1. トップページ
  2. 影のミュージシャン

W・アーム・スープレックスさん

性別 男性
将来の夢
座右の銘 作者はつねにぶっきらぼう

投稿済みの作品

3

影のミュージシャン

13/04/01 コンテスト(テーマ):第五回 【自由投稿スペース】 コメント:5件 W・アーム・スープレックス 閲覧数:2323

この作品を評価する

 焼鳥屋なのはたしかだった。店の名が『鶏一』というのをみてもわかる。
 ここがきょうの、篠崎牧人のライブ場所になるのだった。
 半瀬元雄は、窓からひっそりした店内をうかがってみた。
「あの、もうはいってもいいでしょうか?」
「どうぞ、どうぞ」
 店員に招かれ、元雄はほっとして店の中に足をふみいれた。駅からここにくるまでのあいだ、冷たい風にふきまくられて、口をきくのも、頬がこわばり、容易でなかった。
「なにか食べるもの、ありますか?」
 元雄は小腹がすいていた。チキンのから揚げならできると店員はいった。
 店はマンションの一階にあり、むき出しの土壁がL字になっている場所にアンプやマイクが設置されていた。目の前にはイスが二列ほどならび、そのうしろはすぐカウンターになっている。どんなせまい店でも、どんな少ない客でも歌うという篠崎牧人がいかにも好みそうなライブ会場だった。
 元雄は壁側のいちばん端の席に腰をおろした。
「おまたせしました」
 彼のテーブルに、紙コップにさした手羽先が置かれた。彼がそれをかじっているとき、客がはいってきて、彼の横の席に、みなどかどかとすわりはじめた。    
 客たちは中年以上が多かった。なかには白髪の、高齢と呼んでもおかしくない男性もまじっている。四十年歌い続けている篠崎のファンは概ね、かれらのような年頃の男女がめだつ。広いステージで、どう聞いてもひとつもうまいとはおもえない若手の歌手に、悲鳴とも叫びともつかない声援をあげて陶酔する若者たちとは、きれいに一本の線で画されていた。
 まだ開演まで間があった。あとから入場した客たちは、男も女も、酒やチューハイを空けている。元雄の悲劇は、アルコールがのめないことだった。のめさえしたら、みんな篠崎ファンなのだから、だれにでも気軽に話しかけることができるのだ。しかし真顔ではそうはいかない。いつのライブにいっても、それが原因で元雄はひとりひっそり、開演までの時間を過ごさなければならなかった。
 元雄はさっきから、前方の壁一面に書かれた、夥しい落書きに興味深げな視線をむけていた。これまでここで歌ったミュージシャンたちのものだろう。字も絵もあり、自分の歌の歌詞を書いているものもあった。新進気鋭もいれば、篠崎のように何十年も歌っているベテランの落書きもある。元雄はふと、そんな連中の影が壁に染みついていような気がした。メジャーでなくても、歌が好きで、こんな小さな店でも、一生懸命歌う何十人ものミュージシャンたちの影が。
 ふいに、これまで続いていた人々の声が、途絶えた。みると、篠崎牧人が奥から姿をあらわした。
 篠崎は、ミネラルウォーターを一口のむと、やおら壁際にたてかけてあった愛用のギターを手にとり、いきなり歌いだした。だれかが紹介したり、イントロがながれたりすることがないのが、このようなライブの魅力でもある。
 前半の十曲は、たちまちのうちにすぎていった。腕をのばせば届くような場所で歌っているのだから、これ以上の臨場感はない。CDできいたのとおなじ曲のはずが、生で歌うとやはり、力強さやそのときそのときの感情がこもって、まるで別の曲のようにきこえるのもまた、ライブのよさといえた。
 元雄があることに気づいたのは、前半の曲が終ろうとしているときのことだった。いや、実際に気づいたのは、歌がはじまってまもなくだったが、最初のあいだは会場内の独特の雰囲気のせいぐらいにおもっていた。そのうち、だんだん、おかしくおもえだして、最後は目をこらして観察するようになった。
 元雄が、篠崎が歌っているあいだ、その背後にうつる影に注目したのはやはり、開演まえに彼が思い描いたミュージシャンたちの影へのおもいが影響していたことはまちがいない。
 問題は、その影だった。壁には、篠崎の横顔がくっきり映し出されている。彼の口の開け閉めまで、律儀に映じていた。だが、その口が、あってないのだ。篠崎が大きな口をあけて歌うところが、影のほうは唇をとざしていたり、またその反対のときもあった。そんなことがたびたびつづいた。影は本人からはなれたところにあるので、そんなふうにみえるのかとも考えたが、まさかそんなことが本当にあるともおもえなかった。
 それからというもの元雄は、仔細に篠崎と影を見比べるようになった。とくに後半などは、歌はそっちのけで、そのことばかりに意識を集中するようになった。
 驚くべきことに気づいた。というのは、歌は、影の口に合わせて聞こえていた。篠崎の声は、影と口の動きが合致するときにのみ一致し、動きがずれるときは、ちょうど口パクで歌う歌手の、声と口がずれるように、はずれているのだった。
 これはいったいどうしたことだろう。元雄はなんども自分の目を疑った。ライブにたちこめる雰囲気にのまれて、酒ものまずに酔いしれているのでは。しかしどうみても、篠崎の口元と歌には微妙なずれがみとめられた。それに反して影のほうは、完全に歌と一致していた。
 やはり、目の錯覚だ。元雄がそう思うようになったのは、篠崎の頭上で黄ばんだ光を放っている、二個の電球をみてからだった。生の歌に効果をもたせるためにわざと、昔ながらの裸電球を使用してあり、その二つの球が投げかける明かりが、その下に立つ歌い手とその影に、ある種の乖離現象を起こさせ、それをみるものにもある種の錯覚をもたらしているのではないか。
 まだわずかな疑問は残ったものの、元雄はもうそれ以上そのことには拘らないことにした。せっかくの篠崎牧人のライブを楽しまなくては。歌はぼちぼち佳境にはいっていて、昔のフォークの定番で、歌いながら歌詞をいっては、客たちの唱和をうながしていた。客たちもまた、すでに何杯かのアルコールで、うかれはしゃぎながら、声をはりあげて篠崎の歌に追従している。
 後半も歌い終わり、アンコールを三曲もサービスしおえた篠崎は、いつものように客たちとの打上をはじめた。こうして彼と席をまじえて飲むことを楽しみにくる客も多くいるはずだ。
「おつかれさま」
 元雄がビールのジョッキをもって篠崎の横にすわったのは、ひととおり彼が顔見知りたちに挨拶がわりの声かけをしおえたあとのことだった。
「今夜もきておられましたね」
 みんなのように囃し立てたり、リクエストを口にするわけでもなく、どちらかといえば片隅でひっそり耳を傾けている元雄を、篠崎はちゃんとみていた。
「熱唱ですね。しびれました」
 いかにも七十年代フォーク時代の連中が口にするようなセリフで元雄はいった。
 篠崎は、元雄から手渡されたジョッキを口にもっていって、ぐいと一飲みした。
 元雄は、彼が背にしている壁にちらと視線を投げかけた。
「ぼくはこの店はじめてなんですが、味のあるところですね」
「毎年、ここでやらせてもらっています」
「あれ、篠崎さんですよね」
 と元雄は、壁の落書きを指差した。
「え、ああ。二年前のライブのときに書いたものです。ここに出た人たちはみな、サインしています」
「ここに立った大勢のミュージシャンの、熱気が壁から伝わってくるようです」
「お仕事は、なにを?」
「IT関係の仕事をしています」
「いまをときめく職業ですね」
「いやあ、目は乾くわ、肩は凝るわ、運動不足になるわで、健康的ではありません。こんなところで、おもいきり歌えたらなと、つくづく思いますよ」
「おや、ミュージシャンをめざされてことがあるのですか?」
「ええ、まあ。こうみえても、七十年フォーク派ですから」
 若いころはたしかに、ミュージシャンをめざしたこともあった元雄だった。
「いまでも、ギターは結構いけるんですよ」
 では一曲と、篠崎がギターを手渡さないかとびびった元雄だったが、ミュージシャンはただ残りのビールをのみほしただけだった。
「ボーイさん、ビールおかわり。ウィスキーかなんかのほうがいいのかな」
 テーブルの向うにすわっていた女性が、まだ口をつけてない水割りを、篠崎のほうにさしだした。
「飲んで、飲んで―――」
 篠崎は遠慮なくうけとると、一息に飲み干した。ライブのあとの高ぶりは、まだまだそれぐらいのアルコールではしずまりそうにもない様子だった。
「あなたは飲まないのですか」
「ぼくもすこし、のんでみようかな」
 ついつられて、元雄はボーイに生のジョッキを頼んだ。何年かまえに肝臓に血腫がみつかってからは、意識して酒類を遠ざけていた。
 ま、いっぱいぐらいと、以前のんだ記憶がすぐおもいだせないぐらいひさしぶりのビールは、さすがに酔いを誘ったとみえ、たちまち顔がまっかになった。
「ぼくはみたんですよ。あの壁にうつる影と、あなたの口に、ずれがあるのを」
 いつのころからか、その話題にうつっていた。いや、それまでのむだな会話もじつは、その話に移行するための、導入部かもしれなかった。どうしてもこの話をしたいがために、元雄は普段のまないビールに口をつけたのかもしれなかった。
 篠崎の狼狽のはげしさは尋常ではなかった。それまでうかべていた笑顔はみるみるかたくこわばり、あまりの衝撃にうけごたえひとつ、しばらくはできないありさまだった。
 やはりなにかあるなと元雄は、この篠崎の変貌をまのあたりにして直観した。
「どうかしたのですか?」
「あ┅┅┅いえ、べつに―――」
 ライブの合間のあの、客との当意即妙のやりとりがうそのように篠崎の態度は煮え切らなかった。元雄はしかし、まったく彼がその話題にふれたがっていないのではないことをさっした。なにか、胸のなかのものを、だしたがっているような、そんなそぶりがときおりかいまみえた。
「さ、もっと、のんで―――」
 元雄のうながしに、篠崎はウィスキーを注文した。
 そのウィスキーを三杯あけたころから、彼の口元はゆるみだした。
「あなたをみていると、昔のわたしをおもいだしますよ。ミュージシャンのみちをあゆみだした当初は、ぜんぜん売れなくて、さきをゆく先輩たちのステージに、熱い羨望の目をむけていた当時のわたしを」
「ヒット曲、『化石のハート』の時代の話ですね」
 篠崎が世にでたそれがデビュー曲だった。全国規模でヒットした一曲だったにもかかわらず、それ以後彼はなぜか、カフェまわりの歌い手になってしまったのだった。
「『病だれその一章』は、おぼえていますか」
 元雄はけげんな顔で篠崎をみた。『病だれその一章』は、やはり七十年代にはやった一発もので、ミリオンヒットした春日井太一の歌だった。だれもが、その二、その三の続章を期待したにもかかわらず、春日井はただその一曲を残したのみで、
「たしか、自殺したのでしたね」
 篠崎は、まるで自分のことのように、暗い面持ちでうなずいた。
「春日井さんは、代償をはらったのですよ」
「代償とは?」
「わたしは当時、春日井さんにぞっこんでしてね、彼のステージは日本全国、どこでやろうと聞きにいったものです。あれだけのヒットをとばしたにもかかわらず、あの人は、ひとつもお高くとまることもなく、無名のフォーク仲間にまじって、ちいさなホールや、野外コンサートやまたこのような店でのライブにも積極的に参加していました」
「それは、ぼくも知っています」
 春日井はいまでは、七十年フォークのひとつの象徴的存在になっている。
「彼の奥さんのことは知っていますか?」
「奥さん┅┅┅┅┅┅?」
 元雄は過去の、かすかな記憶をよびもどそうとした。
「たしか、奥さんも┅┅┅┅┅」
「そうです。自殺したのですよ。春日井さんよりも、はやくにね」
「なにかわけがあったのですか?」
「影ですよ」
「┅┅┅┅┅はあ?」
「あなたがさっき、いみじくもいった、影がすべての原因なのです」
 元雄は、グラスに残っていたビールをのみほすと、
「もすこし、詳しくはなしてもらえないですか」
「本当に聞きたいですか?」 
 ここまでこちらの好奇心をあおっておきながら、いまさら聞きたいもないだろう。そんな元雄の憮然とした態度に、篠崎もわるいとおもったのか、
「わかりました、すべてを話します。ただし、後悔してもしりませんよ」
「だいじょうぶです」
「わたしも、春日井さんの話をきくまえは、ちょうどいまのあなたのように、陽気な態度をよそおっていたものです」
 元雄の推察したとおり、その話は篠崎が春日井から引き継いだものだということがこれではっきりした。どんな因縁めいた話がとびだすのだろう。まいにち電子機器ばかりをあつかっている彼にとって、その手の人間くさい話ほど魅力のあるものはなかった。
「春日井さんはね、じつをいうと、まったくの音痴なのですよ。音符はもとより楽譜いっさいが読めなかったのです」
「楽譜が読めないのは、ビートルズだっておなじでしょ。ほかにも結構、いると聞きますよ」
「楽譜が読めなくても、すくなくとも、音痴ではないでしょう」
「そりゃ、まあ」
「あの人は、ひどい音痴だったのです。それはわたしもおなじですが」
「ご冗談を」
 篠崎節とまでいわれる、独特の定評ある歌い方は、他の歌手の遠くおよばないところだった。いま考えると、唯一それにちかい歌い方をしていたのは、死んだ春日井だった。
「春日井さんは、あれは口パクだったのですよ」
「まさか、そんな」
「ほんとなんです。それを知っていたものは、ご本人と、このわたしだけなのです」
「――ではいったい、本当に歌っていたのは、だれなんです?」
「影です」
「影┅┅┅┅┅影でだれかが歌っていたということですか?」
「いえ。影そのものが歌っていたのです」
「ですから、その影は、だれなんです。ああ、ぼくなどはしらない歌い手ということですか」
 釈然としない面持ちの元雄を、篠崎はしばらくじっとながめていたが、ふいにその顔にある種の決意のようなものが浮かぶのを元雄は見た。
「影のことを話すときは、影と決別するときだと、春日井さんからいわれたことをおもいだします。それはつまり、わたしの歌手生命が終わるときでもあるのです」
「あの、ぼくは、あなたの秘密を決して口外したりはしません。ですから、いまなにを聞かされようと、篠崎さんはこれからも安心して、歌手活動に専念してください」 
「じつをいうと、わたしはもう疲れました。限界かもしれません。この何十年間、ひたすら黙りつづけてきた秘密を、だれかに話さないことにはどうかなってしまいそうです。あなたは、影の存在をしりました。これまで何人も気がつかなかったにもかかわらず。あなたが、影の後継者ということなのでしょう」
 なんだかたいそうななりゆきになってきた。しかしもう引き下がれないところに自分が追い込まれていることを元雄は実感した。たしかに篠崎は、自分でいうとおり、神経がだいぶまいっているようだ。全国各地をまわって、さまざまなところで歌い続けてゆくことは、いうほど楽なことではないだろう。辛酸をなめることもあるかもしれない。彼のいう影というのもじつは、ファンのまえでは出してはいけない、もうひとりのじぶんのことではないだろうか。
 そうおもうと、元雄はきゅうに寛大な気持ちになってきた。若い、実力などかけらもない歌手たちが、テレビや舞台で喝采をあびるのを尻目に、じぶんの歌を本当に聞きたい連中に聞かせるために地道に活動をつづけている篠崎の、精神的な支えになってやりたいという気持ちが沸いてきた。
「なんでも話してください。なにもできないぼくですが、聞くことぐらいならできますから」
 篠崎はいまにも、鶏が卵をうむように口から、言葉を吐き出そうとしかけた。そのとき、彼の上に異変がおこった。このときの彼の急激な変化を、なんとたとえればいいのだろう。脱皮しかけの蛇が、中身と皮が離脱する寸前、それまで生気をおびていた表面が一瞬にしてうつろな表情に様変わりする光景と、そっくり同じ現象が、いま篠崎の上におこったのだった。
 元雄は、これまでとまったく異なる篠崎の顔を、茫然とながめた。しかし、真に元雄を驚愕させたのは、その直後におこったできごとだった。
「おれにはおまえの胸のうちがはっきり読み取れるよ」
 それはこれまで聞いてきたどんな篠崎の声ともちがっていた。いま彼の口からでたものは、いかにも底意地のわるそうな、悪魔的ともいえるような声音だった。
「きゅうにどうしたのです?」
「まあ、きけ。おれはおまえを、一流ミュージシャンにしたてあげることができるんだ」
「なにをいっているのですか。しっかりしてくださいよ、篠崎さん!」
「篠崎はもう、歌手としてはおしまいだ。おれとのとの長い二人三脚に疲弊してしまった」
「あなたのいうおれとは、だれのことですか?」
「そこにうつっているだろう」
 と篠崎が背後をふりかえるのに、つられるように元雄もうしろをみた。
 そこの壁にはいま、みごとなまでにくっきり、篠崎の影がうつしだされていた。
「あの影がどうかしたのですか?」
「それがおれだよ」
 彼の笑い声がなんとも不気味に響き渡り、店内で騒いでいる篠崎のファンたちをおもわずしんとさせた。
 元雄はそのとき、彼の喋ることと口の動きにはっきりとずれがあるのをみた。
「ふふふ。みろ。篠崎はもう、口をあわすことに青息吐息だ。ほんとに限界がきているんだ。そろそろ解放してやらなくちゃな」
「ちょっとまってください。あそこに映っている影は、あなたのものではないのですか」
「ちがう。あの影はおれ自身だ。これまでの彼の歌もすべておれが歌ったもので、彼はただ、口パクをしていただけにすぎない」
「そのことはさっき、篠崎さんもいっていました」
「秘密をもらした時点で、われわれの契約はおわったことになる。そして秘密を知ったおまえが、あらたな契約者だ」
「からかわないでください」
「そうおもうなら、ちょっとそこのギターをとってみるんだ」
 その声に感じられる、絶対権力を握った王のような権威に逆らえきれずに元雄は、壁際にたてかけられているギターに手をのばすと、自信がないまま弦に指先をもっていった。とたんに、その指先がうそのようにうごきだしたかとおもうと、元雄自身とても信じられないような高度なギター演奏がそこから奏でられだした。
 その演奏にあわせて、元雄は歌いだした。店内の客たちはおどろいたようにこちらをふりかえった。そんなかれらの耳に、篠崎とはまたちがう、幅のあるバリトンの、じつにリズミカルな歌声がながれこんできた。最初はきょとんとしていた連中も、しだいに耳をかたむけだしてそのうち、魅了されたように聞き惚れはじめた。
 元雄は一曲を歌い終えた。いや、歌っているような気持にはなった。声はたしかに、自分の口から出ていたようだが、声帯を使用した覚えはない。彼にとっては、そのことよりも、一心に耳をかたむけていた客たちの、じぶんにむけられる熱いまなざしがこたえられなかった。一瞬後にわきおこった拍手に、元雄はふかぶかと頭をさげていた。ちらと篠崎のほうをみると、そこにはテーブルに肘をつき、がっくりとうなだれるミュージシャンの姿があった。

 焼鳥屋で元雄が歌った歌は、それを耳にした客たちの口コミや、ツィッターによって、人から人にしれわたった。そのうえ、篠崎の歌をビデオカメラにおさめていたひとが、元雄の歌も撮っていて、それをユーチューブにながしたことにより、彼の歌は全国にひろまっていった。
 鳥一店主から、ぜひうちでもう一度と依頼され、元雄がその気になってライブを開いたところ、店内ははじまって以来最高の入りになった。
 元雄はすっかり有頂天になった。人々がじぶんの歌に酔いしれ、夢中になっている。これが人気というものなのか。歌は勝手に、影が歌ってくれるので、歌うことにはひとつの心配もしていなかった。歌詞をまちがったり、音程が狂ったりするおそれは皆無だった。元雄はただ、口をばくぱくあけているだけでよかった。ギターもまた、ひとりでに爪が奏でてくれた。
 彼はまもなく、他のライブ会場からもひっぱりだこになった。そんななかである音楽プロデューサーの耳にとまり、CD吹込みの話をもちかけられた。影はさらに、二曲目、三曲目の歌を発表した。それらがまた、一曲目以上の好評で、はやくも今年の音楽賞候補にノミネートされるほどだった。はじめてテレビで歌ったとき、あとでそのビデオをみた元雄は、これはやばいとおもった。大型画面は容赦なく、歌と声とのずれを映し出していた。それ以来元雄は、テレビやテレビ放送されるおそれのある大きな会場でのステージ出演はいっさい辞退するようになった。できるだけちいさなライブ会場をえらんで、タバコの煙がたちこめるなかで、酔った客相手にもっぱら歌うようになった。それでも次々に発表するCDは飛ぶように売れたし、人気はうなぎのぼりだった。
 影は確言どおり、元雄をミュージシャンとして成功にみちびいた。影が歌う歌はどれも、人々を魅惑しないではおかなかった。それはすべて元雄の作詞作曲ということになり、わずかな間に彼は、一流のシンガーソングライターのひとりになっていた、
 元雄のまえに、何十も年下の彼女があらわれたのも、このなにもかもがうまく運びだした彼の人生に、花をそえた形になった。
 彼は結婚式にも、歌を披露した。おそくにやってきた、人生の黄金期を、彼はじぶんの歌で祝福した。
 その夜、彼は妻とふたり、結婚式場でもあるホテルの一室にいた。新婚旅行など、とてもでかけているひまなどない彼だった。
「新婚旅行は今後のたのしみにとっておきましょう」
 妻の幸は、こうして彼とふたりきりになれるだけでも、喜びでいっぱいの様子だった。やはりミュージシャンで、同じライブ会場で歌ったのが知り合ったそもそものきっかけだった。あたたかな心の持ち主で、ひととのふれあいを大切にし、だれにたいしてもわけへだてなく親切な態度で接した。夫となった元雄にたいしても、つねにおもいやりの心をわすれなかった。歌手活動にはいっさい口をはさまず、夫の歌がじつは影がうたっているなどということなど、もちろんなにもしらなかった。
「ぼくたちだけの時間を、大切につかおう」
 二人はそれから無言のままベッドにすわると、ながいあいだお互いをみつめあった。元雄の手がしずかに彼女のほうにのびようとしたそのとき、そっと幸がいった。
「明かりを消して」
 元雄はおもいだしたように枕元のスィッチに手をかけた。が、指はおもうようにうごかなかった。
「このままでいいだろう」
 元雄はぎょっとなって、耳をそばだてた。
 いまの声は、じぶんのものではなかった。
 ふとみると、ベッドのうえに長々と、真っ黒な影がのびている。その影がいま、むっくりとうごきだした。元雄の顔に脂汗が浮かんだ。影がうごくのと同時に、じぶんのからだが抗いがたい力に支配されてつきしたがうような感覚にみまわれた。影はいま、元雄の意志を無視して、ひとりでに行動しはじめた。 
 影はなおも、ゆるゆると移動をつづけると、まもなく彼女にまつわりついた。 
 その光景を元雄は、恐々としたおもいでみまもった。手も足もまったくじぶんの意のままには動かなかった。
「それは、ぼくじゃない。それは、ぼくじゃない」
 けんめいに彼女につたえようといくら躍起になっても、声にならなかった。かわりに、下卑たような低い男の声が荒々しい息遣いとともにきこえた。それがまぎれもなく影のものであることは、元雄がいちばん知っていた。
 なにもしらずに影にまといつかれる幸をまのあたりにしているにもかかわらず、悲鳴ひとつあげらることさえできなかった。
 いま自分におこっているできごとこそが、春日井を自殺に追いやり、篠崎をあのような状態におとしいれた真の原因だということを元雄は、絶望的な無力感にさいなまれながら悟ったのだった。


 
 

 


コメント・評価を投稿する

コメントの投稿するにはログインしてください。
コメントを入力してください。

このストーリーに関するコメント

13/04/01 こぐまじゅんこ

W・アーム・スープレックスさま。

拝読しました。
面白かったです。

影に自分を占領されるとしたら、たまりませんね。

13/04/01 W・アーム・スープレックス

こぐまじゅんこさん、コメントありがとうございます。

自分の作品って、自分ではよくわからないのですが、こぐまじゅんこさんに面白いといわれると、書いてよかったと素直におもいます。

13/04/02 名無

壁の落書きに映る、ミュージシャン達の面影と篠崎の影の印象が鮮烈で、臨場感が素晴らしいなぁと思いました。全体的に流れる物悲しいムードも素敵です。

13/04/02 草愛やし美

W・アーム・スープレックスさん、拝読しました。

影に自分の人生を奪われてしまったんですね。餌食となる人間を探していた影に、魅入られてしまった人間たちは、逃れられないのでしょう。非常に面白く、一気に読み終えました。ありがとうございました。

13/04/02 W・アーム・スープレックス

名無さん、コメントありがとうございます。

私は実際に、客が数人というような小規模なライブが好きで、ときどき聴きにいったりしています。そこで歌うミュージシャンたちの熱気と迫力、目と目があったときの一体感、そのような体験がこの作品のベースになっているように思います。
名無さんのいわれる臨場感も、あるいはそういうところから生まれているのかもしれません。しかし、まだまだです。


草藍さん、コメントありがとうございます。

以前から私は、生まれて以来自分から一度も離れたことのない影というものに、妙に愛着がありまして、この影がもし、主人から離れて勝手に動きだしたらどうなるだろうと、ひまなときに考えたりしていました。
面白く読んでいただいて、本当にうれしいです。

ログイン