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ニーチェ爆弾さん

深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている。

性別 男性
将来の夢 AQ革命
座右の銘 痛みのパンなくして前進なし。 漂えど沈まず、悠々として急げ。

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モバードとハミルトンとトロピカル

13/07/24 コンテスト(テーマ):第三十五回 時空モノガタリ文学賞【 無慈悲な人 】 コメント:0件 ニーチェ爆弾 閲覧数:2076

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 昼下がりの裏通り。ヴィンテージ時計の専門店。看板には「Festina Lente」とある。「悠々として急げ、か。洒落臭い」とGRIP GLITZは低く唸る。眉間の皺が強く深くなる。機嫌が最悪のレベルに入りつつあることを示す兆候だ。
「おれは悠々ともしないし、急ぎもしない。踏みつぶし、蹴散らし、姿を消す。それだけだ」
 店の扉を右のつま先で蹴り、傲然とした足取りで店の中へ。
「モバードの腕時計をした男を捜しているんだが」
「モバード? 色は? デザインは?」
「明るいブルー。三日月形」
「ああ。文字盤とベルトがブルーの」
「そうだ」
「もうこの街にはいませんぜ」
「どこへ?」
「なんでも、”弛むことなき前進”とやらいう集まりに行くとかで」
「あの野郎」
「なにか混みいった話ですかい?」
「混みいりすぎて、もう3人死んでる」
「そいつは恐ろしい」
「ほかになにか知ってることはないか?」
「無料の場合はここまでですがね」
 時計屋はGRIP GLITZの腕をちらりとみやる。
「おや。旦那、いい時計をしてますな。オリジナルのハミルトンのベンチュラとは」
「爺さんの形見だ」
「そいつを欲しがっているコレクターがいるんですがね」
 GRIP GLITZの血相が変わる。表情がみるみる曇っていく。1秒刻みで険しさを増す。
「おい、おやじ。まだもう少しは長生きして、クソまずいおまんまをそのへらず口に詰めこみたいだろう?」
 声にそれまでとはちがう凄味が加わる。数知れぬ修羅場と地獄をくぐり抜け、血が迸り、肉が弾け飛び、絶叫と悲鳴が子守唄がわりの戦場を鼻歌まじりに悠然と横切ってきた者の凄味が。
「冗談ですよ、冗談」
「はきちがえるな、時計屋。時計屋は時計のことだけ考えてりゃいい。余計なことには首を突っ込むな。時計に余計は禁物だ。でなけりゃ、正確に時を刻めない。時計屋が余計なことに首を突っ込めば死刑がお待ちかねという寸法だ。まだ死のカウントを刻みたくはないだろう?」
 時計屋の顔から血の気が引いてゆく。唇はわなわなと震えている。
「知ってることを全部話す気になったか?」
 時計屋は洗いざらい話した。話す必要のないことまで。ほっておけば母親の浮気の現場のことまで話しはじめそうな勢いだ。
「礼を言うぜ。受け取れ」
 GRIP GLITZは左腕から時計を外し、ショウケースの上に置いた。
「おれのことをモバードの男のように話すんじゃないぜ。長生きしたきゃな」
「だれにも旦那のことは話しゃしませんよ」
「おれに嘘と冗談は通用しねえからな。おぼえとけ」
「肝に命じますよ、旦那」
「わかりゃいいんだ。で、いま店で一番高い時計はどれだ?」
「お待ちを」
 時計屋は奥の金庫を開け、パテック・フィリップのトロピカル・ゴブリンを恭しく取り出した。GRIP GLITZは眉ひとつ動かさずに受け取り、ケースの傷み具合、ダイアルの劣化、運針音、ゼンマイの巻き上げ具合、竜頭の動きを確かめた。
「歯車や雁木車やバネやゼンマイがつぎはぎだらけってことはないな?」
「ワンオーナーもので、メンテナンスは2年に一度、パテック本社で。これだけのトロピカルにはそうそうお目にかかれませんですよ」
「できれば前の持ち主の仕事が知りたいんだがな」
「なんでもペリーが浦賀にやってきたころからの老舗の御主人だそうで」
 時計屋は小刻みに指を震わせながら台帳のページをめくった。目指すページが見つかると知らぬ者のいない老舗の貿易会社の名を言った。GRIP GLITZはそれを聴くと、いかにも満足げにうなずいた。時計屋の言うとおり、コンディションは完璧だった。ダイアルのエナメルの状態もいい極上のトロピカルだ。
「いくらだ?」
 時計屋は恐る恐る大卒の初任給2年分近い金額を言った。GRIP GLITZは表通りの銀行の支店長に電話した。5分後、太った禿げ頭の男が大汗をかいてやってきた。GRIP GLITZが顎でショウケースの上を指し示すと、銀行屋は札束をショウケースの上に積み上げた。GRIP GLITZは銀行屋が寄越した書類に無造作に書き込んだ。銀行屋は来たときよりもさらにあたふたしながら帰っていった。
「また来る。今度は気のいい時計マニアとしてな。ついちゃあ、ヴァシュロン・コンスタンタンの1958年の手巻きを探しておいてくれ。ケースはトノーのピンク・ゴールド。ダイアルは黒でブレゲ数字。スモール・セコンド。こいつは手付金だ」
 GRIP GLITZは言い、大層な厚みの札束を放り投げた。青ざめていた時計屋の顔に光が戻る。
「大急ぎでお探しいたしますよ、旦那!」
 GRIP GLITZはくるりと踵を返し、出口に向かう。明るいブルーの三日月形のモバードがGRIP GLITZの若い愛人の腕に巻かれたのは3日後だ。


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