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実さん

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喜劇のはじまり

13/03/07 コンテスト(テーマ):第二十六回 時空モノガタリ文学賞【 サーカス 】 コメント:0件  閲覧数:1606

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「人を騙してまでも幸せになれって、そういうことですね?」
稔は先生に噛み付いた。進路指導室に集っている他の生徒やスタッフたちが興味深そうに二人を眺め、そしてまた元の仕事に戻った。
「そんなことは言ってない。君はすぐ話を道徳的な話に持っていく」先生は困惑しながらも大人らしい落ち着きを保っていた。胸を膨らませて、なるべく怒鳴らないように。
「だってそういう事じゃないですか。僕は入りたい企業に落ちた。だからもう就活は無意味なんです。入りたくもない企業の面接で『入社したい理由は?』と聞かれてすらすら答えることなんてできません」
先生は一度宙を見てから一呼吸を置いて答える。
「君の気持ちもよくわかるんだ。先生だってこの大学の教授職を望んでいたわけではない。ただ望みが叶えられるには才能がなさすぎた。世の中には自分より優れている人なんてたんといるし、時に人生は運にも左右される」
二人の間に沈黙が流れる。室内にはパソコンをたたく音や資料をめくる音が絶え間なく流れている。
「気持ちは変わらないのかね?」なるべく温和に尋ねる。「先生だって君に強要しようとは思っていない。君の未来は君の自由だからね。ただゼミの担任として力になれたらと思ったんだ。ではもう君は”就職をを希望していない”。そういうことだね?」
「はい」稔は迷わず答える。「就活はしません」
憤りを感じながら席を立つと、去り際に先生が答える。
「稔くん、一つ忠告しておくがあまり感情的なのは社会人としてのモラルに欠けているとみなされる。社会に出たら人は器用に対応していかなくちゃいけないんだ」
彼は何も返さずに出ていった。扉が閉まると先生は周りを見渡し同情を乞うように眉をひそめて言った。
「本当に頑固な奴だ。それでも未来は刻一刻と迫ってくるのに」
明日から進路指導部は彼を”就職希望者”の枠からはずす。就職希望者でなければ大学の就職率には響くことはない。

 帰途につく間、稔自身何度も思い返してみたがいったい何に憤りを感じているのかわからなかった。先生の言っていることもよくわかるし尤もなことなのだ。電車の景色は徐々に都会を離れて郊外へと移っていく。夕暮れにはまだ早い午後の日差しが車内に注ぎ込み、明滅している。ボリショイサーカスの広告が扇風機の風に揺れていた。
 席に座り10分ほどうとうととしているといつの間にか車内は混雑し始めていた。もう帰宅ラッシュに入る時間帯かと思いふとあたりを見渡すと老婆が一人乗り込んで来た。生憎席は埋まっており、疲れているのか誰も譲ろうという気配を見せない。稔も疲れてはいたが仕方がないと思い立ち上がると彼女に席を譲った。
「ありがとう」
そう言うと老婆はちょこんと座り笑顔を向けてくれる。稔も笑顔を向けるとカバンからMP3を取り出して音楽に聞き入った。彼には雑音が必要だった。なるべく人と関わらず、一人だけの世界に没頭できるだけの何かが欲しかった。
『偽善なんだろうか?』ふと思いが沸き起こる。本当は席を譲りたくないって思っているのに席を譲ることが。こんなの仕方のない問いだと思いながらも、教授の言葉が何度も頭の中に浮かんでくる。
『君には社会人としてのモラルが欠けている』彼はそう言っていた。確かにそうだ。最終面接の時、休日はネットゲームをしていると答えた時の嘲笑的な面接官の顔に憤りを感じ、僕は思わず語尾を荒げてしまった。NGワードだったのだ。ネットゲームは簡単にニートや引きこもりっていう単語に結びつく。彼らは面接の殆どをイメージだけで判断する。僕は後になってそのことに気づいたけどもう元の木阿弥だった。
 駅につくとスーツを着た会社員が流れ込んでくる。一目散に空いた座席に駆け込み、イス取りゲームのように奪い合う。
「疲れているんだ」彼は思う。「みんながみんな。一日中仕事をしてたんだから仕方がない」
しかし怒りが抑えきれないほど込み上げてくる。理由はわからない。僕だって席に座りたい、だけど席を譲った。譲るべきだと思ったから譲ったまでだ。思ったことを思ったままやる、僕は今も昔もそうやって生きてきたんだ。
「モラルって何なんだ?」僕は悔し涙をこらえるのに精一杯だった。「モラルっていうのは嘘をつくことなのか?」
しばらく考えてみたがやはり理解できなかった。彼の心は単純だったので老人に席を譲ることと、他人と波風を立てない言葉選びがどう繋がるのかが理解できなかったのだ。ただ彼らはおどけて踊っているだけなのに、稔にはそれが真面目くさった儀式のようにも思えた。


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