている次第です」
「その過剰な気遣いが逆に彼に、心理的な影響をあたえているようですね」
 貧鈍坊の言葉は、父親の顔を斜めに傾げさせた。
 背後で気配がして、お杏がぼんにお茶をのせて蔵に入ってきた。
「どうぞ、お茶なりと」
 捨吉は、あれっと姉をみた。いつものお杏ではなかった。いや、こんな物柔らかな顔つきの彼女をみたのは、はじめてのことだった。
 父顔がお杏にむかって、
「源蔵のところにいって、鉄丸をつれてくるようにいってくれ」
「鉄丸を………」お杏は渋った。「捨吉には毒よ」
「だから呼ぶんだ。修験者さまに、発作をみてもらうんだ」
 お杏は、しばらくためらったのち、どこかすがるようなまなざしを貧鈍坊になげかけた。修験者はなにもいわずに茶をすすっている。結局彼女は、丘の下にすんでいる源蔵の住まいにでかけていった。
 鉄丸は、闘犬の中の横綱で、闘うことがすべての犬だった。獰猛性にかけては、他の犬の遠くおよばないところで、熊でさえ恐れをなすほどだった。
 いつも太い綱につながれて散歩するときなど、辺りからすべての犬の姿は消え、また人間たちもなるべく犬丸の通る道にはちかづかないようにしていた。強い犬のたとえ通り、この犬丸は、めったなことでは吼えなかった。あらあらしい息遣いをたてながら、威風堂々と村のなかをのし歩くさまはまさに、闘犬の雄にふさわしい貫禄といえた。
 その犬丸をつれてこい。助三郎もまたむちゃなことをいいだした。大股歩きのためはやくも源蔵の住まいにやってきたお杏は、しかし、これも捨吉のためをおもってのことなのだとじふんにいいきかせて、柵ごしに源蔵の名を呼んだ。
「お杏か、なんの用だ」
 縁側にあらわれた源蔵は、遠い親せき筋あたるお杏に、親しげにいった。
「源蔵おじさん、じつは―――」
 お杏は、助三郎のいいつけを、源蔵に告げた。
「ふうん。助のやつ、なにを考えているんだ?」
「たぶん、修験者さまに、捨吉の変身をみせるつもりだ」
「また荒療治だな。だけんど、うちの鉄丸は、童なんか相手にせんぞ」
「父様のいいつけだから。散歩のつもりでいいいから、鉄丸をつれてきて」
 源蔵はうなずいた。ちょうどこれから鉄丸をつれだそうとしていた矢先だったのだ。
 芳平の家に、鉄丸をつれた源蔵が、お杏とともにやってきたのは、それから半時も立たない間のことだった。
 いつもとちがうコースを鉄丸があるいたために、しらずにいた子供たちがおおあわてで逃げ回り、幼児たちは泣き喚いいて、いつもはしずかな周辺が大変な騒ぎになった。お杏は、ひさしぶりにみる鉄丸が、また一段と大きく、逞しく成長しているのに目をみはった。全身を覆う筋肉はまるで鎧のようで、みちあふれる精力に全身の毛は逆立ち、つねに闘争の相手をもとめるかのように目は熱するかのように赤く血走っていた。
 芳平は鉄丸をつれた源蔵を、蔵の前で出迎えると、すぐに蔵から捨吉を呼び出した。捨吉は、貧鈍坊といっしょに表にでてきた。
 なにもしらずにいた捨吉は、蔵の前にいた牛ほどもある鉄丸をみてすくみあがった。
捨吉の発作がはじまったのは、彼がまだ幼児のころ、庭にとびこんできた野良犬にいきなり襲われたことがきっかけだったことを、芳平は知っている。それ以来捨吉は、犬がいるところへは決してでかけなくなった。その捨吉がいま、村でもっとも巨大で獰猛な鉄丸をまのあたりにした。
 このときのことを修験者貧鈍坊は、後々まで鮮明に記憶にとどめていた。九十近くまで生きながらえた男は、その生涯においてもっとも驚愕した出来事のひとつとして、そのときの捨吉のことを話すことがあった。
「まず最初に、犬丸が異様な声をあげた。それは飼い主の源蔵がはじめて耳にする鉄丸の、はげしく動揺する気持ちのあらわれだった。わたしは犬丸から、捨吉に目を転じた。しかしそこに、捨吉はいなかった。いたのは、犬丸の獰猛さをさらに何倍もに増大させたような、なにかだった。わたしはそれをいいあらわす言葉をもたない。犬丸と対面した瞬間、捨吉の身の上におこった発作が、それだった。あとで聞いたことだが、父親も姉も、これまで捨吉がそんなものになったのははじめだったという。その後の捨吉の、想像を絶するものに変化する、いわばそれがきっがけだったようだ。犬という彼にとって根源的な恐怖の源に直面したことで、飛躍的な変化がおこったらしい。あの犬丸がおびえたようにあとじさったことでも、そのときの捨吉のものすごさがわかるというものだ」
 鉄丸はさすがに闘犬だけに、一瞬でも臆病風に吹かれたおのれを恥じ、もてる闘争心のすべてを奮い立たせて、目の前の敵にとびかかった。鉄丸がそこまで本気になるところを源蔵ははじめてみた。地上のどんな生き物も、いまの鉄丸の攻撃から逃れることはできないだろうと、そのとき源蔵は確信した。
 しかし、一瞬後に源蔵が目にしたものは、頭から胴の半分を挽肉のように粉砕された鉄丸のかわりはてた姿だった。
「捨吉、やめなさい」
 だれもがそのとき、お杏の必死の叫びをきいた。おなじときに、貧鈍坊が捨吉にむかってひろげた手をさしのばし、裂帛の気合をはなった。お杏の声と貧鈍坊の気合のおかげで、捨吉のそれ以上の変化をおしとどめたのはまちがいなさそうだった。もしそうならなかったら、捨吉はさらに途方もないものに変化をとげて、父親たちだけでなく村の連中全員の命もどうかなっていたかは保証の限りではなかったかもしれない。
 捨吉の発作――変化は、起こったとき同様、たちまち収束するのが常だった。このときも彼は、すぐにもとのどこかとぼけたような顔の子供にもどり、まだあぜんとしたままのみなを尻目にひとり、さっさと蔵の中にもどっていった。
 貧鈍坊がすぐに彼のところにちかづいた。さすがの修験者も、どう声をかけていいものやら、しばらくためらうありさまだった。
「気分はどうだ?」
 修験者の最初の質問に、捨吉はすらすらと答えた。
「発作のあとは、いつもスカッとして、胸のなかのつかえがみなおりたような気分になる」
「発作のあいだおまえは、自分のやっていることがわかっているのか」
「みんなわかっている。だけんど、それは絵草子をみるようで、まるで他人の行いをみているようなんだ。実感がないんだ」
「おまえは、あの鉄丸を、あんなふうにしてしまったんだぞ」
「うん。そうだね。修験者さま―――」
「なんだ?」
「修験者さまは、おらに、なにかをしたか?」
「気功をかけた。なにか感じたか?」
「うん。途中でふわあとした気持になった。そのときに姉ちゃんの声もきこえた」
「おまえはそれで、救われたんだ」
「救われるって、なにから?」
「なにかもっと恐ろしいものになることから」
「それはどんなものだ?」
「わたしにもわからん。さっきのことでおまえは、みんなにとっていっそう脅威となるだろう」
「おらに鉄丸をしかけたお父には責任はないのか?」
「ある。しかし芳平さんにも、おまえのほんとのことはわからなかったんだ。父を恨むな。おまえをなんとかしたい一心でやったことだから」
「おらはこれから、どうしたらいい?」
 いつのまにきていたのか、お杏がそのとき口をはさんだ。
「わたしには捨吉の発作の意味が、すこしはわかったような気がする」
 それにはたいそう貧鈍坊が興味を示した。
「どういうところが?」
「捨吉は幼いころから、とにかくなんにでも影響される子供だった。川べりに足をひたしていると、その顔が魚のようになった。また兎をだいていると、彼の顔から長い耳たぶがたれのびた。そのころの弟の発作は、楽しいものが多くて、わたしなんか、彼がみんなに能力をもっていることを、羨んだくらいです。だけんど、他の人たち、親も兄弟たちも、そんな捨吉を、異常者よばわりして、かれとの間に高い敷居を築いてしまった。捨吉の響きやすい身体は、刺激となる対象物によって、どうにでもなる。鉄丸と相対したとき、捨吉は鉄丸の獰猛さを自身にあらわし、そして増大させたとみていいのではないのかな」
「響きやすい心に、体か………」
 貧鈍坊はその言葉を、噛みしめるようにいった。
 そのときまた、太鼓の音がきこえてきた。
 しぜんと捨吉の体がそのくりかえされる単調なリズムにあわせて、小刻みにうごきだすのを二人はみた。これがついさっき、闘犬を死にいたらせた捨吉かと目をうたがうほど、あどけなく、むじゃきな様子の彼だった。
 貧鈍坊はそれからも、芳平の家に滞留することになった。修験者のほどこす気功というものが、捨吉にいい影響をおよぼすというお杏の言葉を、うけいれてのことだった。
 修験者の気功はそれからも評判になり、中風や神経を病むものなどが彼の気功によって奇跡的な快復をとげたりした。頼まれもしないのに村からそんな病人たちを集めてくるのはお杏の役目だった。
 そのような明の部分があるかとおもえば、同時に暗の部分もまた確実に村にはひろがっていた。
 いうまでもなくそれは、闘犬の横綱を死に至らしめた捨吉の存在だった。これまでみんなは、不気味にこそ思え捨吉の変化を半ば、そんな因果をもってうまれてきた彼にたいする同情の念でみまもっていたふしがあった。だれも本気で彼を、どうにかするなど、思っていなかった。
 だが今回の、鉄丸という村人たちにとっては闘争の権化ともいえる犬を、一瞬にして切り刻んでしまった彼を、恐怖の対象に思わないものはなかった。いつ、わが身に鉄丸におこったことがふりかかるかもしれないという危機意識を、だれもが抱くようになった。とくに、おさない子供をもつ親たちはなおさらだった。
 いつだったか、芳平の家に、石が投げつけられたことがあった。子供のしわざと、そのときは芳平たちも相手にしなかったが、お杏をはじめ捨吉のきょうだいたちは、自分たちにむけられる人々の視線が、ひましに剣をふくんでくるのを感じずにはおれなかった。
 捨吉は、いまも蔵の中で暮らしていた。もっとも、出入りは自由で、母屋にいくことも許されてはいたが、外に出ることだけは父親から固く禁じられていた。
 天塩にかけて育てあげた鉄丸が殺されたことで、あれからというもの源蔵は、なにかにつけ芳平の家族の悪口をいうようになり、憎い捨吉のことを邪悪な化け物よばわりして、彼をほっておくとやがて村に災いがふりかかるというようなことを、だれかれなしに吹聴している事実を芳平は耳にしていた。
 修験者貧鈍坊は、このところ毎日のように暗く、せまくるしい蔵の中から捨吉を明るい庭につれだすようになっていた。
 広い庭には、鶏、ヤギ、牛といった多くの家畜が買われていた。
 貧鈍坊は、それらの家畜にむかって順番に、気功をかけはじめた。
 それまでせわしげにうごきまわっていた一羽の鶏が、目にみえて緩慢になってきて、そのうちまったくうごかなくなってしまった。
 そのつぎはヤギが、おおきなあくびをしたかとおもうと、ゆっくりと地面に横たわった。すぐ隣では牛が、やはりいかにも心地よさげに横になっている。捨吉は、家畜たちがここまで警戒心をなくすところを、はじめてみた。
「盆と正月がいっしょにきたようだ」
 家畜たちの様子を、お杏がそんな言葉で表現した。
「わたしの放った気がかれらのからだをつらぬくと、あんなふうに気持ちがよくなるんだ」
 修験者はその気功を、なんども捨吉にもためした。確かに心地よくはなっても、それで百パーセント大丈夫かというと、修験者もさすがに自信がもてなかった。
「じっくり時をかけて、やるほかない」
 捨吉の体質は、さすがの修験者にも、一筋縄ではいかないもようだった。
「修験者さま、お昼の用意ができています。捨吉とともにどうぞ、はなれまでいらしてください」
 姉の、貧鈍坊にたいする口調が、いやに丁寧になっているのに捨吉は気がついた。そういえば、修験者をみつめるお杏の目にもまた、なにか妙に熱っぽいものが感じられた。自分の弟をなんとか救いたい気持ちのあらわれ―――このときは捨吉も、それ以上の考えは思い浮かばなかった。
 修験者貧鈍坊は、その名のとおり贅とは無縁の人間で、これまで何年も着つくしたぼろぼろの衣服をまとい、食べるものはそば粉を水でといたものに塩をかけたものを主食としてきた。この家にきたとき、からだからだがあまりに臭くて、とにかく風呂にはいるようにお杏がすすめた。これまでよくそんな風体で、人に施術してこれたものだと彼女があきれていうと、修験者は真顔で、わしがみてやったものは、わしとみな似たような境涯にあるものばかりで、からだが臭うからといってへんな顔をするものなどひとりもいなかったと答えた。
 それでもとにかくひと風呂あびた彼の風采は、これがさっきのむさい男かとみまがうまでのイケメンで、お杏の表情がそれをみたとたん、ボッと赤くなったのをそばにいた捨吉はみのがさなかった。。
 はなれの座敷にやってきた捨吉と貧鈍坊には、焼き魚や葱ヌタ、昆布の佃煮、あさりの味噌汁に山菜の天ぷらなどが盛られた膳が用意されていた。
 またずいぶんなご馳走だなと、おどろいたのは捨吉だった。いつもは山芋と漬物と玄米飯で、たまに漬物の種類がかわるぐらいの膳だったのにと考えたところで捨吉は、ふと直感めいたものがひらめいた。このご馳走は、おらにというよりじつは貧鈍坊に捧げたものではないのか。お杏の、ふだんから修験者に対する態度には、捨吉もなにかを感じないでもなかった。ぼろ雑巾にも等しい彼の着物を、夜なべで縫ってあつらえてやったのもお杏だったし、彼のほどこす気功の効果を、実際以上に父親に報告するところも何度か耳にした。
 姉はとっくに婚期を過ぎていて、その男勝りの気性もネックになり、地主の娘といううたい文句をもってしてももう、どこからも貰い手の話はかからなくなっていた。家では男としてふるまい、家畜の世話や力仕事もすすんでこなす姉は、この家と運命をともにする覚悟でいる様子だった。そのお杏が最近、弟の捨吉の目にさえ、みょうに女っぽいしぐさをみせるようになっていた。
 それもこれもみな、貧鈍坊がやってきたときからはじまったのだ。
 捨吉にしても、そんな姉の一面をみるのは、悪い気持ちではなかった。気性は荒いが、心根は弟おもいのやさしいお杏だった。これまで外にむかって張り出していた身と心が、いまは内側に収縮するような感じになっている姉が、なんだかとても人間的におもえて、好感を抱いた。

 その日、蔵にやってきたお杏を一瞥するなり、捨吉は目をみはった。
これまでぼさぼさの髪をたばねただけだった姉の頭が、どこで整えてきたのか、きちんと櫛がいれられて、そのうえ頬にはうっすら化粧さえしている。
「姉ちゃん、なにかあったのか」
 姉はただだまって、弟をながめるばかりだった。
 その夜おそく捨吉は、尿意をもよおして目をさました。姉がつくってくれた好物の生姜湯を、調子にのってのみすぎたのがいけなかった。田舎の家のことで、便所は家の外にあった。眠い目をこすりながら外に出た彼は、刈りいれの稲の束がつまれた下に、人影がうごくのに気づいた。それに続いてだれかの声が………いや、それは押し殺してはいるもののあきらかにお杏の声だった。
「………わたしを、奪って」
 捨吉にとっては意味不明なそんな言葉が暗がりの中からつたわってきた。
 お杏は、なんどもその言葉をくりかえすうち、ついには胸元をはだけて胸をさらけだした。尋常でない姉の様子に、その場から捨吉が身をのりだしたとき、肉薄するお杏を、邪険につきはなす貧鈍坊の姿が月明かりの中に浮かびあがるのがみえた。
「わたしは生涯、女と交わらないことを誓った身―――」
 冷たいまでの調子で修験者がそう言い放った直後、捨吉はお杏の口からこれまできいたこともない、なにか肉そのものからしぼりだすような異様な、きくに堪えない悲鳴とも泣き声ともつかない声音をきいた。
 そのとたん捨吉の顔面を、びりびりとしたものがとりまいた。発作が起こる。
 気づいたときには彼の全身は、すでに収拾がとれないまでに波打ちだしていた。荒々しい感情がわきおこり、抗しがたい憎悪と、怒りがさらにそれを激しくかきたてた。
「わあー」
 かつてないそれはすさまじい発作だった。自分がなにかとんでもないものに変わってしまいそうな予感が、捨吉をわしづかみにした。


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