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W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

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酒の音

13/07/15 コンテスト(テーマ):第三十六回 時空モノガタリ文学賞【 無口な人 】 コメント:7件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:3108

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 あのときはまだ、昭和だったかな。
 ぼくはせまいアパート住まいで、部屋には風呂がなくていつも、近くの銭湯にかよっていたときのことだ。工場の仕事が終わって、一汗ながしにいく風呂は最高で、ときどき入れ墨した人が横に入っていることもあったけど、肌と肌のふれあいの場だから、それもしかたがない。
 銭湯の帰りにはかならず、たちよるところがあった。労働で油にまみれた体を洗いおとして、さっぱりした気分で、夕食をたべにいくところが、浅野屋という一軒の、ちいさなうどん屋だった。
 風呂上りのこのうどん一杯が、こたえられなかった。昼間はたしか、丼ものや巻きずしのようなものも出しているが、夜はうどんと、酒が主だった。
 当時のぼくは、酒はまったくのまなかったので、五、六人が座ればいっぱいの店の端に席をしめて、ずるずると熱い奴をすすりこむのだった。
 タンッ。
 その音に、ぼくはうどんの鉢から顔をあげた。
 男がいま、猪口から口を離したところだった。彼がそのあとにきまって、「うまい」とつけくわえるのをぼくは知っていた。
 その「うまい」の一言は、酒をのまないぼくにさえ、酒のうまさが伝わってくるまでに、実感がこもっていた。
 彼は、この店の常連だった。風呂をおえて、ぼくと前後するようにやってきて、注文した一本のお銚子からお上さんがついでくれた酒を、まずは一杯、ぐいとのみほすのが、いつものきまりになっていた。
 最初のころ、ぼくにはあの、「タンッ」という音がいったいどうして出るのかわからず、あたりをきょろきょろみまわしたものだった。この店で彼とよくであうようなるにつれ、仔細に観察した結果、どうやらそれは、のみほした猪口に染み残った酒を、あまさず吸い取ろうとして舌が、くっついた吸盤をひきはがしたときぽんと音をたてるのとおなじ原理で、そんな独特の音を発するのだとわかった。
 彼の存在を知ってすでに月日がたつが、彼がその「タンッ」と「うまい」以外の音声を口にしたのを、まだ一度もきいたことがない。
 彼が注文するのはお銚子一本とうどんのペアで、店のものも、彼がくるとなにもきくことなく、その二品を用意するようになっていた。彼がどこでなにをし、またふだんどのようなことを考えたりしているのか、なにかと詮索好きなぼくには関心がわかないこともなかったが、ここでは「タンっ」と「うまい」だけしかいわないことをきめているような彼には、さすがに近寄りようがなかった。
 それから、すでに何十年という月日がながれた。昭和から平成にかわり、時代に加速がついて、ぼくをとりまく環境もはげしく変化した。
 役職の仕事につき、のしかかるストレスと戦いながら会社勤めをし、人並みに恋もして、所帯をもち、子供もできてそれからは、自分が自分でないような、多忙な毎日を送るようになっていた。
 それでもときに、遅い会社のかえりなどに、飲み屋や飲食店がならぶとおりをあるいていて、そこにふと、うどんの屋台や店をみつけたりすると、ついふらふらとたちよったりすることがあった。
 無意識にぼくは、あのときのうどん屋に似た店をもとめているようだった。まだなにものでもない、稼ぎもしれていたがしかし自由な身の上だったぼくにもう一度たちかえることができるなら――そんな不可能な願望が、たしかにぼくを後押ししていた。
 その店はせまく、カウンターをとりまくようにしてならぶ椅子は、六脚ほどか。小型の液晶テレビが、ナイター中継を映している。緊迫した試合のようで、ぼくが座っても店の女は試合から目をはなそうとしない。ようやくけりがついた数十秒後にやっと、こちらに顔をむけた。
「いらっしゃい」
「お銚子とうどん」
 ぼくのひとつおいたとなりでは、若い男女三人が、会話に熱中している。手をたたき、けたたましい笑い声がおこるものの、いったいなにがおかしいのか、そばにいてもさっぱりわからなかった。
「おまちどおさま」
 女はぼくのまえに徳利を置いた。ついでくれるかなと、ひそかに期待したぼくに、相手はすげなくそっぽをむいた。
 独酌でぼくは猪口にそそぐと、顔をのけぞらしながら、熱い酒を喉に流し込んだ。
「タンッ」
 突然おこったその音に、これまでさわいでいた若者たちが、おもわずこちらをみた。店の女もまた、いまきいた音の意味を、けんめいに理解しょうとでもするかのように大きく目をみひらいている。
「うまい」
 ぼくのはなった声は、せまい店中にひびきわたり、そしておそらくは店にいる連中の胸のなかにまでひびきわたったにちがいない。
 その昔、ひとつの音と言葉だけしか口にしなかった男がいま、ぼくの中によみがえった。本当の楽しみを味わうのに、多くの言葉はいらない。「タンッ」と「うまい」だけで十分事足りることを、あのとき彼は教えてくれていたのだ。


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このストーリーに関するコメント

13/07/15 かめかめ

「タンッ」て!「タンッ」て!
酒好き過ぎやろーヽ(*´∀`)ノ
お酒が飲みたくなる作品でした。好きです。

13/07/15 W・アーム・スープレックス

この作品で、かめかめさんの酒量がふえすぎないことを願っています。

13/07/17 名無

昭和の味わいある雰囲気漂うお話で、 素敵でした。
年配の方の人生が詰まったタンッ、うまい。そんな風にお酒を楽しめる方は格好いいなぁと思いました。

13/07/18 W・アーム・スープレックス

名無さん、コメントありがとうございます。

こんなふうな飲み方をする人はいまはあまり、みかけなくなりました。
功罪いろいろありますが昭和の時代ってやっぱり、魅力にあふれていますよね。いま多くの目が昭和にむいているのも、そこになにか人間として大切なものがあったからではないでしょうか。

13/07/21 芝原駒

拝読いたしました。
主人公の語り口と視線の動きがとてもスムーズに描かれていて、とても読みやすかったです。懐古物としての目新しさはなかったものの、テーマに即した話運びが魅力的でした。

13/07/21 W・アーム・スープレックス

芝原駒さん、コメントありがとうございます

懐古物としての目新しさ―――考えさせられるご意見でした。作品にするからには常に、新しさをもとめることは大変大事なことと思います。そのためには絶えず、書き続けることが必要なのでしょうね。

13/08/07 W・アーム・スープレックス

凪砂薫さん、コメントありがとうございます。

どうぞ、人の心を夢の世界に誘うお酒を楽しんでください。

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