1. トップページ
  2. いつかあの交差点で

村上慧さん

性別
将来の夢
座右の銘

投稿済みの作品

1

いつかあの交差点で

13/08/29 コンテスト(テーマ):第三十九回 時空モノガタリ文学賞【 待つ人 】 コメント:1件 村上慧 閲覧数:1526

この作品を評価する

 僕がその人に出会ったのは一年前のことだった。
 友人と遊んだ帰りの交差点にその人はいた。止まることを知らない雑踏の中で、まるでひとりだけ時間が止まったみたいに道路脇に佇んでいた。誰もその人を見ない空間で、僕だけがその人に気が付き、またその人も同じく時を止めた僕に気付いて。
 その人は、僕を見て、涙を流した。
 
 その人は飯田聡という名前だった。
 飯田さんは昔は画家だったそうだ。今は描いていないのかと尋ねれば、もう年だから大きなものはつくれないと苦笑気味に言っていた。
 僕と話をするとき、飯田さんは「君は若いから」といつも言う。白髪頭に痩せ細った姿を見れば、確かに若者には見えないけれど、顔のしわや話し方を見る限りでは、これで九〇近くとはとても思えなかった。
 あの日、僕を見て突然泣き出した飯田さんに驚いた僕が駆け寄り、それから彼との付き合いが始まった。
 毎週末の昼に彼と会って、彼おすすめの喫茶店へ行ったり、天気の良い日は公園の日陰で腰を下ろしたりして、僕達はどうでもいい話をたくさんした。友人の話に趣味の話、最近あった出来事に、近所で飼われている犬の話。僕がそんな話をするたびに彼は微笑み、けれど時々哀しげな表情をした。僕はその表情の理由を彼に訊くことはできなかった。訊いたらこの時間が終わってしまう、そんな気が漠然とした。

 ある雨の日のことだった。その日は喫茶店で待ち合わせをしていたのだが、珍しく飯田さんは遅れてきた。何かあったのかと尋ねれば、午前の用事が長引いたらしい。
「友人の葬儀だったんです。それで帰りに知人に捕まってしまって」
 もう友と呼べる人は数えるほどしかいなくなりましたよ、と彼は苦笑気味に話す。それで彼にとっては死が近しいものなのだと自覚して、いやに胸の奥が重くなった。
「親も親友も私を置いていきました。長生きだと聞こえはいいですが、単なる死に損ないですよ、私は」
「そんなことないですよ。俺はいつまでも飯田さんとこうやって話をしていたいです」
「いつまでも、ね」
 飯田さんはコーヒーをひとつ頼み、それから羽織っていた上着を椅子に掛けて腰を下ろした。それから窓の向こうを黙って眺めたまま、「僕はずっと待っていたんです」と口を開いた。
「もう六〇年ほど昔の話です。その頃僕は絵描きの卵で、雑誌に挿絵を使って貰って、その金でその日暮らしの生活をしていました。僕の恋人はそんな僕に、絵なんか金にならないんだからやめろ、とは一言も言いませんでした。僕の絵が載った雑誌を買って、ちゃんと載ってるわよ、と笑いながら見せてくれるような女でした。僕は彼女を愛していました。今に彼女も食わせられるくらい稼ぐようになって、そしたら彼女に結婚を申し込もう、そう思っていました」
 そこで彼は一度言葉を切り、コーヒーカップを口元へ運んだ。一口だけ啜ってからひとつだけ息を吐き、「彼女とは結婚できませんでした」と言葉を吐いた。
「ある有名な作家に、自分の本の表紙絵を描いてくれと頼まれました。僕の挿絵を見て一目惚れをしたそうです。僕は喜び勇んで彼女を呼び出しました。君に初めて出会った、あの交差点です。彼女は走ってくる僕に気付いて笑顔で手を振りました。僕も手を振り返そうとした、そのときです、彼女に向かって車が突っ込んだのは。映画のワンシーンみたいにすべての時間が止まった感覚でした。当時は携帯電話なんてなかったから、近くにいる人が走って電話を借りてくれました。僕はその間、彼女を抱きかかえていました。彼女は僕の腕の中で段々冷たくなっていきました。雨も降り始めて、僕は泣きながら彼女の名を呼び続けました」
 窓の向こうから聞こえる雨の音が妙に胸を騒がせる。どこか遠くの記憶で、僕はその風景を知っているような気がした。そして彼女はそのとき多分こう言ったんだ。
「『必ずまた会えるから。だからもう泣かないで』彼女はそう言って微笑み、そして死にました。僕は彼女の言葉を信じて、それから毎年、あの場所で彼女を待ち続けました。その間に僕は夢が叶って立派な絵描きになりました。でも結婚はしませんでした。僕は彼女にまた会えることを信じていました。そして、君と出会った」
 飯田さんはこちらへ向き直り、そして僕の目を見て泣きそうな笑みを浮かべた。
「彼女はちゃんと約束を果たしてくれました。君とたくさん話ができて、本当に僕は幸せでした」

 その数週間後に彼は息を引き取った。彼の遺族から、僕に宛てたものだと写真くらいの小さな絵を渡された。そこにはあの交差点が描かれていて、カンバスの裏には「僕の若い友人へ」と書いてあった。
 絵には飯田さんも、そして彼を待つ彼女も描かれてはいなかった。もう彼女は過去の世界で彼を待つ必要がなくなったし、また彼もこの世界で彼女を待つ必要がなくなったからだ。


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

13/08/30 てんとう虫

かなしいけど穏やかな話で素敵ですね。飯田さんは僕に恋人の姿を見つけたのでしょうか。自分の周りの人は過去や未来にも関わりがある人が側にいつもいると言います。飯田さんはまた会えるといいな。

ログイン