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犬飼根古太さん

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性別 男性
将来の夢 どれだけ掛かっても作家になることです。
座右の銘 井の中の蛙 大海を知らず されど、空の深さを知る

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純情ボート

19/05/21 コンテスト(テーマ):第169回 時空モノガタリ文学賞 【 純情 】 コメント:1件 犬飼根古太 閲覧数:96

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 その村には「クロフネ」と呼ばれる小さな黒い舟があった。
 なんの変哲もない古びた小舟だ。
 だが、まるで秘密基地を少年少女たちが代々受け継ぐかのように、クロフネは若者たちに受け継がれ、彼らにとってなくてはならないものとなっていた。

 先月中学三年に上がったチハルは、黒い詰め襟の制服の胸元を少し緩め、苦しそうに告げた。
「俺、高校は……都会のとこに行こうと思うんだ」
 浅い入り江に浮かぶクロフネが、波に揺れるちゃぷちゃぷという音だけが響く。
 静寂の中、息を詰めたかのような表情のまま固まったミチコは、やがてゆっくりと問いかけた。
「……冗談、よね?」
 聞き返しながら、なんとか微笑もうとしたのだろう。わずかに口角が上がる。
 だが堪えきれずしゃがみ込んで、わっと泣き出した。
 クロフネは、狭い村で秘密の相談ができる数少ない場所なのだ。親や教師には内緒で、順番待ちができているほどだった。
 そんな場所にわざわざ連れてきて冗談を言うはずがない、とミチコもわかっていたのだろう。
 春、クロフネの利用者は増える。
 若い恋人たちや親友同士が二人きりで乗り込むのだ。
 周囲にいるのは鳥と魚だけ。
 寂れた港町といっても、昼間どこかで立ち話でもしようものなら、翌朝どころか、その日の晩には、各家庭に晩飯時の話題を提供することになってしまう。
 ミチコも、もしこれが学校や道端で言われたことなら、泣くのを堪えただろう。
 だが数百メートル以内にいる人間はチハルだけ。
 入り江の岸には、漁師たちが網で作業しているが、顔さえもろくにわからないほど離れている。
 ミチコは存分に泣いた後、立ち上がってチハルの胸にすがりつき、引き止めるように言った。
「……どうしても?」
 かすれた涙声は、ウミネコの声にかき消されそうなほど小さい。
 濡れた瞳で見上げられたチハルは、辛そうに視線をそらした。
「俺、落ち着かないんだ。この狭い田舎が、この詰め襟みたいに窮屈で仕方ない」
 ぐぃっ、と自分の首元に人差し指を入れて間隔を広げる。
「狭い村でみんな顔見知り。こうして密会できる場所はクロフネくらいだ」
「それは言いすぎよ……」
 ミチコはそう言ったものの、声は弱々しい。
 常に道ですれ違う人同士が、名前を呼んで挨拶をするほど親密なのだ。
 それを息苦しいという気持ちは、村の若者なら誰もが持っているものだったろう。だからこそクロフネに順番待ちができるのだ。
 ミチコは曖昧に頷いた。
「タクヤ君は知ってるの? 親友でしょ」
「ああ。タクヤは幼稚園からの付き合いで、大親友だ」
 村にいる少年少女たちは、たいてい同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学に通う。別れることが多いのは、大学進学の時だ。
 あまり進学熱が高くない田舎では、わざわざ離れた街にある進学校に通う者も稀だった。
 勉強ができたチハルの進路は、例外的なものだった。
「タクヤにはまだ言ってない」
「怒るんじゃない?」
「どうかな……。でも!」
 力強い声を出しチハルに、ミチコはびっくりしたような目を向けた。
「何?」
「まずは、ミチコに納得してほしいんだ! ミチコは近所の高校に進学するんだろ? 待っていてほしい。そして大学生になったら、都会で二人暮らししようぜ! きっと楽しい生活ができる! 大学生になれば親も文句言わないだろうし……!」
 両肩を掴まれたミチコは、先程まで泣いていたのとは別の意味で赤くなったようだ。
 熱烈な告白に、ミチコはまた涙を流した。
 だが先程までと涙の意味は違う。
「――嬉しい……!」
 ミチコは下ろしていた両腕をチハルの背中に回し、抱きついた。
「クロフネに感謝だな」
 チハルは呟いた。
 ミチコの心を動かしたのは、先程の告白のおかげだろう。
 だが、もし道端や校舎裏などだったら、あそこまでの大声を出せなかったに違いない。
 周囲には誰もおらず、声だって絶対に誰にも聞かれない。
 もし入り江の岸からこちらを見ても、クロフネに乗るのが誰かまではわからないだろう…………。

「おぉ、おぉ……、小岩井んとこのチハル坊主が、田中のとこの次女を抱きしめてるぞ、……ほら、名前はなんだっけ?」
「ミチコだろ、ミチコ」
 網を繕う作業の手を止めてまでクロフネに顔を向けている漁師に、別の漁師が苦笑しながら言う。
「クロフネか、懐かしいな……。入り江までの一本道のせいで、誰がクロフネに乗り込んだかすぐわかるってのに気づいた時は赤面したが……」
「ところで知ってるか? あのクロフネをカフェにたむろしてる爺様連中がなんて呼んでるか」
「さぁ、なんて?」
「『純情ボート』だとさ」
 浅黒い漁師たちは顔を見合わせて、白い歯を見せて笑い合った。


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このストーリーに関するコメント

19/06/26 タック

拝読しました。
若者が唯一密会できる場所、クロフネ。その特殊な場所で繰り広げられる青春には淡さを感じましたが、同時にある事実がオチで明らかになることで、チハルくんの抱いている息苦しさ、村特有の閉鎖性は正しいのかもしれないと思いました。
深い作品だと感じました。読ませていただき、ありがとうございました。

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